80ばあちゃんの戯言

聞いてほしくて

保育科(2)

2010-03-13 07:36:32 | 日記
 子供の頃家にオルガンがあったのだが、

たまに、父が弾いてはいたのだが、父はオルガン

のみならず、和楽器も、お琴、三味線、尺八など

他にも趣味の多かった人で、何をやってもそれな

りに器用にこなすので、子供達は圧倒されてしま

っていたのだろうか、誰もオルガンにさわろうと

しなかったのだ。

後悔先に立たずというが、あの時習っておけばよ

かったと思いながら、まず、子供達の教えていた

だいていたピアノの先生にお願いして、ピアノの

猛(?)特訓を始めた。

 通信教育では時間が掛かってしまうかもしれな

いと考えてどこか学校を決めなければと思ったが、

保育科に入るには12年教育を受けていなければ

いけないというので、英文科中退の証明書をもら

いに行ったが、中退というのは名簿からすっかり

消されてしまっているので、証明ができないと言

われてしまった。

終戦後は地方に住んでおられた方の中には4年で

女学校を卒業できたりしたようだったが、私は5

年生で卒業したのだが、戦後、6・3・3制度と

いって小学校は、6年(これは変わっていない)

中学校は3年、高等学校は3年と、制度が変わっ

て、私は其の上級学校を受けるためには、後一年、

学歴が足りないということになってしまっていた。

途方にくれていたら、新しくできた専門学校が

入れてくれるというので、やっとそこへ入るこ

とができた。

私達は2期生で保育科の先輩は確か6人しかい

なかった。

それでも保育科は大事な学校ということで、

国大の先生が音楽、教育心理、児童心理、体育学

など受け持ってくれるというので、安心したのだ

が、他には法学、生物学、生活科学、栄養学、

国語、英語、社会、修養(この名称がどうもはっき

りと思い出せないのだが、謹厳実直そうな(?)

先生のお顔しか思い出せないのだが)それに二年生

になると幼稚園での実習があるので、其れが増える

ことになっていた。

  (つづく)

新生姜

2009-06-03 15:33:03 | 日記

 たまたま老人たちが集まって話しをしているうちに体温の話になった。36度台の方もあったが、大抵は35度台であった。体温が下がると、いろいろな病気になりやすいと聞いた事がある。

 私も御多聞にもれず、かつては35度2分ぐらいしかなかった。普段元気なので、自分の体温がそんなに下っていようとは思ってもいなかったのだが、測ってみた時には驚いた。老人だから、仕方がないのかしらとも思っていたのである。

 ところが、大分前"百歳ばんざい!”に出られた声楽家の方が、とてもお元気で、凄いなあと思って拝見していたら、毎年、新生姜をたくさん買いこんで、しょうが糖を作られ、毎日食べておられると言っておられたので、私もしょうが糖を作ったり佃煮やら酢のものやら、なるべく毎日しょうがを取る努力をしていた。

 其れで先日計って見たら36度3分あった。日を置いてもう一度計っても同じだったので、体温が上がったのだと思う。しょうがは体温を上げるとは聞いていたが、どうも、それだけではなく、体調を整えてくれるようである。 常用したらリュウマチもよくなったとかいう方もおられるそうで、なるべく薬品でなく食品で健康を保ちたいと思ってはいるのだが・・・・。?????

お弁当

2009-04-01 15:27:30 | 日記
最近いろいろな方のお弁当を拝見させていただいて、おいしそうだし、綺麗で豪華で全く言うことなしって感じがします。ある意味では、こういうお弁当を作っておられる方がこれだけたくさんあるのは、まだ日本も大丈夫かなあなんて気がしますが・・?  やっぱり愛情に包まれて育ってこそ、健全な人間が育つと思うのです。
 今、私は、女学校の頃のお弁当をの話を聞いていただきたくて、コンピューターの前に坐りました。
 私たちは女学校三年の時の6月末、海軍航空技術省支廠というところへ学徒動員で行くことになり、寮に入れられました。確か二週間ぐらいたったある土曜日初めて帰宅することを許されたのです。
 その時、寮からお弁当が支給されました。大麦の押し麦にしたもの、小麦、大豆の油をとった滓をつぶして乾燥させたもの、とうもろこしの乾燥して砕いたもの、サツマイモを千切りにして干したものに、ほんの少々お米が入っているというご飯に、おかずと言えば、沢庵の半分に切ったもの4切れだけ。
家に持ち帰って、母にお弁当を持たせてもらったと言ってアルミのお弁当箱をあけて見せたところ、スカスカに入れてあったご飯は片側によってしまって空間が半分できていました。母は ”育ち盛りの子供にこんなものしか食べさせてくれないなんて" と泣いていましたっけ。
 次回は友誼商店での買い物

