80ばあちゃんの戯言

聞いてほしくて

老人とうつ病(6)

2010-10-30 14:09:52 | 老人
 ”さっきマッサージの先生に伺った話なんですが、階段の上り下りが一番いい

  そうですよ。 以前NHKテレビでも、それで良くなられた方々の事を取り

 上げておられました。”

  ”いや、階段は家にないし、もう、とてもとても。”

  ”脚立でもいいのですが、手がついていれば・・・。それでは歩きませんか?

  わたしがご一緒できればいいんですけれど、 なかなか時間がなくて・・・。

  でも、ゆっくり歩いて行かれれば、小さなお子さんからお年寄りまで、いろいろ

 な方に出会えますしね。

 ご挨拶すれば大抵気候のお話しとか少しは、おしゃべりもできますよ。

 だんだんお友達も出来るでしょうし、脚力も少しづつついてくると思います。

 何時までもお元気でいらっしゃって欲しいんですよ。”

 ”では歩くことにしましょう。”と言ってくださった。

  其の方は85歳まで、ボランテイやーで、75歳のおじいちゃんの車椅子を

 押してあげていたとか仰っていたのだが、今度はわたしが其の方の応援をする

 時だとは思ったが、自分の今の生活状況からして、安易にそういうことが言い

 出せないのが残念だが、時々お電話したり、お訪ねしたりしようと思いながら

 帰ってきたのだが、翌日、いったい何時にお電話したら相手の方のご都合が

 いいのかと思いながら、つい、電話を掛けられずじまいになった。

 翌々日に電話したら、先日とは随分違ったお声になって居られて、少々安心した。

 もしお一人暮らしの方がお寂しい時に誰かお話し相手があったら、”うつ”に

 なられる方が少なくなるのではないだろうか? 




 ちょっと”脱線するが、以前民生委員をしていた時に、あるおばあちゃんと、

心臓の病気持ちの息子さんのお二人暮しのお宅へ伺ってお話をしていたら、

電話のベルが鳴った。

おばあちゃんが、チラッと時計を見上げて、

 ”ああ、あの子だ”といわれたのである。

おばあちゃんのお話しでは、電話の主は多分小学校から帰っても、誰も居ない

ので寂しいから、めったやたらに電話を掛けてみて、おばあちゃんのところ

だったら必ずいるので、また、掛けてくるようになったとか。


 

 おいくつになられても社会的に何か奉仕で出来たらいいなあと思いながら、

何も出来ないで居る方々も多いのではないかと思うが、 わたしの年になると、

なかなか出掛けていってお世話をするというほどのことが出来ない。 でも、

家に居て、多少暇のある時間に、電話器を駆使して、一人暮らしのお年よりとか、

寂しいお子さんとか、あるいは、お若い方々にでも、相談に乗ってあげるとか、

お話し相手になって上げられたら、お互いにいいのではなかろうかと思うのだが、

例えば、地方の番号、横濱なら045の後に1111番に掛ければ、自動的に

そういうボランテイヤを志願された方のところに順番に電話がつながる様になっ

たらいいのではないかと思う。

ただし夜中に掛けてこられても困るので、時間帯を決めたり、なるべく電話代を

抑えられる仕組みを考えていただければ、老人のうつ病にも多少ききめがあるの

ではないだろうか? ただし一週間に一回二時間だけ掛けられるとか決めて置か

ないと、電話がいつもお話中になってしまうかもしれない〔?)

老人とうつ病(5)

2010-10-28 06:27:52 | お正月
 そうそう、こういうこともありましたっけ。

足が痛くてどうしようもないと思ったときに、本当にこのまま痛いからと家に

居たら、きっと、もう動けなくなってしまうかもしれないと思って、試しに、

センター南までゆっくりと歩いてみようと思い立ったのです。

昔、夫と一緒に25分で歩いた同じバス道路を、歩幅10センチぐらいでのろのろと

歩き始めたのです。

家の前はやや急勾配の上り坂、それを過ぎると、ほぼ平で、其の後は急勾配の下り

になるのです。

足の痛いときには登りよりくだりがきついのですが、ほんの少し体を斜めにして、

下っていきました。多少勾配を和らげているつもりでした。〔笑い〕

長い長い坂に思えました。 

 それから大通りに出て、夕焼け橋の停留所の前をゆっくりと歩道を歩いていった

のですが、次の大丸の停留所までついたときには、私もまだここまで歩けたという

小さな感動がありました。

そこで停留所のベンチに腰を掛けてちょっと休んでから、また歩き始めたのですが、

今度はほんの少しばかりスピードが出たのですが、(?)御影橋、中の瀬を通って

中村の交差点までで1時間以上もかかってしまいました。

すっかり疲れてしまったので、其処からバスで戻る事にしたのですが、其のお蔭で

か、翌日からはびっこを引きながらも多少歩幅も広がり、だんだん早く歩けるよう

になっていったのです。

足の状態にもよるのでしょうが、 ”足の痛みは歩いて直せ”という言葉は本当だ

と思いました。

 (つづく)

