80ばあちゃんの戯言

聞いてほしくて

保育科(1)

2010-02-28 08:23:41 | 学校
 約45年くらいも前の話である。

毎度お古いことで恐縮だが、その年のお正月、私達

一家は、母の妹の家に招かれたのである。

おばの家は横浜の辺鄙なところにあったが叔父と

二人で幼稚園経営をしていて、園内には兎が飼わ

れていた。

息子たちは、ブランコや滑り台で楽しんでいたが、

私たち夫婦は隣接する家の中で、幼稚園の先生に

なって跡を接いでくれないかと言う相談を受けて

いたのである。

其の頃、 親戚内で小学生や幼稚園くらいの子供が

7、8人もいて、法事で中華街などへ行った時に

は騒ぎ出す。

熱いお料理が運ばれてくるので、危険だと思って、

いつも私が、子供たちに端の方で坐ってできる

遊びをやらせていたのである。

其れで、叔父たちは私に白羽の矢を立てたのだと

言ったが、

 ”だって、○○さんがいるでしょう? どうし

 て 跡を継せないの?”と私は質問した。

 ”あの人たちは勉強が嫌いだから,いやだと

いうのよ。”

 
 戦中、戦後の私の女学校では、勉強の合間に、

畑仕事やら、兵隊さんの肩章作り、従軍看護婦

さんのための毛糸のパンツ編みなどやらされて

いたのだった。

其の後、工場も森永や、海軍航空技術支廠など

へ行かされていたのだし、家は横浜の大空襲の

日に焼け出されて、 参考書も満足に手に入ら

ない時代になった。

とても満足のいく十分な勉強などしていなかっ

たのだ。

当時は男女同権が声高に叫ばれていた時代で、

どうしても勉強がしたくて、アルバイトして卒業

するつもりで入った大学の英文科も、止むに止ま

れない気持ちで入ってしまったのだが、家の経済

を考えれば、収入が入るのと入らないのとでは

大きな違いだし、すぐ下の弟の進学を考えれば、

とても無理な話だと思って、一ヶ月夏休みの間に

アルバイトをしながら毎日泣き泣き考え、遂にに

決心して学校を中退してしまったので、勉強した

くてたまらなかったのである。

いつか勉強したいと思って、寝たきりの母の面倒

をみていても、英語の辞書を時々めくってみたり

もしていたのだ。


 
 それから、夫の両親や実家の両親にも相談し、

承諾を得て、幼稚園教諭の免許を取ることにした

のだが・・・?

    (つづく)

イタリア旅行(2)

2010-02-26 06:17:31 | 旅行
車で戻ってきた息子に傍に近寄ってきた大男に

危険を感じた話をしたら、

 ”イタリヤは危ないんだよ。

 この前も日本のお嬢さんが、広場で、後ろから

 近づいてきた少年二人組のバイクに、 手に持

 っていたバッグを、引っ張られた。

 そのお嬢さんがバッグをしっかり持っていて、

 放さなかったので、ずっと引きずられて、5、6

 メートル先の街燈に激突して亡くなったそうだ。

 僕もね。この間、昼休みに会社の人と二人で歩い

 ていたら、5人組の少年たちに囲まれた。

 中学生くらいの子供たちだった。

 一緒に歩いていた人も大柄な人だったので、

 二人で、殴る、蹴るの大盤振る舞いで、相手を

 撃退させたんだ。

 ここは日本とは違うから、ぼやぼやしていたら

 駄目なんだ。襲われたら何でもできることをして、

 相手が怪我してもかまわないと思ってやらなけれ

 ば、自分たちの命が護れないよ。”

 と、言われたのである。

 

最高のプレゼント(2)

