80ばあちゃんの戯言

聞いてほしくて

シンゴニューム(続)

2009-05-31 15:10:32 | 思い出の北京
 先日お話しした18年以上も私を見守っていてくれるシンゴニュームです。

 ワンちゃんたちは私が作ったもので、手足は多少動かせます。

 まだ、あまり上手には出来ていませんが、そのうち上手に出来れば、うちのワン

 ちゃんを作ってご紹介しましょうね。


体重計

2009-05-30 09:38:29 | 思い出の北京
1993年の話

 ある晴れた日、私は誰か中国語の勉強のお相手をしてくれる人はいないかなあと思って、家を出た。

 ふらふらと歩いていると、国際貿易中心を少し出て行ったところの芝生に40がらみの女の人がしゃがんでいた。

 彼女の前の舗装した道路の上に体重計が一つ置かれてあり、傍らに、

 ”体重測定 一回10元”と、立派な字で書いた半紙が置かれていた。
 
 墨色も良く、勢いもあり、さすが、本家本元の中国の人の書だなあと感心した。

 私は日本にいるときは毎日家で体重計に乗っているので、全く体重など測る必要はなかったが、話しをして貰うためには10元ぐらい払ってもいいではないかと思って、バッグから10元をだして、

 ”いいですか?”と、彼女に声を掛けた。

 彼女はにっこり笑って頷いた。

 靴を脱ぎ、はかりの上に乗った。

 彼女も数字の上に目をやりながら、

 "この体重計は日本のナショナルの製品だから、絶対正確だ。”と胸を張って見せた。

 私は体重計から下りながら、

 ”この字はすばらしいね。”と褒めた。

 彼女は嬉しそうに顔をほころばせて、

 ”私の父が夕べ書いてくれた。父は上手だから、何時でも、何でも書いてくれるとといった。私は彼女の横に座り込んで、

 ”ちょっと話しをしてもいいかしら?” と、言っていると、耳元で急にカッ、カッ、カッと、ハイヒールの元気な音がして、彼女の前に10元札が抛られた。

 若いすらっとした美人が靴をはいたまま、体重計の上に乗っていた。
 
 そのとき、よせばいいのに、
 
 ”あ、この奥さんと同じだ!”彼女が言ったのである。

 勿論体重が同じであるからといってすべてが同じであるわけがない。チビでデブの私とすらっとして美人の彼女では全く違うのだが、女の子は憮然とした表情で、その場を去っていった。

 私は何か悪いことをしてしまったような気がして、そっと離れた。



 

税務署

2009-05-29 07:27:30 | 思い出の北京
1993年頃の話

 日本に長いこと滞在していた中国人に案内されて、北京の町を歩いている時、ふと、彼の流暢な日本語の意味が良くつかめなくて、効き間違えたのかなと、思わず立ち止まって、

 ”それって、どういうこと?”て、聞き返した。

 落ち着き払った彼は、

 "年末には中国では全部の事務所に会計監査が入るのです。”と、重ねて言った

 “へーエッ!!!” 

私の頭の中は混乱をきたした。

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 注(1) 
 此処でちょっとご説明をしないと、お若い方々にはごな納得がいかないと思うので・・・。

 当時の中国ではみんな国営公社とも言うべきものばかりで個人経営は認められていなかった。ということは、みんなお役所ではないかと私は思っていた。その後、個人企業が認められたので、今の発展につながったようだ。

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 ”だって、中国の事務所って、日本で言えば、県庁や、市役所、警察のように、公のところなんでしょう?”


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 注(2)

 その頃は発覚しなかっただけなのか、今のようにいろいろなお役所で悪いことをする人は日本では余りニュースになっていなかったのである。

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 ”そうですよ。人間自分の懐を肥やしたいと思うのは当然ではないですか?”