老人とうつ病(4)

2010-10-27 18:34:56 | 老人
 おばあちゃんが笑ってくれたので、図に乗って、ある新聞社へ行った時

 のことをお話しした。



 
  その地下に本屋さんがあったので、つい覗いて見たくなって、両手に

 大きな荷物を持ちながら、本棚を見上げる格好で、本棚に沿って、狭い

 通路を右へ右へと、少しづつ、横ばいで歩いていったのだが、後もう一歩

 で、本棚が終るところまで来たところで、ストンと下に落っこちてしまった。

 なんと其処に、直角に下へ下がるニ、三段の小さい階段があったのだ。

 自分の手荷物が邪魔になって、 私には見えていなかったのだ。

 あちこち傷だらけになって痛くて動けないでいたら、向こうの方から店員さん

 の

 ”また、誰か落っこった?”という声が聞こえてきた。

 二、三人がすぐ飛んできてくれたが、

 ”アラ、アラ、怪我しちゃって”と言いながら本棚を拭いていた真っ黒な雑巾

 で、私の膝の怪我を拭こうとされたので、私は慌てて、手で遮った。

 また誰か・・・・という事は私より前に落ちられた方が何人も居られたに違い

 ない。本好きの方なら多分集中して本棚を見ておられるので、足元に急に穴が

 開いているなんて気がつかない方が自然ではないのかとさえ思った。

 ”前にも落ちた方が何人も居られたなら、何とかしておかれないと、又、何方

 か落ちられますよ。これは多分構造的な欠陥です。本棚を見上げながら、此処

 までくるのが普通だと思いますけれど、足元にこんな小さな階段があるなんて

 気がつかないですよ。何とかして置いてください。”といって、私は自分で

 ティッシューを出してあちこち拭いて、何とか体中の痛みをこらえながら

 どうやら立ち上って、足を引きずりながら地下鉄竹の橋から茅ヶ崎まで帰った

 のだが、東京駅で乗り換える時には、一番ひどく打った右足が痛くてたまらな

 くて、列車に乗っても足を曲げて坐る事すら出来ない状態であった。

 茅ヶ崎駅でやっと下車して、さてどうしようかと思って辺りを見たら、目の前

 にあった電柱に貼ってあった広告が、何と、私の行きたいカイロプラティック

 の先生のところのものだったので、直ぐ電話した處

 ”タクシーで直ぐ来なさい。少しでも早い方がいい。”と仰ったので、

 飛んでいったが、帰りにはなんと歩いてすたすたと家まで帰れた。

(つづく)
 

老人とうつ病(3)

2010-10-26 07:20:09 | 老人
 其の翌日、私はすっかり元気を取り戻した。

空もよく晴れ上がって、さわやかな日で、私は身も心も軽々と、仕事に出かけて

行った。途中で階段が左手にあったので、思わず登ってみたら、難なく登れたの

である。

 ”エエッ! 登れた!”

私はすっかり嬉しくなって、思わず、登る必要のない他の階段まで登ってしまった。

ご紹介くださった方のお顔と、療法士の方のお顔が交互に浮かんで、有難うござ

いますと心の中で叫んだ。

 ところがである、大きな交差点を渡っていたら、急に右膝のお皿がなんだか

外れた感じがして、動けなくなってしまったのだ。

それまで元気で歩いてきた人間が急に歩けなくなったとは誰しも思われないだろう

と思って、車が一斉にに動き出したときのことを考えて、私は大慌てで、右膝の

お皿をつかんで、先生が最後にされていたようにくるくると回してみた。

何とかはまったようで、歩き出す事が出来た。

それが困った事には、無事に歩けている距離が日ごとにだんだん短くなってきて、

10mも行くと、もう膝が動かなくなる。

どうしたらいいのかと考えながら整形外科の先生に診ていただいた。

 一部始終のことをお話して、

 ”最後にお皿をこうしてまわされたんですけれど・・・。”と、言ってみたら、

 ”それは膝に余裕を与えてくれたんでしょうね。”と、笑われた。

 ”で、どうしたらいいんでしょう?”

