約45年くらいも前の話である。
毎度お古いことで恐縮だが、その年のお正月、私達
一家は、母の妹の家に招かれたのである。
おばの家は横浜の辺鄙なところにあったが叔父と
二人で幼稚園経営をしていて、園内には兎が飼わ
れていた。
息子たちは、ブランコや滑り台で楽しんでいたが、
私たち夫婦は隣接する家の中で、幼稚園の先生に
なって跡を接いでくれないかと言う相談を受けて
いたのである。
其の頃、 親戚内で小学生や幼稚園くらいの子供が
7、8人もいて、法事で中華街などへ行った時に
は騒ぎ出す。
熱いお料理が運ばれてくるので、危険だと思って、
いつも私が、子供たちに端の方で坐ってできる
遊びをやらせていたのである。
其れで、叔父たちは私に白羽の矢を立てたのだと
言ったが、
”だって、○○さんがいるでしょう? どうし
て 跡を継せないの?”と私は質問した。
”あの人たちは勉強が嫌いだから,いやだと
いうのよ。”
戦中、戦後の私の女学校では、勉強の合間に、
畑仕事やら、兵隊さんの肩章作り、従軍看護婦
さんのための毛糸のパンツ編みなどやらされて
いたのだった。
其の後、工場も森永や、海軍航空技術支廠など
へ行かされていたのだし、家は横浜の大空襲の
日に焼け出されて、 参考書も満足に手に入ら
ない時代になった。
とても満足のいく十分な勉強などしていなかっ
たのだ。
当時は男女同権が声高に叫ばれていた時代で、
どうしても勉強がしたくて、アルバイトして卒業
するつもりで入った大学の英文科も、止むに止ま
れない気持ちで入ってしまったのだが、家の経済
を考えれば、収入が入るのと入らないのとでは
大きな違いだし、すぐ下の弟の進学を考えれば、
とても無理な話だと思って、一ヶ月夏休みの間に
アルバイトをしながら毎日泣き泣き考え、遂にに
決心して学校を中退してしまったので、勉強した
くてたまらなかったのである。
いつか勉強したいと思って、寝たきりの母の面倒
をみていても、英語の辞書を時々めくってみたり
もしていたのだ。
それから、夫の両親や実家の両親にも相談し、
承諾を得て、幼稚園教諭の免許を取ることにした
のだが・・・?
(つづく)
毎度お古いことで恐縮だが、その年のお正月、私達
一家は、母の妹の家に招かれたのである。
おばの家は横浜の辺鄙なところにあったが叔父と
二人で幼稚園経営をしていて、園内には兎が飼わ
れていた。
息子たちは、ブランコや滑り台で楽しんでいたが、
私たち夫婦は隣接する家の中で、幼稚園の先生に
なって跡を接いでくれないかと言う相談を受けて
いたのである。
其の頃、 親戚内で小学生や幼稚園くらいの子供が
7、8人もいて、法事で中華街などへ行った時に
は騒ぎ出す。
熱いお料理が運ばれてくるので、危険だと思って、
いつも私が、子供たちに端の方で坐ってできる
遊びをやらせていたのである。
其れで、叔父たちは私に白羽の矢を立てたのだと
言ったが、
”だって、○○さんがいるでしょう? どうし
て 跡を継せないの?”と私は質問した。
”あの人たちは勉強が嫌いだから,いやだと
いうのよ。”
戦中、戦後の私の女学校では、勉強の合間に、
畑仕事やら、兵隊さんの肩章作り、従軍看護婦
さんのための毛糸のパンツ編みなどやらされて
いたのだった。
其の後、工場も森永や、海軍航空技術支廠など
へ行かされていたのだし、家は横浜の大空襲の
日に焼け出されて、 参考書も満足に手に入ら
ない時代になった。
とても満足のいく十分な勉強などしていなかっ
たのだ。
当時は男女同権が声高に叫ばれていた時代で、
どうしても勉強がしたくて、アルバイトして卒業
するつもりで入った大学の英文科も、止むに止ま
れない気持ちで入ってしまったのだが、家の経済
を考えれば、収入が入るのと入らないのとでは
大きな違いだし、すぐ下の弟の進学を考えれば、
とても無理な話だと思って、一ヶ月夏休みの間に
アルバイトをしながら毎日泣き泣き考え、遂にに
決心して学校を中退してしまったので、勉強した
くてたまらなかったのである。
いつか勉強したいと思って、寝たきりの母の面倒
をみていても、英語の辞書を時々めくってみたり
もしていたのだ。
それから、夫の両親や実家の両親にも相談し、
承諾を得て、幼稚園教諭の免許を取ることにした
のだが・・・?
(つづく)