 
そういうものかなあ。私の知っている県庁や市役所のお役人、それに警察の方々のお顔が目に浮んできた。
 
 日本じゃとても考えられないと、当時、私は思って居た。

 その後、中国のお国事情が変わり、個人経営の会社が増えてきた。
日本の中でもいろいろな犯罪が増えてきた。日本ではとても考えられないと思っていたのに残念ながら、そう言う方向に多少動いているようだ。

 中国でも、日本でも、本当にまじめに働いている善良な人々が、そう言うことに一番悩まされたり、悔しい思いをしておられるのではなかろうか?

 一人二人の不心得な人が居たとしても、そのために多くの善良な人々を同列扱いし、白い目で見ることだけは本当に慎みたいものである。


ゴキブリ

2009-05-28 11:39:17 | 思い出の北京
1991年の話

 夫の駐在が一年を過ぎた頃、たまたま、本社との連絡で日本に帰ってきた夫が、

"ゴキブリって、どうしたらいいのかあ。”と言い出した。

 え、あの綺麗なところにゴキブリが出るのかなと思いながら、ゴキブリほいほいをいくつか買ってきて夫に渡しておいたのである。

 私にとってのゴキブリはたまにちょろちょろと一匹出てきて、大騒ぎになるというイメージしかなかった。

 その後北京へ行って見て驚いた。昼日中からゴキブリがキッチンの壁を伝わってぞろぞろ歩いているのである。何百匹、いやそれ以上だったろうか、壁がゴキブリで埋まっていた。

 日本で見たゴキブリとは種類が違うようで、ちょっと小型のものであったが、、集団でのゴキブリなんて初めて見たし、ぞっとした。ライトをつけると、一応隠れようとはするのだが・・・・・。

 私は無我夢中でスリッパを脱いで、それで、叩いて回った。

 2,30分も格闘したのだろうか、第一ラウンドは、どうやら、私のKO勝ちで終わった。

 隣の部屋に避難していた夫が顔を出した。

 "女は強い!”

 それに反論できるパワーはもう私には残っていなかった。虫の息(?)で

 ”ねえ、ベッドルームにもゴキブリは出るの?”

 "いや、キッチンだけだよ。

 マア、これで当分出ないかなあと思いながら、夫と買い物に出た。

 私はもうすっかりゴキブリのことを忘れてご機嫌で帰ってきたら、私たちを出迎えてくれたのは、暗くなったからであろうか、更に数を増やしたゴキブリの大群であった。

 ぐうの音も出ないというのはこのことだろうか? がっくりときて、その場にへたへたと坐り込んでしまった。

 それから、ゴキブリ軍との戦いが三日間続いた。さすがに4日目にはいなくなった。

 夫の話によると、この前、全館一斉にゴキブリ退治の薬をかけたそうだが、偶々自分は日本に帰っていたので、薬をかけていなかった自分の部屋に全員集合となったのだろうという事だった。 思っても居なかった貴重な(???)体験をさせてもらったものである。
 
 

ばあちゃんと枇杷(1)

2009-05-27 18:27:17 | 最近のできごと
今朝、雨戸をガラガラと開けたら、、右斜め上方でがさがさと音がした。烏である。

 庭の大きな枇杷の木のてっぺんで、多分枇杷の実の色づきでも見ていたのではなかろうか。 物音に驚いて飛んでいってしまった。

 この家を建てた翌年の五月、とてもすばらしい枇杷をいただいたので、食べた後の種を試しに蒔いてみたら、枇杷の芽が出て、ぐんぐん育っていった。其れを何とかいい実がなる様にしたいと思って師匠(勝手に私が決めているのだが)に電話で相談した。(確か種を蒔いてから2,3年後のことだったと思う。)