 ”太腿の筋肉を鍛えればいい。 椅子に坐って、両足を膝の高さより少し持ち

  上げるくらいにまっすぐ上げてみなさい。筋肉がついてよくなるよ。”

と教えてくださった。

 毎日続けてみたら、3日で良くなった。





 そんな話しをした後、

”まだまだ動けなかった時があるんですよ。長ーい階段の上から落っこちた

  り・・・。”

と言いかけたら、目も前の方が急に元気になられて

”アラ、アラ、あなたも案外おっちょこちょいなのね。ワッ ハッ ハッ”と

笑われたのである。

 (つづく)

 

老人とうつ病(2)

2010-10-25 03:04:50 | 老人
 急に足が以前にもましてお弱くなられたようなので、其の日の朝、マッサージ

の先生からお聞きしたばかりの情報をご披露してみた。

 ”階段のぼりが一番足にいいって 聴きましたよ。”

 ”もう階段はとても上がれないわ。”と、言われたので、私は今迄何度も歩け

なくなったことがあるが、なんとか立ち直ったという話しをご披露してみた。

 

 もう18年ぐらいも前の事、当時豊田に住んでいた次男が、長女を連れて、

遊びに来たとき、私が立ち上がれないのを見たその二歳の孫が、私が立ち

上がり方を知らないと思ったらしく

 ”おばあちゃん。 こうやって立ちなさい!” 

と、自分で私の前に坐ってから、立ち上がって見せてくれたことをお話しした。

 


 其の時、私の家具のお客様で、埼玉に住んでおられる方が、

 ”荒武さんにはお元気で居ていただきたいので、とても痛い治療だけれど、もし

  それでよかったらご紹介させてください。”とご親切に其の先生のところまで

  ご案内くださったのであった。

 仰ったとおり、其の治療はとっても痛くて、終始、約2、3時間の間、私は

 ヒーヒー、フーフー 言い通しだった。

 最後に両膝のお皿をぐるぐる回されたようで、思わず、先生そんなことして

 大丈夫ですか?” なんて.今思えば、失礼な事を、ただ、もう痛くて、

 夢中で叫んでしまっていた。

 療法士の先生は、

 ”僕はちっとも力を入れてなんか居ないよ”と仰ったのだが、もう痛くて,

 痛くてどうしようもなかった。

治療が終った時にはぐったりとして、びくとも動けなくなっていたのである。

 夫が車で連れてきてくれていなかったら、帰れなかっただろうと思った

くらいであった。

 帰りがけに、先生がにやりとして、

 ”ご主人もどうですか?”と、仰ったが、夫は

 ”いや。僕はとてもとても。”と、鄭重にご辞退していた。

 (つづく)

老人とうつ病(1)

2010-10-24 08:34:40 | 老人
 この8月でとうとう正真正銘の80歳になった。

如何してもお友達は私と共に,齢を重ねられている方が多くなっているから、

日々の会話にも、ここが悪い、あそこが悪いと言う言葉が多く聴かれるように

なってきている。

 今年の夏は長く暑い日が続いただけでなく、暑いと思っていると急に温度が

下がったりして、特に老人には過ごしにくかったとは思うが、あちこちから、

具合が悪いといわれて、暑いさなか、何とか老体に鞭打ってお見舞いに出かけ

たりしていたが、秋になって、急にお体の衰えを感じられて、落ち込まれて

いる方が目に立つようになってきた。


 一昨日もお風呂で時々ご一緒になられる方が、急に弱られてびっくりした。

そろそろ90才に手が届きそうになっておられる方だが、確か85歳くらい迄、

ボランティヤとして、車椅子を押していたという方で、私は心ひそかに、あま

りお手伝いも出来ないが、これからは、私たちができるだけ何とか支えてあげ

る番だと、思っていたのだが、お風呂でご一緒になり、声を掛けたら、とって

も様変わりしておられてびっくりした。

 
 
