80ばあちゃんの戯言

聞いてほしくて

家具と私(41)

2012-03-26 09:06:47 | 家具
 久しぶりに昔やっていた家具の仕事の話で

ある。

 山形の家具会社の副社長さんと新宿の

Kデパートでお会いすることになって、私は

家具売り場でお待ちしていた。

お約束した時刻に中年の身なりのきちんとし

た紳士が颯爽と現われた。

お話してみると、トテモ頭の良い方であると

すぐわかった。 中々近代的というと、すごく

古い言葉だが、ともかく新しい時代を背負って

立てる方のようだと、私には期待が膨らんだの

だが、それから程なくして、忽然と姿を消され

たのでびっくりした。



その会社を始められた社長は戦後まもなく山形

で、卓袱台を作って東京の青空市場で売り出さ

れたそうで、それが良く売れたので東京に営業

所を作られたのが、当たって、新庄に大きな工

場を建てられるまでになられたが、残念なこと

に娘さんがお一人で跡継ぎがなく、娘さんに

婿さんをとられたのだが、欲に眼がくらんだ親

戚が寄ってたかって娘婿の副社長を追い出した

と言う訳らしい。

本当にいやーな気がしたが、それからが大変だ

った。東京の営業所長の上に支店長だかなんだ

かお偉いさんがこられて、それまで好意的だっ

た、所長さんの態度ががらりと変わった。

私に話していたことを、その方が入室された

途端、180度変わったことを平然と言われる

ようになったのである。

(つづく)






家具と私(56)阪神大震災と私の家具(その2)

2011-03-25 14:09:02 | 家具
 ところで、その後、其の社長さんが、なんと静岡の家具業界のみなさん

を前にして、いかにして、家具を阪神大震災でも倒れなかったようにし

たかと言う講演をされたという話を聞いてびっくりした。

 社長さんはなにも知らなかったわけで、何もしていなかったし、第一、

家具も私の考案したもので、配送はそこの会社に頼んだが、私の言った

通りにしてくれただけであったのに、どういう風に話されたのですかと、

其の会社の従業員の方に伺ったらば、何でも上にゴムを詰めたと言って

黒板に図まで描いて説明されたということであった。

もちろんゴムなど挟むような見掛けの悪いことは私はしていなかった。

それを聞いた静岡テレビが社長にテレビ出演を依頼したそうで、私の

名前は一切出ず、社長さんのお手柄ということになったようであった。

それテレビから、お客様から注文が殺到したと話してくれたので、私は

それならお客さんを私に回してくださいといったのだが、一軒だけ

二世帯住宅のお宅の話を持って来てくれたのだが、それは特別に難しい

問題があったので、ご自分たちの手に負えなかったので、私のところへ

話を持ってきたに過ぎなかったようであった。




 其のお宅は三階建てで、そこのお宅へ伺って見たら、一階が会社、二階

が老夫婦、三階が、若いご夫婦とお孫ちゃんの二人のお住まいで、壁面

収納をしてくれといわれた場所の真ん中に太くて立派な丸い大黒柱が立っ

ていたのである。 

 そのところは壁面から25センチ出っ張っていたので、彼らは面倒だか

らと、私に話しを持ち込んだのだと私は思った。


 それでも、ちゃんと、みなさんのご要望を承って、表から見たら、大黒

柱が見えないようにしかもその前に収納もちゃんとできる工夫をして、

壁の前に壁面いっぱいの使い勝手の良い収納家具を作らせていただいた

のである。

とっても喜んでいただいたが、私は複雑な気持ちだった。

 それでも、もし、今後なんか家具の問題でアフターサービスをしなけれ

ばならないときがあるとすれば、、作ってもらったその会社で、アフター

サービスをさせなければならないという事を考えたら、残念ながら文句を

言えなかったのである。

         (つづく)

家具と私(53)家具金物(その1)