卓球

2009-03-30 15:55:43 | 日記
小学校5年生の時に父が卓球台を買ってくれたのです。近頃ではテレビが普及したお蔭でごく小さいお子さんたちでも、卓球を見たことぐらいはあるかと思いますが、私は、それまで、この世に卓球なるものがある事さえ知りませんでした。
父や早稲田大学に行っていた叔父や従兄弟たちに教えられ、弟妹や近所の子供たちが相手でした。その親たちももの珍らしそうに見にこられて、仲間に入られたこともありましたっけ。
その頃のことですから、握りはペンだけ、現在のようなシェークは多分なかったと思います。こっちから、向こうのコートに球をいれろ。相手の打ちにくいところへ打てというのが教えのすべてでした。 
数ヵ月後に日米開戦の火蓋が切って落とされ、父は大阪へ転勤になり、卓球台は物置深くしまわれることになりました。
その後、6年生の三学期、受験で母と小さい妹と私と3人だけ横浜に帰ってきましたが、家は貸家にしていったので中々あけてもらえず、祖父の家にお世話になっているうちに女学生になりました。部活を決めなければならなかったのですが、従兄弟に進められていた卓球は、下駄箱が置かれている隅の方に卓球台が一台あり美しい先輩たちがいきいきとやっておられたのですが、私はどうも気が進みませんでした。
何故かといいますと、それまではピンポンと呼んでいたのですが、開戦後は英語は敵性語であるとして、禁止され、ピンポンは卓球と言え、バスケットは篭球、バレーは排球と呼ぶことになりました。そんなことで日本が勝つという軍人たちの愚かさに私は反発したくなったのです。昔から”敵を知り、己を知らずんば,百戦危うからず”という言葉が伝わっています。彼らだって教わったはず。
英語の授業もなくなりつつありました。
歴史上にも鹿ケ谷の事件と言うのがありました。今の京都左京区の大文字山西山麓で、1177年俊寛、藤原成親、藤原師光たちが、当時の権力者平氏の横暴に対して、叛旗を翻すべく俊寛の別荘で酒を酌み交わしながら、策略を練っていた時に,たまたま、徳利が倒れたそうで、それを見て、主だったものたちが、へいし(徳利のことを瓶子とか書いて、へいしと読むことから)が倒れた。へいしが倒れたと大騒ぎをして喜ぶ姿を見た多田行綱が、こんな人たちではうまくいくはずがないと密告し、師光は死罪、成親、俊寛は流罪となったという事件でした。そんな人たちとあまり変わらないではないですか。わたしは一人心の中で、反発しました。それで卓球部に入りませんでした。
そんなわけで、私が卓球を始めたといってもいいのは74歳の時だったのです。72歳で仕事をやめた後、夫の急死。その後しばらくして、急に卓球がやりたくなりました。青葉台と言うところの体育館へ見に行った時のこと、たまたま卓球の会の方がたがやっておられたのです。恐る恐る入れて欲しいのですがとお願いすると、では試してやろうと言われて70歳くらいのおじいさんが相手をしてくださいましたが、私は緊張しまくり、球を落としまくりました。”お孫ちゃんとでもやっておいで。”と言われ、入れていただけませんでした。それから折りたたみのやや小さい卓球台を買い、当時小学生だった孫とやってもらいましたが、孫は私の占有物では勿論なく、中々やってもらえませんでした。ところが、あるとき、一緒に歩いていた友達が、急に”誰か卓球をやる人ないかしら”と言い出したのです。勿論私では駄目かしらと名乗り出ました。それ以来、二人でやり始め、約4年間たちました。
自己流の変な癖がついているので、毎回居合わせた方たちから、いろいろアドバイスを受けて何とか上達(?)の一途をたどっています(希望的観測)女学校へ入った時に卓球部に入っていれば、学徒動員されるまでは数ヶ月は出来たのですから、今の苦労はなかったか、少なくとも軽減されたはずでした。後悔先に立たず。
次回はトイレが詰まる。水漏れがする。