 以前は息子さんとご一緒だったそうで、88歳の時に、それまで住んでいた

お家を売って、もうこれからは一人暮らしがしたいと、お掃除つきのマンシヨン

を買われて独立したと言われていたのだが、とてもお元気で、前向きな方だと

思っていたのに、何を言っても、もう駄目もう駄目の一点張りだった。

もしかして少し”鬱”になりかけておられるのではなかろうかと思って心配に

なった。

実は、そういう風になられる事もありうると思って、時々お邪魔しておしゃべり

させていただいていたのだが、このところ、いろいろ忙しくて中々お邪魔でき

なかったのだ。

そこでお邪魔して色々お話を伺ってみると、其のお年になると、普段、電話で

お話しする相手がお一人だということで、また、其の方がいろいろなお辛い事

ばかり長いことお話しされることで、気がめいってしまわれたらしい。



大体そういう方は他人の言う事は聴かれない事が多く、何かアドバイスしても、

それには反論される。 周りの人が何を言っても、聴く耳を持たないのである。

それなら、何で電話をしてこられるのかといいたくなるのだが、聴いてもらえば

それで相手は、もうストレス解消という事になるようだが、聴かされた方は

たまったものではない。でも長い間のお友達では聴かないわけにもいかないので

ある。

 

 時間の観念もなくなり、夜、夜中でも電話してこられるというので、お疲れに

なられたのだと思った。

其のうち、これからご自分がどういう風になっていくのかと色々なご心配なこと

を話されたのだが、これから起こってくるかもしれないことを心配して病気に

なっても、つまらないでしょう、 私だって、今、この瞬間に倒れることだって

あり得ますし、先のことを心配しすぎて、其のストレスで病気になってもと、

思っています。 其の事が起ってから心配しましょうよ。 ワッ ハッ ハと

豪快に(?)笑い飛ばした。

(つづく)

戦後の暮らし(11)

2010-10-23 00:52:51 | 戦争体験
特殊慰安施設協会

 (以下wikipedia調べによる)

 日本で第二次世界大戦の戦闘停止発令から三日後の1945年8月18日、

内務省が〔外国軍駐屯地における慰安施設設置に関する内務省警保局長通牒〕

を各縣に発令し、これを端緒として、占領軍対策の一環として26日に設立

された。

戦後の進駐軍の日本占領に当たり、日本の婦女子の操が進駐軍兵士によって

汚される恐れがある。それならば性の防波堤を作って一般女子を守りたい、との

思惑からである。

占領軍がこの種の(サービス)を提供するように命じたという俗説が一部にある

が、内務省が付度して自主的に作ったものを連合国軍最高司令部が許可したもの

である。

基本的な発想としては戦時中の慰安婦施設と同じものだが、慰安婦のように仲介

業者を通さず、〔日本女性の防波堤たれ!)というスローガンの公募に応じて

きた一般女性たちが集められた。

戦時中にあった女子青年団が終戦後、半ば強制的に集められたケースもあると

される。

また、警察が戦時中青線売春で検挙した者に慰安婦になるよう要請した例すら

あった。

当初は水商売の者を雇う予定であったが思うように集まらず、〔新日本女性求む、

宿舎、衣服、食糧すべて支給〕等の甘言をもって銀座などに広告板を設置し、

また、新聞広告で一般女性を募った。

内容の詳細は広告に記載されておらず、これを見てやってきた女性の多くは水商

売の経験のないもので、大半は仕事の中身を聞いて去っていった。

しかし他には生活の術の無い戦争未亡人や子女が多かった時代背景もあり、

第一回の募集では短期間で、1300人あまりの女性が協会に登録した。

東京都内だけでも30ヶ所以上、全国では、最盛期では7万人にのぼる女性が

従事させられたと見られている。

1946年1月21日、前アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト夫人

エレノア・ルーズベルトの反対、性病の蔓延を理由としてGHQにより廃止された

が、女性たちへの補償は無く、多くは当時パンパンと呼ばれた街娼、水商売などに

進んだと見られている。

彼女たちへの国からの補償は現在まで一切行なわれていない。

慰安所の開設後も進駐軍の不法行為は数多く発生した。

最初に米軍が横須賀に上陸した1945年8月30日に早くも強姦事件が起きて

いる。

特別高等警察はこれらの不法行為を解散命令が出た1945年10月4日まで

調査を続け、内務省警保局外事課より〔進駐軍ノ不法行為〕として文書化された。

この米軍にとっての不名誉な文書は一旦没収されたが、1973年12月に日本

へ返却、翌年1月より国立公文書館に所蔵されていた。

 (つづく)

戦後の暮らし(10)

2010-10-21 08:47:54 | 戦争体験
(以下wikipediaより)

