80ばあちゃんの戯言

聞いてほしくて

トイレが詰る。水漏れがする

2009-03-31 15:52:40 | 思い出の北京
(1991年1月9日の話)中国語を勉強しながら、どうせ、毎回わずか一週間か十日しか滞在しないのだから、あんまり必要な言葉ではないかしらと思いながら、(トイレが詰る)(水漏れがする)という言葉を覚えていった。
驚いたことに、一回目の北京で、しかも、二日目に立派に役立ったのである。
 まず、トイレが詰った。 変なものは何も流した覚えがないのにそれでも詰った。何かの時には、この直通電話を使えと夫が言っていたので、すぐ受話器をとり、部屋番号を言い、トイレが詰ったというと、すぐ男たちがやってきて直してくれた。
 翌日は洗濯機から水漏れがした。慌てて、洗面器やらタオルやらで,水が下の部屋まで落ちていかないようにして、電話をかけると、すぐ係員が二人飛んできてくれた。
 洗濯機はイタリヤ製のいわゆるドラム式の横から洗濯物を入れるタイプで、動かなくなって、どうしたらいいのかわからなくなったので、とりあえず、洗濯物を出しておこうかと扉を開けたのが間違いだった。
 夫に運転することだけしか教えてもらっていなかったので、トラブルの時はどうしようもなかったのである。説明書のありかもわからなかった。
 彼らの話では、一番右下に水のはけ口があって、そこにごみを濾過する網がついている。それを時々掃除して糸くずを取り除かなければ、詰ってしまって水漏れになるということだった。 それを知っていれば、水漏れは防げたわけだが、それにしても横開きって不便なものだなあと思った。なんとなく格好いいと思っていたのだが、いったんことが起こってしまうと、水を全部掻きださなければならないのだった。夫も毎日洗濯はしていても、メンテナンスのことまで知らなかったようだ。
 夫が帰宅した時に其のことを話したら、説明書が出てきた。イタリヤ語、英語、中国語(共通語)で書かれていた。こちらで暮らす日本人は大変だとつくづく思った。ふと、日本の洗濯機が恋しくなった。)
次回はお弁当

卓球

2009-03-30 15:55:43 | 日記
小学校5年生の時に父が卓球台を買ってくれたのです。近頃ではテレビが普及したお蔭でごく小さいお子さんたちでも、卓球を見たことぐらいはあるかと思いますが、私は、それまで、この世に卓球なるものがある事さえ知りませんでした。
父や早稲田大学に行っていた叔父や従兄弟たちに教えられ、弟妹や近所の子供たちが相手でした。その親たちももの珍らしそうに見にこられて、仲間に入られたこともありましたっけ。
その頃のことですから、握りはペンだけ、現在のようなシェークは多分なかったと思います。こっちから、向こうのコートに球をいれろ。相手の打ちにくいところへ打てというのが教えのすべてでした。 
数ヵ月後に日米開戦の火蓋が切って落とされ、父は大阪へ転勤になり、卓球台は物置深くしまわれることになりました。
その後、6年生の三学期、受験で母と小さい妹と私と3人だけ横浜に帰ってきましたが、家は貸家にしていったので中々あけてもらえず、祖父の家にお世話になっているうちに女学生になりました。部活を決めなければならなかったのですが、従兄弟に進められていた卓球は、下駄箱が置かれている隅の方に卓球台が一台あり美しい先輩たちがいきいきとやっておられたのですが、私はどうも気が進みませんでした。
何故かといいますと、それまではピンポンと呼んでいたのですが、開戦後は英語は敵性語であるとして、禁止され、ピンポンは卓球と言え、バスケットは篭球、バレーは排球と呼ぶことになりました。そんなことで日本が勝つという軍人たちの愚かさに私は反発したくなったのです。昔から”敵を知り、己を知らずんば,百戦危うからず”という言葉が伝わっています。彼らだって教わったはず。
英語の授業もなくなりつつありました。
歴史上にも鹿ケ谷の事件と言うのがありました。今の京都左京区の大文字山西山麓で、1177年俊寛、藤原成親、藤原師光たちが、当時の権力者平氏の横暴に対して、叛旗を翻すべく俊寛の別荘で酒を酌み交わしながら、策略を練っていた時に,たまたま、徳利が倒れたそうで、それを見て、主だったものたちが、へいし(徳利のことを瓶子とか書いて、へいしと読むことから)が倒れた。へいしが倒れたと大騒ぎをして喜ぶ姿を見た多田行綱が、こんな人たちではうまくいくはずがないと密告し、師光は死罪、成親、俊寛は流罪となったという事件でした。そんな人たちとあまり変わらないではないですか。わたしは一人心の中で、反発しました。それで卓球部に入りませんでした。
そんなわけで、私が卓球を始めたといってもいいのは74歳の時だったのです。72歳で仕事をやめた後、夫の急死。その後しばらくして、急に卓球がやりたくなりました。青葉台と言うところの体育館へ見に行った時のこと、たまたま卓球の会の方がたがやっておられたのです。恐る恐る入れて欲しいのですがとお願いすると、では試してやろうと言われて70歳くらいのおじいさんが相手をしてくださいましたが、私は緊張しまくり、球を落としまくりました。”お孫ちゃんとでもやっておいで。”と言われ、入れていただけませんでした。それから折りたたみのやや小さい卓球台を買い、当時小学生だった孫とやってもらいましたが、孫は私の占有物では勿論なく、中々やってもらえませんでした。ところが、あるとき、一緒に歩いていた友達が、急に”誰か卓球をやる人ないかしら”と言い出したのです。勿論私では駄目かしらと名乗り出ました。それ以来、二人でやり始め、約4年間たちました。
自己流の変な癖がついているので、毎回居合わせた方たちから、いろいろアドバイスを受けて何とか上達(?)の一途をたどっています(希望的観測)女学校へ入った時に卓球部に入っていれば、学徒動員されるまでは数ヶ月は出来たのですから、今の苦労はなかったか、少なくとも軽減されたはずでした。後悔先に立たず。
次回はトイレが詰まる。水漏れがする。