風のいたずら

2009-03-27 06:47:27 | 日記
毎週火曜日に有志のお年よりが集まって、町内のごみ拾いをやるのです。
この前の火曜日にもそれをやり、すっかりきれいにしてみんなで、楽しくおしゃべりをして帰りました。
 一風呂浴びて汗を流し、卓球をやりに出かけたのですが、すっかり綺麗になった通りを歩くのは気持ちのいいものだと思いながら歩いていたら、30メートルぐらい先のコンビニから、若者が二人お弁当らしきものを買って出てきたのです。
 そろそろお昼だなあと思っていると、一人がお弁当にかけてあるビニールを破って、わたしとすれ違いざまに、ポイット捨てたのです。あっと思って何と声を掛けようかなあと考えていると、もう一片が落ちました。 私が振り返って声を出そうとして、もたもたしている間に、折からの強風が、其のごみたちを跡形もなく吹き飛ばしてしまっていました。 証拠隠滅。とうとう声をかけずじまいに終わってしまったのでした。次回は卓球

野菜のおいしさ

2009-03-15 19:27:18 | 日記
新鮮なお野菜のみずみずしさを味わえるのは、汗水たらして作った人の特権でしょう。何を作ろうかなと思いながら、種や苗を買い求め、最高のできばえの野菜を夢見ながら、私も細々とつくってはいるのですが、その夢とは似ても似つかない貧弱なものが出来上がってしまうのです。でも、ひとつだけプロと同じなのは新鮮さだと思って自分を慰めているわけ。スーパーに並んでいるお野菜とはっきり違うのもそれでしょう。新鮮な物は栄養価も違うそうで、時間がたてばたつほどビタミンなども減っていくとか。
今の所へ家を建ててから20年あまり、仕事をしながら庭仕事や畑つくりにいそしんできました。私のところは切り土で、ちょっと掘ると、黄色みを帯びた粘土質の硬い硬い層が顔をだす畑には全く向いていない所で、深さ30センチ掘るのがやっとでした。近くの植木屋さんに、奥さんのような力では掘れるわけがないと笑われたこともありました。掘っても掘ってもミミズ一匹出てこないのです。それからミミズ、ミミズと呪文を唱えながら、毎年うん万円の金肥をつぎ込みました。私の切なる願いが叶ってか近頃ではミミズ様にお目通りができました。こうなればしめたものと言いたいところですが、それが、どうしてどうして、NHKテレビの野菜の時間を見て、急いで種を買いに走り、蒔いてみたもものうまくいかない。良く考えて見ると再放送だったかもなんてこともあるんです。危険な農薬とか殺虫剤は勿論ご遠慮願っているのです。先日ご近所の可愛いお嬢さんが来られて、珍しそうに見ているので、"お大根、抜いてみたい?”と言うと大喜びだったので、どれでも好きなもの抜いていいわと言ったところ、引き抜いたとたんに”あ、日本産だ!”確かに立派な日本産ですよね。小さいお子さんの発想に思わず笑ってしまいました。
先日次回は一週間後にリリースするといってしまいましたが、私の年ではいつまでもできそうもありませんので、出来次第読んでいただくことにいたしました。次回は米兵追いかけられた話。

はじめまして

2009-03-05 15:18:36 | 日記
私、数えの80歳。でも、私が生まれた頃は年齢の数え方が現在の方法と違っていたので本当はまだなんです。昔は生まれたその日が一才。新しい年がくると一つ年をとるという風でしたから、もし、大晦日に生まれたとしたら、翌日には2歳ということになるんです。で、私は目下78歳のしわくちゃのギャルです。よくもまあこの年まで、たいしたこともなく無事に過ごせたものだと、われながら、関心したりあきれたり。でも、考えてみれば、本当にいろいろなことがありました。
よく、怖いものは地震、雷,火事、親父とかいいますけど、私など、その上に戦争というもっと怖いものもたっぷり経験しているんです。
お若い方は地震のことや津波の被害などはよく御存知。でも、戦争はまったく比べ物にならないんですよ。地震でも津波でも、ある一定の期間が過ぎれば落ち着くでしょうが、戦争はそうはいきません。私は、小学校の5年生の12月8日から女学校3年生の8月15日まで、戦争を体験をさせられていたわけです。当時横浜で焼夷弾、爆弾、機銃掃射にあいましたし、四六時中命の心配をしていたのですから。食べるものもろくになくて、いつもお腹はぺッコペコでした。膝ががくがくしていました。栄養失調だったのです。終戦後は米兵に追いかけられて、あわやというところまでいきました。
まあ、あきらめずに頑張って事なきを得たのですが・・・。と、今日はこれまで、
次回は戦後横浜での地震で失明の危機をどう乗り越えたかをお話しましょう。ではチャオ!