敗戦によって満州・朝鮮・台湾といった穀物の供給源を失い、またそれら

外地からの引揚者によって人口が激増、日本の食糧事情はきわめて劣悪な

ものになっていた。

それでも、例えば、〔食えないための一家心中)といったような記事は

社会不安を煽り、占領政策がうまく行っていないことを印象づけるおそれ

のあるものとしてGHQの検閲基準により報道できないものとされていた

事があって、餓死について報道がなされる事は殆どなかった。

ところが昭和20年10月、幣原内閣の大蔵大臣であった渋沢敬三は、

米国UP通信記者に対して、21年度内に餓死、病死により1000万人

の日本人が死ぬ見込みであると語り、国際的ニュースとなった。

これに対し同年12月21日GHQ衛生局長クロフォード・サムスは

〔日本がいまや餓死線上にあるとか、病院は飢餓患者で満員だとか、

上野駅だけでも毎晩数十人の餓死者を出しているというのは、巧妙な

流言戦術である。それはアメリカから食糧をもっと送らせようとして

故意に事実をねじ曲げていることなのだとして批判の意を表明。

結局、日本側は、成人一人一日当たりの栄養摂取量を1050カロリー

という生命維持に必要な最低ぎりぎりの限界〔現在平均摂取量の半分以下)

まで絞って、食糧輸入を要請、このままでは追加の軍隊派遣が必要になる

と踏んだアメリカ側の判断により、輸入が許可された。

また、農家による食糧供給の意欲の減退も食糧危機の要因であったことから、

農林大臣副島千八の決断により、全農家に対して強権的に米を供出させる

緊急勅令第八六号を発動などしている。


一方で上記のようなGHQ側からの批判に応えるため、昭和21年7月15

日には、勅令第311号〔連合国占領軍の占領目的に有害なる行為に対する

処罰等に関する件)を公布・施行。食糧統制に違反する行為は、単なる経済

犯ではなく、占領軍に対する敵対行為「の中に含まれるという公権的な解釈

が確立、殆ど必罰主義による解釈適用がなされるようになった。

加えて当時の裁判官の地位は非常に低く、闇物資を買うにも充分な給与が

あるとは言い難く、複数の裁判官が栄養失調で苦しんでいる状態であり、

過労や結核に栄養不足が加わって死ぬ者も少なくない、裁判官の給料では

到底食えぬとして、弁護士に転職する者が非常に多く、個々の裁判官の

負担をますます重いものにしていた。

  (つづく)

戦後の暮らし(9)