2010-02-26 00:10:07 | 最近のできごと
 一昨日ブログに載せた最高のプレゼントの主

のことをちょっとばかりお話したくなりました。

7、8年も前のこと、夫との雑談の中で、朗読

のことが話題になりました。

 ”ちょっと待って?”と言って夫が自分の机

の引き出しの中から持ってきたのはランドマーク

にあるNHKのいろいろの講座のパンフレットで

した。

とてもよさそうだなあと思いましたが、その頃は

まだ特注家具の仕事をしていたものですから、

その儘になりましたが、その二ヵ月後に夫が急死

し、私は仕事をやめ、いろいろと整理に追われま

した。

その頃なんとなく空虚な気持ちをもてあましな

がら毎日を送っておりましたが、或る時、夫の

見せてくれた朗読のパンフレットのことを思い

出しました。

NHKで白坂道子先生の朗読がある日は、

出勤前に、必ず

 ”今日は白坂先生の朗読があるよ。”と言って

夫は出かけていましたので・・・・、まあ、種を

明かせば、夫の働いていた会社に白坂先生の旦那

様がおられたのですが、別に面識はなかったよう

でしたが、親近感をいだいていたのでしょうが・

・・、

そんな訳で私はNHKへ電話をしましたが、白坂

先生の講座はもういっぱいで、空席待ちといいま

すか、次回の講座でおやめになる方があったとき

に、順番で入れるということで、何人かの先生の

いろいろな講座を受講したのですが、彼女はその

中の一つ ”一人芝居&朗読劇”でご一緒になっ

た大先輩のお一人で、お歳は お若い方でしたが、

お顔立ちの整った方で、背筋がぴんとしておられ

るというか、なんとなく凛としたものを感じさせ

る方でしたが、朗読はぴか一でした。

間のとり方といい、テンポの良さといい、天才的

といいますか、すばらしいものでした。

時にはお母様のお召し物を着て、大きな会場でも、

物怖じもされずに、堂々と演じられておられまし

たが、たちどころに雰囲気が醸し出され、情景が

ぱっと目に映るような感じで、どんどん観客を引

き込んでいかれるのです。

今度のお手紙をいただいたときに、彼女の朗読が

思い出されました。

一芸に秀でる者は, 何にでもきちんと細やかな

お心使いがおできになるのだと思いました。

今、彼女はご自分の大きな夢の実現を目指され

ているとか、私はそれが出来上がったら、見せ

ていただく約束をしています。

私の首が長ーくならないうちに実現して欲しい

と心から祈っているのです。

イタリヤ旅行(1)

2010-02-24 09:52:14 | 旅行
もう12年くらいも前の話である。

当時ミラノに住んでいた次男一家を訪ねて夫と

二人でイタリヤを旅したことがあった。

ミラノのマルペンサ空港に降り立った私たちを

次男が車で迎えに来てくれていた。

今思い出してみて、羽田や成田の空港に比べて、

いやに簡単に外へ出られた気がするのだが、実際

あんまり広い空港ではなかったのだろうか?

息子に連れられてビルの外に出たら、その角を左

に曲がったところで、

 ”車をとりに行ってくるから、もう少し先の所

で 待っていてくれ。”

と息子に言われて、夫が山のような荷物を載せた

台車を押しながら、のんびりとした様子で歩いて

いったので、 私はその後からついていったが、

目の前で、お若いカップルがお迎えの車に乗って

いかれたので、ああ、ここは皆さんが待っていて、

お迎えの車に乗られるところなのだなと思って

見ていたが、気がつくと、私のすぐ後ろに身長が

2メートル近くもありそうな大男が、車のキーを

チャラチャラさせながら近づいてきていた。

駐車場でもないところに車のキーを持って近づい

てくるのはおかしくないだろうかと私は、男の目を

見たが、なんとなく探っているような目つきに感じ

てしまった。

 ”お父さん、早く荷物に手をついて!”と叫んで、

私も夫の傍の荷物に手をやった。

そのとたん、かの男は、スーッと、何事もなかった

ような風で戻っていったが、途中まで歩いてきて急

に戻るのはあやしい人だったのではないかと思って

しまった。


 