2011-03-11 09:45:52 | 家具
 私は家具金物についてしっかり勉強をしたいといつも思っていた。

家具金物とは家具に関するいろいろな金属部品から近頃ではそれに

取り付けたりするものも言うようであるが、私は家具専門誌を買って

読んだり、金物を扱ういろいろなお店が出るあちこちの展示会には

できるだけ出かけて行って、実際にいろいろの金物を手に取ったり、

お店の方々に使い勝手とか、私が疑問に思ったことをぶつけて、本音を

聞かせてもらったり、分厚い金物のカタログを何冊も頂いて帰ったり、

金物屋さんとかどこへ行っても私が使えそうなものをいつも探すことに

心がけていった。 中にはドイツ製などや、これはいいけれどどこに使

うか、又、それを使わないで安くていい方法はないかとか、図面と数字

ばかりの其のカタログを楽しみながら読んで考えていったが、夫はある

時ひょいと後ろから覗きこんで、

 "お前。よくそんなものを見ているなあ。俺はとってもそんなものを見

 る気はしないなあ。”とのたまわった。



 わたしは、それをどこに使うか、どの位置に使うかと言うことにも

一ミリでも大切に考え、実験して見たり、試行錯誤を繰り返していった

のである。



 昨日の洋服ダンスのところで使っていたネクタイ掛けは、ずいぶん金物

をあちこち探し歩いた結果見つけて買ったのだが、いつでも買えると思

っていたものだったが、それがある時なくなって、買った金物屋さんに

これは今は作らなくなってしまったものだと言われて、がっかりし、家に

残っていたネクタイ掛けを使った時についていた小さなタッグに実用

新案の番号が書いてあったのを思い出し、特許庁へ行って一日がかりで

考案者を探してきて、お電話したら、もう作る気持ちはないので、そんな

に気に入って下さったら、もう実用新案の期限も切れているのでどうぞ

ご遠慮なくお作りくださいと言われたのである。

で、それを扱っていた金物屋さんと交渉してまだ、ネクタイ掛けの木で

作った小物入れの部分が多少残っていたので、それに金属の部分を足して

作ってもらうことができた。

私は自分がいろいろ考える立場の人間で、しかも、アイデア料をごまかさ

れて払われなかった経験が多いので、私自身は絶対そういうことをしたく

なかったのである。

 自分の欲ばかりを考えて、アイデア料を払わない人ばかりが増えると、

世の中せっかく努力して、いいものを送り出した人々が損をしが不幸に

なるのでは、いい世の中とは言えないし、次に又何かを考えようという

意欲が減退してしまう。 それでは発展していかなくなるではないかと

いつも思っていたのだが、明日は、本当にひどい一例をお目にかけま

しょう。

(つづく)


家具と私(52)

2011-03-10 18:34:31 | 家具
 

 さて、洋服収納の方であるが、左側は婦人用とし、真ん中のは紳士用,

右のは両用のつもりで作った。

婦人用には上置きに和服用の桐のお盆を5枚入れ,上置きと下の本体は

連結金具で取り付けた。

扉裏には左側に鏡。その下には小物入れで、普段使いのイヤリング等を

入れてあるが、其の奥にはフックで埃払いようのブラシとか小さな

箒をかけてある。その下にはパイプを取り付けてマフラーやスカーフを

掛けたが、このパイプは起毛ネクタイ棒と呼ばれるもので シルクの

スカーフを掛けてもずり落ちないものである。

洋服を掛けてあるパイプの肩上の部分が空いているので、そこに奥行き

の浅い棚板を取り外し可能に取り付けて、ネックレスなどの服飾品を

収納したり箱に入ったお扇子とかいろいろな小物などを入れたりする

ように空間の利用を考えた。

 右側の扉裏には三段にパイプをつけたので、スラックスやスカート

一個のパイプに3枚づつ以上掛けられるようになった。

扉は左右どちらからでも開けられるようにした。

 真ん中の収納の上には角型のハンガー掛けを取り付けたので、洋服を

一時的に掛けられたので、洋服と他の服飾品のコーディネイトを考える

際にも便利になったし、洋服にブラシを掛けたりするにも便利であった。

(使わないときには折りたためるので邪魔にならない。)