 枇杷は接木をしなければいい実はならないよと,彼は言い、家に田中と茂木と言う品種があるので、取りに来い。接木の方法も教えてやるからと付け加えた。

 小雨の降っているなんとなくけだるい日だったが、せっかくご親切に枝を下さると言うので、電車やバスをいくつも乗り換えて一日がかりで貰いに行った。

 その木がいまや大木(?)になって、去年はずいぶん取れて、ジャムや、枇杷酒などいろいろと作れたのだが、もう来年は自分で枝切りは出来ないかなあと、(実は毎年そのように思ってどんどん枝を切ってしまう私が居る)思って、大分大きな枝を落としたので、今年は多少小振りになったが、それでもたくさん実がついている。
木の上の方はお鳥様用で、と言うと聞こえはいいが、実はとても取れない高さにしてしまったので、剪定も摘果も出来ない。下の方と、中間のは、棒の先にフックを取り付けて枝がしなうようにつくったので、摘果も出来ているし、一応袋かけもしているから、まあまあな実が取れると思う。でも、今年ショックだったのは、私自身の体力が著しく衰えたのだろうと思うが、5段の脚立の一番上までは上がれなくなってしまったことだ。 二段目でも怖いのだ。この年だからこそわかることなのだが、人間て、体力が衰えると、自然に怖くなって其れをやらなくなてしまうのではないだろうか。うまく出来ていると余り言いたくはないのだが、しかたがない。私は以前脚立ごと倒れて、トマトの木をめちゃめちゃにしてしまったことがあったが、私自身はなんともないと言うほど頑丈に出来ているのだが、今は、倒れれば骨折ってことになりそうでこわいのだ。

ラーメン(拉麺)

2009-05-26 11:11:26 | 思い出の北京
1993年頃の話

 いまや、日本人のもっとも好きな食品の一つ”らーめん”は出所は中国だそうであるが、本当においしいラーメンは日本製ではないかという話である。

 "ラーメン(拉麺)の拉は、引っ張るという意味だそうで、麺生地を両手で引っ張りながら伸ばして行き、両手を開いた幅になったら、半分丈に折り、更に引っ張りながら伸ばしていき、二つ折りにするということを繰り返して作るのだそうである。

 北京へいく事になった時、いつか本場のラーメンを食べてみたいと思っていたのである。

 ある時、夫にそのことを話したら、

 "北京ではラーメンなんて見たこともないし、こちらの麺はおいしくないよ。”
と、笑われた。

 その後、北京飯店で遠縁の日本人に偶々出くわした。 お互いにびっくりするやら、嬉しいやら、ちょっとの間話しをすることが出来た。

 日本に留学しておられたご高名の中国の御婦人が、その方のお母様と日本の女子大でご一緒だったそうで、頼まれて日本からラーメンをお土産に持っていくのだと言われてびっくりした。 私が余りにもびっくりしたからなのか、手荷物の中の生ラーメンをわざわざ出して見せてくれたのである。


 饅頭もお団子も元はと言えば中国製だそうである。漢字や仏教などの伝来もありがたいことではあるが、いろいろのおいしい食品が渡来してくれたのもありがたいことであるし、多くの日本の職人さんたちの手で改良を重ね今日のさまざまなおいしい食品が出来上がっているのだと思うと、つくづく日本人に生まれてよかったと思えるのである。感謝。感謝。

 今や、本当に多くの料理研究家の方がいらっしゃる。そのお蔭で家でも結構いろいろなものが手作り出来るし、何とかできるだけ手作りでとは思っている。

 が、しかし、一人暮らしの気軽さで、つい、つい、手間を省いてしまったりすることがある。

 ちなみに今日の私の夕飯はパックに入った煮物と握りずしである。20%引きにひかれてしまった。


火災報知器

2009-05-25 06:55:16 | 思い出の北京
1992年頃の話

 夫が会社へ出かけ、暫くして、火災報知器が鳴った。エーッ。どうしよう。エレベーターは使えないはずだし、何階から火が出ているのかも分からない。夫の会社はすぐ目の前のビルだから電話してみようかとも思ったが、確か夫の会社はビルの向こう側で、窓はこちらに面していないはずであった。