最高のプレゼント

2010-02-23 22:55:54 | 最近のできごと
いろいろ外に出て楽しいことをすると時にはお若い

お知り合いも増えてはくるのだが、私の年になると、

必然的にお年を取られている方が多くなってくる。

何とか助け合って生きていきたいとは思っているの

だが、せっかく上手なマッサージ師さんをご紹介

しようと予約を入れても当日に急に血圧が上昇した

ということで、駄目になったり、電話も暗いことが

多くて、こちらがいかに明るい気持ちになっていた

だきたいと思ってお話しても、いろいろ辛いこと

ばかりを繰り返されたり、約束をしてもころっと

忘れられたりで、お互い年だから、明日はわが身に

起こりうることであり、相手を責める気持ちにも

なれないし、つらい気持ちになっていた矢先、

すばらしいプレゼントをいただいた。

本当に嬉しくてすっかり舞い上がってしまった。

すぐ電話したものか、それともどこかで素敵な

レターセットでも買ってくるかと、 あれこれ

迷った挙句、お電話で御礼を言ってしまったが、

いつも本当にお心のこもったお手紙を下さる方

なのである。

このブログには写真がどうしても一枚しか私には

載せられないので、まことに残念だが、 赤い

可愛い封筒に貼られていた切手は清少納言さまの

素敵な切手、裏のシールはお扇子で彼女のセンス

の良さが窺えるものだった。

綺麗に書かれた、 選び抜かれた短くて暖かい

お言葉。

こんな隅々までお心の行き届いたお手紙をいただ

いて、私の心はすっかり晴れ上がった。

ただ, もう嬉しくて、もしかしたら人生最高の

プレゼントだったかもと思ってしまった。(つづく)

田園都市線

2010-02-22 10:06:29 | 最近のできごと
昨日は東京の長男の家に出かけていった。

何年ぶりかで田園都市線に乗ったのだが、久しぶり

の車内はいろいろと違っていた。

以前はなかったと思うのだが、女性の声でいろいろ

とアナウンスが流れていた。

 ”この先揺れますのでご注意ください”

 やっぱりこういうのは女性の方がいいなあと

思って聞いていたら、駅で止まったら男性の声

に変わった。

どうやら車掌さんは男性かなと思いながら、空い

た席に坐ると、目の前に、岡村さんがハイボール

の宣伝でにっこりしている大きなポスターがあっ

たが、なんとその隣には、今までなら3枚分の

宣伝が貼ってあった場所に、何のポスターもなく、

なんとなく寒々とした感じがした。

反対側の壁を見てみたが、やはり宣伝が少なかった。

今のご時世を反映しているのだなあと思ったが、

多少ごちゃごちゃしていても、たくさんのポスター

が貼られている方がいいかなあと思ってしまった。


花嫁候補者

2010-02-21 09:42:12 | スポーツ・趣味
 昨日の日本とイギリスのカーリングの試合を

ご覧になられた方も多いのではないでしょうか?

私も夢中で見ておりました。

カーリングが放映されるようになってからどんどん

カーリングにはまってしまっておりますが、今まで

オリンピックで対戦したどこの国の選手たちも

すばらしい方々だと思ってはおりますが、

取りわけ日本の選手たちに惹かれてしまいました。

カーリングの技能、気力、体力、何をとっても

すばらしいの一言です。

その上、皆さん、色白で絶世の美人揃いでスタイル

は抜群、どこかの男性アナウンサーさんも、カーリ

ングの女性たちの目の美しさに惹かれて見てばかり

いるとかおっしゃっておられましたっけ。

オリンピックが終わったら、きっと、きっとあちこち

からお嫁さんにというお話が殺到するに違いないと

思うのですがいかがでしょうか?

私たちを幸せな気分にしてくれたお嬢様方に、幸せ

になって欲しいと思うのは私だけではないでしょう

ね?