 紳士用は上下二段に作ったが、上段の方には季節外の背広、下段の

方には季節の背広をかけるようにしたが、背の高い殿方は上部の方に

季節のものと言う風に反対にお使いになった方がいいかと思っていた。

上段の左扉の裏には上の方に季節外のスラックスなどをかけるパイプ

を取り付け、薄いスラックスなら4枚はかけられた。

其の奥には棚板を6枚取り付け、棚板と棚板の間隔を自由に動かせる

ように3センチ間隔でダボの金具を取り付けたが、この棚は奥行きが

深いので、折り畳んだシャツが、前後に二重に入れられるので、季節

外のものを奥に、季節のものを手前に入れるように考えた。

奥の方に入れたものを取り出しやすくするには、下にプラスティック
 
の板を敷いておくとスベリやすいので、どんなに積み重ねても、入れ

やすく取り出しやすいようになった。

上段にも下段にも、スーツをかけるパイプの肩上の奥側に取り外し

可能な浅い棚板を取り付けたので、シャツなども入れられ空間を無駄

なく使うことができるようになった。

上段にも下段にもスーツの下側の空間にお盆を一つづつ入れていたが、

スライド式で手前に引き出せ、それぞれ動かせる仕切りを付け、上の

方には、夫が会社から帰ったときにポケットのものを出しておくスペ

ースなどを作ったので、翌日上着を替えても、其のお盆の中を見れば

忘れ物がないようになった。

下側のお盆には夫の下着をシャツとトランクスと一日分をひと纏め

にして畳んで入れるようにしたので、一回で両方取り出せるので、

朝の忙しいときに時間短縮になった。

其の横の仕切りの中にはソックスも入ったので、この箪笥の前に

立てば一目で全部が判るようになっていた。

下段の手前には角型のハンガー掛けがとりつけられたので、其の日着る

スーツとか脱いだ服を掛けることもできた。右側の扉裏には上に帽子

掛けと鏡をつけた。

 これはネクタイを結ぶときに便利で、其の傍にはフックが二個ついているの

で洋服用の二種類のブラシが掛けられた。

下のお盆の中には上のパイプにかけた洋服を取るのにハンガーを引っ掛けて

らくらく取れるよう鈎のついた長い棒状の物を入れていたので、上のスーツ

も楽に取り外しができた。

下段に左側には長いコートを入れられるように、上段との間をつなぐ空間

を考えたのである。このコートのパイプは一番下の棚板の下側に取り付

けたので、棚板の位置によってはもっと長いコートも掛けられるように

なっていた。下段の左側の扉裏にはネクタイ掛けがつけてあるが、これは

下のネクタイをはずしても上の方のネクタイが落ちない仕組みになってい

た。上にはネクタイピンが入った。ベルトなども掛けられる。

扉は上下とも左右どちらからも開けられる仕組みであった。

右扉裏には小物入れがあり、カフスボタンなど入り、その下にはマフラーが

掛けられるハンガーを取り付けた。

右端のロッカーには上のお盆には私の帽子などやハンドバック、その下には

短めのコートやツーピースを掛け、その下のお盆にはナイロンの靴下とか

ハンカチなどいろいろと仕切りの中へ分けて収納できるようになっていた。

その下の引き出しには冬用の厚いセーターなどが入れ、扉裏には帽子や

ハンドバッグ、小物入れつき、又、スラックスも掛けられるようにした。

上下左右は連結金具で取り付け、天井との間に空間がないように薄い木

を取り付けたので、地震対策も万全であった。

扉は楢材を用い、中は桐で作らせていた。

 扉の蝶番はすべてスライド蝶番にし、130度開きにしていた。

これは90度開きだと扉を開いた時にどうも狭苦しい感じで、使い勝手が

よくないし、180度開きなどのものもあるが、あまり広すぎても、隣で

一緒に着替えなければならないときには却って邪魔になるかと思った為

である。




 この洋服ダンスをお客様が1本分で其れまでの間お使いになったていた

洋服ダンスの三本分が入ってしまったと喜んでくださったので、それから

”三倍入る洋服ダンス”と言う言葉をキャッチフレーズにしたのである。


家具と私(51)