2010-10-20 06:49:43 | 戦争体験
国民全体が配給品だけで暮らすことなど到底考えられなかった時代に頑として

闇買いを拒否して餓死を選ばれた方々がある。

山口良忠(やまぐちよしただ、1913年11月16日・1947年10月

11日)は日本の裁判官、佐賀県出身、太平洋戦争の終戦後の食糧難の時代

に、闇米を拒否して食糧管理法に沿った配給食糧のみを食べ続け、栄養失調

で死亡したことで知られる。



 1913年佐賀県杵島郡白石町に、小学校教師の長男として生まれる。

鹿島中学校(旧制〕・佐賀高等学校(旧制)・京都帝国大学を卒業。大学院

に進み宮本英脩・佐伯千仭に師事、高等文官試験司法科試験に合格、判事と

なる。

1949年に東京民事地方裁判所に転任後、1946年10月に東京く裁判所

の経済事犯専任判事となる。この部署では、主に闇米等を所持していて食糧

管理法違反で検挙、起訴された被告人の事案を担当していた。


食糧管理法を担当し始め、配給食糧以外に違法である闇米を食べなければ生きて

いけないのにそれを取り締まる自分が闇米を食べていてはいけないのではないか

という思いにより、1946年〔昭和21年〕〕10月初め頃から闇米を拒否する

ようになる。

山口は配給の殆どを二人の子供達に与え、自分は妻とともに殆ど汁だけの粥

などをすすって生活した。

義理の父親、親戚、友人等が其の状況を見かねて食料を送ったり、食事に招待

するなどしたものの、山口はそれらも拒否した。

自ら畑を耕してイモを栽培したりと栄養状況を改善する努力もしていたが、

次第に栄養失調にともなう疾病が身体に現れてきた。しかし〔担当の被告人

100人を何時までも未決でいさせなければならないと〕療養する事も拒否した。

そして、1947年8月27日に 地裁の階段で倒れ、9月1日に最後の判決を

書いた後、やっと故郷の白石町で療養する事となる。

同年10月11日、栄養失調にともなう肺浸潤〔初期の肺結核)のため33歳

で死去した。

死後20日ほどたった11月4日に、山口の死が朝日新聞で報道され、話題を集

めた。

なお、其の自らに厳しい態度から、食糧管理法違反で逮捕された人々に対しても

過酷であったのではないかと思われがちであるが、むしろ同情的であり、情状

酌量した判決を下すことが多かったと言われる。

この事件から闇米を食べなければ生きて行く事それ自体が不可能であり、食糧

管理法それ自体が守る事が不可能な法律であったという意見もあり、食糧管理法

違反事件ではしばしば期待可能性・緊急避難の法理の適用が主張されたが、

裁判所によってことごとく退けられた。食糧管理法を遵守して餓死した者として

山口の他には東京高校ドイツ語教授亀尾英四郎、青森地裁判事保科徳太郎の名が

伝えられている。

 以上wikipedia より


(つづく) m(__)m

戦後の暮らし(8)

2010-10-19 08:29:55 | 戦争体験
戦後、政府からの配給品はどんどん少なくなって、一週間から一ヶ月に及ぶ遅配,

欠配が当たり前のようになって、配給品ではとても暮らせない状態が続いていた。

代替品として、イモ類やかぼちゃなどが配給されるとお米が減らされるといった

風であったが、これは地方によって配給品の中身もやり方も大分違っていたようで、

お米の配給は、成人一人当たり二合1勺〔約300グラム)と決まっていても

何の意味も持たなかった。300グラムというと多いと思われるかもしれないが、

全く副食品や、調味料も、お出汁も全く無いし、それから全栄養をとらなければ

いけなかったかったので、とても足りるわけはなかった。それもなかなか配給

がきちんとなかったのだ。

米軍からの放出品のお砂糖だとか、卵の黄身ばかりの乾燥した黄色の粉だけが

お米の代わりに配給されたり、三日間で6人家庭への配給がおねぎが二本という

場合もあったりで、必然的に、庶民は闇米や、闇の食料に頼らざるを得なかった

が、お値段は勿論とても高く、米一升標準価格53銭のものが、闇値では、

70円、砂糖一貫匁3円75銭が1000円もしたこともあったそうである。

最初は人通りの多そうなところに人々が少しばかりの物を持ち寄って、売ったり

物々交換したりしていたようであったが、だんだん、ござや、敷物を敷くように

なり、台が出来るようになって、露店の構えが出来上がっていった。

闇市では、食品だけでなく、本当にいろいろの物が売られていた。

ふかしたサツマイモだとか、サツマイモの粉を熱湯でとき、丸めてふかした

芋団子や、お芋の粉の混じった蒸しぱん、いろいろ雑穀やお芋の入ったお雑炊

そして、わたしがもっとも敗戦の悲哀を深く感じたのは進駐軍の食べ残しを

集めて、ごった煮のようなというか、いろいろな物が入ったスープが売られて

いたことだ。 家ではそんな物を買った事が無かったが、時には中に、タバコ

の吸殻が入っていたというのを聞いた覚えがある。

古着屋、ろうそくや、電気でパンを作る道具だとか、その他の生活用品も出て

きて、だんだん品数も多く、店の構えも台が出きて変化していったが、

それに伴ってやくざが場所代を取ったりするようになったようである。

売っていたのは、汚れたカーキー色の軍服を着ている帰還兵が多かったが、

女子供もいて、其の側には傷病兵の着る白い服を着た男たちが、箱を持って

物乞いをしたりしていたが、 中にはハーモニカや手風琴で音楽を奏でて客の

目を引こうとしている者たちもいた。

其のうちだんだんどこがお悪いのかと思うような偽傷病兵らしきものがでてきた。

横濱の黄金町辺りでは朝鮮人の方々が、お米や小麦などを売っていたようで、

買いに行くのは父の仕事だったが、時には ”ふすま”と呼ばれる小麦の粉を作る

ときに出来る小麦の皮とでも言うのだろうか、それを買ってきていたが、家では、

さらに細かく挽いて、小麦粉に混ぜ、”すいとん”や蒸しパンに入れていた。

たまには近くの農家の人が、粟や粟餅を売りに来られたこともあった。

ある時、両親と死別したという7、8歳くらいの男の戦災孤児たちが家に来て

 ”何か食べるものをくれ”というので、ありあわせのパンにマーガリンをぬって

出したら、

 ”なんだバターか”

といってお礼も言わずに出ていった。 今、思い出しても、あまり痩せていたという

記憶ではない。 やさしい人が多かったのだろうか?

(つづく)