写真帳

2010-02-20 07:43:49 | 戦争体験
私の父は写真が趣味で、子供たちの生まれた瞬間から写真を

撮っては、一人一人の写真帳に綺麗な字で日付けとコメント

をつけて何冊も何冊もきちんと整理してくれていた。

戦争が始まって、防空壕に入れていたのだが、一番下の弟が

小さかった時には、絵本も何も売っていなかったので、母

が防空壕から写真帳を出してきて見せたりしていたので、空襲

で全部焼けてしまった。

その後焼け残られた方からのご好意で何枚かの懐かしい写真を

私たちのところへ戻していただいたが、ほんの一部に過ぎなかった。

長い間手塩にかけて作ってくれたあの写真帳は戻ってはこない。

父はどんなにがっかりしたかと思うし、私たちにもショックが残った。




私の子供たちが小さかったときには寝たきりの母と大家族の世話で

写真帳どころではない生活を送っていたので、作れなかったこ

ともあるのだが、あの戦争のときの灰になってしまった写真帳

を思い出すと、どうしても、父のように、整理する気にはなれ

なかったし、あまり撮ってもいないのである。




教育と環境

2010-02-19 07:23:52 | 教育
昔読んだ本に児童心理学の先生ご夫妻のご家庭の息子さんの

お話があった。

いつも自分が何かやりたくなると、必ずそこに必要なものが

準備されていたと。

だからよかったと言っておられたわけではなかったと思う。

あまりにお子さんの発達段階にあわせて、先へ先へと準備さ

れてしまうとやりたい気持ちを半減させてしまうこともある

ということのようだった。

 私はどうも今の日本のお子さんたちを見ていると、それと

同じような感じを受けてしまう。

ごく小さい時から、ちょっとお子さんが興味を示せば、すぐ

そのお道具を買って与えてしまい、いい先生をつける。

ものによっては、それでないと間に合わないものもある

かもしれないが、一般には、もうちょっと我慢をさせて本当

にやりたいかどうかをよく見極めてからの方がいいのではな

いだろうか?

大人が楽しそうにやって見せて、子供さんには手を触れさせ

ないでおく。

どうしてもやりたがったら、もう少し大きくなったらねと言う

だけにしておくと、子供さんはだんだん、だんだんやりたく

てたまらなくなるものだ。

そこまで待たせた方が、子供さんは集中力も増し、早く上達

するような気がするのだが・・・?

ララ物資

2010-02-17 08:53:06 | 戦争体験
 戦後アメリカからの”ララ物資”にはとても助けられた記憶がある。

その頃にはどなたが企画して送って下さったのか、きちんとしたこと

は伝わっていなかった。

大きなダンボールいっぱいの古着が入っていて、大きさも内容も様々

だったけれども、焼け出されて何もない私たちにとってはとてもあり

がたいことだった。

 感謝の心をいつかどなたにか伝えたいと思っていたのだが、今日は

ネットで検索してどなたのご発案だったのか知ることができた。

以下はwikipedia 調べによるものである。


LARA;Licensed Agencies for Relief in Asia で アジア救援

公認団体提供の日本向けの援助物資である。

ララはアメリカ合衆国救済統制委員会が1946年6月に設置を認可した

日系米国人の日本向け救援団体で、  1946年1月22日にアメリカ、

サンフランシコ在住の日系人浅野七之助氏が中心となって設置された

”日本難民救済会”を母体としているそうで、南北アメリカ大陸在住

の日系人が寄付の中心となって、主な支援物は長期間の輸送を考慮

して、脱脂粉乳と衣類になさったそうだ。

当時アメリカに於ける対外的な慈善活動は海外事業篤志団アメリカ

協会(American Counsel of Voluntary Agency for Work Abroad)

が担っていたが、その対象地域はヨーロッパのみであり、日本は

その対象に含まれていなかった。

そのため日本に対する援助物資輸送のために新たな援助団体を設立

する必要があった。

反日感情が残る中でのアジア救援公認団体認可に際しては知日派の

キリスト友会員のご協力によるところが大きかったらしい。

なお、日本国内での物資配付に当たっては、 連合国最高司令官

総司令部の意向により、  日系人の関与については秘匿され、

アメリカからの援助物資として配付された。

 1946年11月30日に第一便が横浜港に到着。

 1946年12月24日に東京都永田町小学校において贈呈式が実施。

 1947年7月31日の衆議院本会議において感謝決議(救援物資の

 寄贈に関し亜細亜救援公認団体に対する感謝決議)がされた。