2011-03-09 07:10:12 | 家具

横浜に引越したときに家中の家具を新しく作り直した。

左側に見える茶色い壁面家具が夫と私の洋服の収納である。

私の家は最初から家具の展示会場として使う考えだったので、家具は

すべて見本と言う考えで、家具の色や、材質はわざといろいろいろの

ものを使うことにしたのである。

右側の白いものは布団収納庫で材料として使ったのは化粧合板で中には

夫は右側、私は左側とそれぞれ一人づつのパジャマ類や枕カバーの替え

や敷布、布団カバーなどの寝具類が収まるように考えてあったので、

お布団を敷くのにも、敷布団は、ただ、そのまま手前に引き出せば敷く

ことができたし手間がかからなかった。

真ん中は再度ボックスの代わりのもので、上に見える箱には、寝る前に

必要な小物類や夫が読む雑誌や本等も入るように仕切りがあって、中の

段には夫のラジカセなどが入り、其の棚板の下には、子供さんの机につ

けてあるコンセントつきライトを取り付けていた。

 それを手前に好きなところまで引き出して使う仕組みにしていたの

である。

こちらを化粧合板にしたのは、いづれ、私たちが年を取ったときに

ベッドにしなければならないと思っていたので、其のときには捨てる

つもりであったのと、白っぽい家具を好まれる方もあったので、家具の

見本としてただ真っ白い色だと、なんだか冷たい感じになると思って少し

黄色みを帯びたアイボリー色にしたのである。

だから左側の家具の扉には壁感覚になるように、あまり飾りをつけず、

シンプルに仕上げた。

他の部屋の色は濃い茶色のものも作っている。

なるべく部屋の中の色数が少なくてすっきりさせたかったので、

カーテンを家具と同色にしてみた。

一番下の引き出せる箱にはマッサージ器や懐中電灯、テイッシュ

ペーパーの箱など仕切りの中に入れられた。

 この部屋が十畳で、隣の部屋が十二畳なので、何かのときに

ベッドでは場所をとりすぎるので、布団収納を考えたということも

あるのだが、この家具は取り付けにしなかったがそれでも奥行きがある

ので、地震には強いはずだと思っていたのである。

 (つづく)

中国残留孤児の里親に感謝する会(その3)

2011-03-07 15:26:31 | 家具
 そこで、其のお金をどこへ持っていったらいいのか判らなかったので、

NHKに電話して伺ったら、埼玉に中国残留孤児帰国促進センターが

あるとお聞きしたのだが、寄付を残留孤児の里親に方々にお渡しした

いと思っているのだと言ったら、それでは、虎ノ門にも残留孤児関係

の事務所があるからと教えて下さった。

 そこへ電話して伺ったが,一つの部屋だけで何人かが事務をしてお

られるようだったが、60代ぐらいの男性が一番上の方らしく応対して

くださったが、私がこういうわけで来ましたと言うと、それでは領収

書を書きますと言われたのだが、其の後で、どことかのおばあさんが、

家を売ったお金の6千万円をそのまま寄付したとかと言う類のお話を

延々とされたのにはびっくりした。

わたしはたった10万円を持って行ったに過ぎないのだが、何だか嫌な

気がしたので、わたしは友達と一緒にこのお金を貯めたので、できれ

ば其の方々が日本に来られるときに自分と、友達とで其の方々にお渡

ししたいので、其のときに呼んでいただきたいのですとお願いした。

最初はではこの夏に来られますから、其のときにあなたをお呼びしま

しょうと言ってくれたのだが、その後、電話でちょっと無理なので

お渡ししている写真を撮ってお送りしますと言うことになった。



 其の夏、テレビの放映で、残留孤児の里親の方々が日本にこられた

ことはわかったが、でも、結局写真はおろか連絡もされなかったので

ある。

 