 しょうがない。逃げるか。お財布とパスポートと家の鍵を持って、ともかく家を出た。

 火の気は勿論、煙の臭いすらない。階段を17階から駆け下りなければならないのか、もし下の方から火が出ていたらと思うとぞっとした。
途中で17階の若い奥さんとおばあちゃんと小さいお子さんの3人連れにあった。

 "大丈夫ですか?”と、声を掛けると、

 "どうぞ、お先に。”と、言われた。

 そこへお掃除に来てくれるおばさんが階段を降りてきたので、

 ”火事はどこ?”と、聞くと、その下の階をちょっと回ってきて、

 ”火事はないだろう。”と言ったが、ともかく下まで降りた方がいいだろうと思って一階まで降りて、入口のガードマンたちのところへいくと、すでに白人の女性が

"火事はどこなの?” と、質問していた。彼らは

 ”メイ シャール(事件じゃない)をただ繰り返していた。

 仕方なく、その白人女性と
 
 "事件じゃないと言われても、私たちには大事件だわね。”と、二人でエレベーターで話しながら、戻って来たが、火災報知器はどうやら17階だけに鳴らされていた様であった。

 その後、17階に住む日本人がお魚を焼いた煙で、火災報知器が鳴ってしまったようだという話が伝わってきた。

 火災報知器が鳴っても、何階から火が出ているのか分からなければ、本当にどうしたらいいのか、適切は判断は下せないと思った。

 少なくとも、自分の階より上の階なのか、下の階なのか、同じ階なのかどこかに火災状況を知らせるランプでもついていないと困るなあとつくづく思った。
何処まで燃え拡がっているのかと言う状況判断が的確にできれば、逃げられる可能性が増えるのではないだろうか?

 火災を知らせるだけであれば、ただ不安を募らせることになるだけと言ったら言い過ぎかもしれないが、その時は無性に腹が立った。
 

羊肉串

2009-05-24 11:00:20 | 思い出の北京
1993年頃の話

 中国へ行くと言うと、よく北京ダックを食べていらっしゃいと言われたものである。

 でも、私は北京ダックには余り魅力を感じていなかったのだ。何故って、日本に居ても北京ダックは食べられるではないか、もっと日本では食べられないものが食べたいと何時も思っていた。勿論夫の会社関係のパーテイでは、何回も北京ダックにお目にかかる光栄には浴していたけれども、申し訳ないけれど、私、個人としては余り歓迎していなかったのである。 其れよりも大道で売っている羊肉串とか鳥肉串の方に、より強い魅力を感じていたのだ。

 時々見かける屋台のものや王府井の店のものを横目で見てはいたのだが、何時も夫の反対にあって、あきらめていた。勿論理由は不衛生と言う事である。
確かに汚い店もあるとは思ったが、油で揚げているのだから大丈夫じゃないかと、心ひそかにチャンスを狙っていた。

 ところがである、ある日曜日夫とともに散歩していると、ちょっとした広場に、
ピカピカ輝いているかと思うほどの真新しい真っ白いキッチンカーが止まっていた。

 片側に大きな窓が開いていて、その上に張り出している日避けの白さが目に痛い。その頃の北京であんなに綺麗な車は見たことがなかった。羊肉串と鶏肉串を揚げているいい匂いが鼻をくすぐる。

 周りで立ち食いしている人々の幸せそうな顔。私の足はぴたっと止まった。夫はニヤニヤしながら足を止めて、
 
 ”俺は食わん。お前一人で食べて来い。此処で待っててやる。”とのたまわった。

 とにかくお許しが出たのに食べない手はない。私は飛んでいって、列の後ろに並んだ。

 羊の肉や鶏肉に下味をつけてから、串にさして揚げているのだが、一串20元で,
食べた後、串を返すと一本につき5元が戻される仕組みになっていた。串の長さは40センチくらいはあったかと思う。 かなり長い串に一口大の大きさに切った肉が刺してあるのだ。勿論両端には肉はついていない。 そこを手で持てる様になっているのだが、揚げたてだから、本当に熱い。