 その代わりに、其の頃から怪しげな仏壇のセールスのパンフレットや

いろいろな売込みの手紙が増えていった。

中国残留孤児の里親に感謝する会(その2)

2011-03-06 05:02:19 | 家具
 それから毎月一回私の家で不用品交換会が開かれた。

其の二、三日前から品物が集まりだす。 其の当日は朝から品物を並べる

場所つくりと、大勢の方に坐って頂くために、家の中の家具を移動したり、

お掃除したり、ご飯を炊いたり、お茶の用意をしたり、一人でてんてこ舞

いになった。

本棚の本を出して商品を並べる棚にしたり、ステレオが邪魔になるので、

真ん中に持ってきて商品を乗せる台にしたりしていたのだが、二部屋を間

の襖をはずして、つなげて使えるようにして、周りに座布団をぐるっと並

べ、真ん中に商品を置くことにしていた。


必ず、其の日には県庁へ家具を出店しているときにご一緒になった業者

さんにお願いして、炊き込みご飯の素やら、おつまみ類を持ってきていた

だいて、それも皆さんに買っていただくことにしたが、新鮮なのでとても

喜ばれた。

必ずそこの炊き込みご飯の素を使ってご飯を炊いて皆さんとご一緒に頂い

たりおつまみやらお茶菓子などを頂きながら、何杯もお茶を飲んで、長い

ことおしゃべりが続いたのだが、朝早く来て、途中でご用を足しにいかれ

て、又、午後から来られる方もあったり、好きなときに好きなように出入

りして、一日を楽しんでおられたのだが、困ったことが一つあった。

それは盆暮れの後には品物が多く集まるのだが、其の後には、どうしても

品物が少なくなってしまうのだ。

やっぱり少しでもいいものを安く買えるというのがお楽しみの一つでも

あるので、私なりにいろいろ考えていたのだ。

それで時には、前の日に、茅ヶ崎の家から平塚の問屋さんまで自転車で

買い物に行って、食料品を30キロ近くも買ってきたことが度々あったが、

さすがに自転車に乗るのは怖いので、平塚大橋の上を、たくさんの荷物

を積み込んだ自転車を引いて帰ったりしていたのである。

又、スパーの品物より安くないといけないと思い、スーパーのチラシには

いつも気をつけていた。

私の幼稚園の先生時代の教え子の働いている紅茶のお店でいろいろのハーブ

などをフレンドしているお茶がおいしいから、扱ってくれと言われて扱った

こともあった。

そんな風にやっていたのだがみなさんからのお心使いの差し入れもあったり

したのだが、ほとんど皆さんの飲み食いしていただくものは私の出費にして

いたのにも係わらず、何せ、どこよりも安い値段で、其の一割を頂くと言う

ことなので、なかなかお金がたまらなかったが、約4年半ほどの間に4万数

千円になっていたので、それに私が足して10万円にして寄付することにして、

皆さんにご披露した。

(つづく)

中国残留孤児の里親に感謝する会(その1)

2011-03-05 07:10:39 | 家具
 家が建って引越しをすることになって、私が其の前にどうしてもやら

なければならないことがあった。

それは、団地での生活の中で数年前から毎月一回私の家で行っていた会

を閉じなければならないと言うことであった。

 其の会と言うのは、ある年のお正月過ぎに、団地の中のお友達にバス

の中でたまたまお会いしたときに、暮れに頂いたお歳暮が狭い団地生活

では邪魔になって仕方がないのだと言う話を聞いた。 実は、私も、

其の前年の暮れに頂いたお歳暮が、何故か油のセットが多くて困った

なあと思っていたところだったので、交換会でもしたらどうだろうかと

言う事になって、結果、私の家で"不用品交換会"なるものをする羽目に

なった。

 当日十人あまりが家に来られて、いろいろなものを持ち寄られて、

お茶を飲みながら交換をしたのだが、当日出席されなかった方からも、

品物が寄せられたので、ただでさえ狭い家は一杯になった。

 皆さんから、

 ”場所を提供されたりお茶を出していただいたり大変だから、

 安い値段をつけて売って、それをお宅の会場費にして頂きたい。”

 と言う声があがった。

 そこで、私は、ふと、かねてから考えていたことを皆さんにお話した。

  私は、戦争中戦災にあって大変な思いをしていたけれど、中国の方達

は、同じような大変な中、敵国人であった日本の孤児達を引き取って大事

に育ててくださったと言うことはどんなにご苦労があったことか、私には

到底できることではないので、中国の残留孤児の人たちをお世話してくだ

さった中国の里親の方々にほんの少しでもお礼がしたいと思っているのだ

けれど、なかなかできないので、皆さんからいただく、そのお金を貯めて

おいて、ある程度纏まったら、寄付したいと思うのだけれど、どうで

しょうかと聞いたところ、皆さんにご賛同をいただけたので、それでは、

何処よりも安い値段を付けていただいて、其の売り上げから一割を頂き

たいと言うことになって、毎月一度其の会を私の家ですることになった。

 団地生活では、狭いので、なかなか大勢が集まってゆっくり歓談する

と言うことができにくいので、とっても楽しかったと皆さんが喜ばれて

散会になった。

 (つづく)


家具と私(47)特技(?)

2011-03-03 00:32:00 | 家具
 初めて家事机をデパートの展示会に出せてから三日目に母がなくなって

其の遺品を整理したり、お香典のお返しに一ヶ月ぐらいかかってしまった

が、ある日、デパートへ出かけて行った時に一滴の下血があった。

翌日婦人科で、検診を受けたら、子宮筋腫で、拳骨の大きさになっている

から、手術してとりましょうと言われたのである。そう急ぐこともないと

いうので、夫や息子たちが夏休みに入る時がいいということになって、

其の年の7月25日に入院した。

 夫や息子たちがとっても一生懸命働いてくれて、何の心配もなく十日間

の入院生活を終えて帰ってきたのだが、先生のお話では

 ”卵巣に水が入っていましたから、それも一緒にとっておきました。”