 羊肉串と鶏肉串を一本づつ買った。ちょっとした隙間を見つけて、すみませんといいながら間に入って行き、一口ほおばる。

 ”おいひい!。” 熱くて美味しいと言えないのだ。満足。満足。

 隣で両手に串を持ちながら食べていた多分30歳代の女の人が、

 "アンタ、どこから来たの?” と声を掛けてきた。

 ”私は日本人で、横浜から来たの。”と、答えると、一目でモンゴルの草原から来たかと思わせる衣類を身につけた彼女が

 
 ”モンゴリアンかと思った。”と、言ったのである。

 "もしかしたら、遠い昔にモンゴルから日本にやってきた人の子孫かなあ。”

と、私は言い、二人で顔を見合わせて笑い、がっちりと、握手した。



 

テーブルクロスを買う

2009-05-23 13:38:50 | 思い出の北京
1993年頃の話

 北京へ行く度に、毎回テーブルクロスを買いに専門店へ行った。タクシーの運転手たちは、自分の客が買い物をしたら、何がしかの手数料を手にするので、とても喜んでいた。

 とこがある日、そのことを知らない運転手が居たのである。彼は私たちが買い物をしている間に、運転手仲間からそのことを小耳に挟んだらしい。血相を変えて2階のテーブルクロス売り場へやってきたのである。そこで二人のセールスの係員と販売手数料をめぐって大喧嘩が始まった。だんだんエスカレートして、取っ組み合いの喧嘩が始まりそうな気配になった。

 "お前たち、客の前でそんな話しをして、何やっているんだ。”と、夫が怒鳴った。

 彼らは一瞬怯んだが、それでも喧嘩は続いていた。
20分ほど待ったが、中々埒があきそうもないので、私たちは車の中で待つことにして下へ降りていった。

 それでもさらに喧嘩は続いて他の客待ちの運転手たちが、何度も私たちの車へやってきて

 "まだ帰ってこないのか”と聞きにきたほどだった。

 待ちくたびれた頃、数枚の紙幣を手に、ホクホク顔で戻ってきた彼は、私たちをお金持ちの観光客と間違えて、途方もない高額のタクシー代を要求したのである。

 北京に住む夫がその金額が不当であることを分からない訳はない。


 "お前、俺たちのためにたんまり稼いだのに、その上、そんなひどいことをするのか?”

夫は烈火のように怒った。

 其れもそうだなと、彼はすぐ前言を撤回したのであった。

    皆さん。ご用心。ご用心。

王府井の大男

2009-05-20 06:37:09 | 思い出の北京
1991年頃の話

 確か二回目の北京訪問の時だったと思うが、夫が、

 "お前、まだ、王府井へ行ったことがないだろう?”と、言い出した。

 "マア、凄い混雑している所だけれど、一度行ってみるといいよ。”という訳で、日曜日の昼下がり、二人でぶらぶらと出かけた。

 国際貿易中心を出て、天安門通りに続く大通りへ出てバスに乗った。

 東単で降りて歩く。

 確かに、人、人、人である。世界中でも指折の人通りの多い地域ではないだろうか?

 やや暫く歩いていると、首から上を、人の頭の上に出している大男が遠くからやって来るのが見えた。

 気がつくと、私たちを睨み付けながら、どすの利いた低い声で

 "日本。日本。”とつぶやいている。

 とっさに男の年齢を想像してみたが、多分50歳は優に超えていると思われた。

もしや戦争中に日本兵にひどい目に合わされた人ではないだろうか?

 夫はは気がつかない。

 ”ねえ、あの首だけ出している人怖いわ。逃げよう。”

 夫の手を引っ張って、小さく背を屈め人々の中へ潜り込んだ。夫は中背、私は背が低いので、王府井の大通りから、うまく横道にそれて逃げることが出来たのである。

 肩で息をしながら、これが外国(元の敵国)で暮らすということなのだと・・・、 外国に、駐留しておられる方々のご苦労を肌で感じて目頭が熱くなった。