と言う事であったが、卵巣がないとなると、女性ホルモンが出なくなるの

で、体中が痒くなったり、体が硬くなって、急に体を動かすことができ

なくなったり、急に汗がどっと出たりするのであった。

たとえば、電車に乗って、次に降りようとする時に、早めに立ち上がって

おかないと降りそびれてしまうのだ。

体の痒みと一口で言っても、生易しい痒みではないので、人様とお話させ

ていただいているときが一番辛かった。 必死で太股に爪をたてるような

ことをしたり、体のどこかをつねってみたり、それでもこらえるのが

やっとであった。

 そんなときに、東京のデパートに呼び出され、家事机の件で近くの

デパートに出し抜かれてしまったのは、彼らが油断していて、他ではでき

ないだろうと高を括っていたからであったのだが、それをやつあたりされ

て、悔しい思いをして帰ってきたのだったが、其の帰りに伊勢原の工場へ

寄らなければならなかったので、小田急線に乗った。

其の時、猛烈な痒みが襲ってきて、本当に電車の中の方々がびっくり

されているようだったが、もう太股やあちこちきつくつねっても、どうに

もならないほど苦しんでいたが、それでも伊勢原の工場へ行ったら、社長

のご機嫌が悪くて、まったく理不尽な言い方で私に頭から怒鳴り散らし

たのである。

普通の人間なら、相手のアイデアで仕事をして成功したら、丁寧にもてな

すはずだと思うのだが、社長もデザイナーで家具を考える方の人であった

ので、私の家具がそれほど、爆発的に売れたので、やきもちを妬いたのだ

と後で課長さんが言い訳をされていたが、私は体中が、それまでに体験し

たことがないほどかっかしていた。

 私は外でどんな辛いことがあっても家に持ち帰ることはなかったが、

其の日は自信がなかったので、どこかで発散していこうと考えて小田急線

の終点藤沢駅に着いた時に近くのデパートの5階にあったゲームセンターに

立ち寄ることにしたのである。 それまでゲームセンターなどへ一度も足を

運ぶ暇などなどなかったのだが、通りがかりにチラッと見ていた”鰐たたき”

をやってみようと思い立ったのだ。

 夕方の5時半を少し回っていた頃だったが、ゲームセンターには殆ど人が

いなかった。

 私は百円玉を入れて出てくる鰐を一匹も逃さず叩いていった。

 ”わあ、おぬしやるなあ。もうゆるさないぞ。”と機械が言って

 今度は矢継ぎ早に鰐が出てくるようになった。

 私が必死で叩いていたら、本日の最高点と出た。

と、そろそろ会場を片付け始めていた係員の男の人が、何時の間にか

私の傍へ来られていて腕を組みながら見ていたのだが

 "奥さん、すごいですな。 男だって、なかなかこうは行きませんよ。

 たいしたものだ。”と、言われたのである。

 私は思わず苦笑してしまった。 ただ、腹だち紛れに鰐さんには何の罪

 もないのに叩きまくったのだから。 (笑い)

家具と私(46)

2011-03-02 06:35:11 | 家具
 私たちは家を何とか作りたいと思ってあちこち探したり

土地売り出しに申し込んだりしていたのだが、中々当たら

なかったが、次男が会社で一緒にお弁当をいただいていた

方に情報をいただいて申し込んだ土地が当たり、家を建て

られることになって、二世代住宅を建てることになり、

私は自分たちの住む一階を自分で間取りなど一切を考え、

また家中の家具を全部自分で考案した家具を入れて、家を

ショールームにすることを考えたのである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


或る日家が出来上がって引渡しがあると言うので、みんな

と出かけていった。

私は念のためビール券を数枚づつ入れた封筒をいくつも用意

していった。

 

 木の香も新しい家の中で建築会社の担当者や其の上司など数人が来られ

ていて、水道局の関係者も来ておられたので、私は御一人づつビール券の

入った封筒を渡していった。



 ”電気とガスの会社の人たちがが全部揃うまでちょっとお待ちください・”

と建築会社の人に言われて待たされていた。






 暫くしてやっと揃ったのでと言うことで、話が始まったのだが、電気や

水道、ガスなどのそれぞれの会社の方と私たちが、何時工事をしてもらっ

たら私たちが立ち会えるのかと話し合ったのだが、電気や水道会社の人は

すぐにやってくれることになったのだったが、ガス会社の人だけが、機械

は持ってきたが、ホースがないので、今日はできないと言って、建築会社

や、私たちの都合とがどうしてもかみ合わなくて困っていた。



 では暫く中断して考えてみましょうと、建築会社の方が仰って、休憩を

取っている間に、ガス会社の方が一人でおられるところへ私が近づいて

行って、封筒に入ったビール券を手渡したら、とたんに顔つきが変わって

 "奥さん大丈夫ですよ。ホースは奥の方に入れてありますから。”

と言ったのである。

 私はそれまでホースがないからと、あれ程までいろいろと頑張って居ら

れたのに、それから一度も車のところに行っていないのに、と思って嫌な

気がしたが、それでも、まあ何とかうまいくならいいと思って、なんとも

言わなかった。


 話が再開して万事うまくいったのである。 電気会社の方にはとうとう

ビール券を渡しそこなってしまったのだが・・・・・。