風のいたずら

2009-03-27 06:47:27 | 日記
毎週火曜日に有志のお年よりが集まって、町内のごみ拾いをやるのです。
この前の火曜日にもそれをやり、すっかりきれいにしてみんなで、楽しくおしゃべりをして帰りました。
 一風呂浴びて汗を流し、卓球をやりに出かけたのですが、すっかり綺麗になった通りを歩くのは気持ちのいいものだと思いながら歩いていたら、30メートルぐらい先のコンビニから、若者が二人お弁当らしきものを買って出てきたのです。
 そろそろお昼だなあと思っていると、一人がお弁当にかけてあるビニールを破って、わたしとすれ違いざまに、ポイット捨てたのです。あっと思って何と声を掛けようかなあと考えていると、もう一片が落ちました。 私が振り返って声を出そうとして、もたもたしている間に、折からの強風が、其のごみたちを跡形もなく吹き飛ばしてしまっていました。 証拠隠滅。とうとう声をかけずじまいに終わってしまったのでした。次回は卓球

(タクシー歩道を走る)

2009-03-22 16:13:18 | 思い出の北京
1991年1月8日、私は、初めて夫の駐在する北京に行った。
その日私は友諠商店で、たくさんの買い物をし、歩いてわずか10分の夫のマンションまで、タクシーでなければ、とても帰れないかなあと思い悩んでいると、すーっと一台のタクシーが目の前に止った。
車の窓から見た運転手の顔は、まだ10代の終わりか20代のはじめぐらいで、田舎からポット出といった朴訥な感じの青年だった。この人なら大丈夫かなと思いながらいくらかほっとして、荷物を車に載せ
”国際貿易中心、南公寓まで”と言うと、
”今日はじめて北京へ出てきたので、何処かわからない”と言う。びっくりして、どうしようかと思っていると、
”大通りは渡れないから、大通りには行かないでくれ”と、重ねてのご託宣。
”エエーッ”とんだことになったと心の中で思いながら、こんな風ではおそらく商売にはならないだろうと考えた。まあ、多分彼の始めての客になるわけだし、国際貿易中心以外には高い建物はないのだから、何とか右、左と言いながら行けば行かれるかもしれない。彼の懐はあんまり余裕がないだろうなんて、余計なことまで考えながら、
”じゃあ、私が、右と言ったら、右、左と言ったら左へ行ってくれる?”と聞くと、
”いいよ。”と、彼はにこりとした。
”それで、いくら?”私も変なことを聞いたものだ。相手が何処へ行くのかもわからないのに、値段を聞いたのだ。彼は”40元”と言ったように思えた。それが高いのか安いのかも全くわからない。 まあ、いいやてなもので、乗り込んだのだが、今、思うとおかしくてたまらない。私はどちらかと言うと変に用心深い人間だと自分では思っているのだが、中国の広大な大地に立つと、人間が変わってしまうのだらろうか、首を傾げたくなる。
まあ、とにかく乗り込んで、”左へ”と、第一声。車はどうやらスムーズに走り出した。運転台の横の椅子に後ろからしがみつき、顔を突き出して、少々身を乗り出すような感じで、前方に注意していると、すぐ右へ行ける道があった。早めに曲がっておかないと、とんでもないところへ行ってしまうかもしれないと思い
”右へ”と指示を出した。人混みの中へ車は入り、ゆっくりと進んでいった。すぐ、又、次の道を右へと言ったら、彼が渡れないと言った大通りへ出てしまった。大通りを前にして、車はがたごとと止まった。
”実は、あそこに見えるあの高い建物のところへ行きたかったのだけれど、ここで降りるしかないかしら?”と言うと、
”問題ないよ。”と、彼は言ったかと思うと、そのまま、ハンドルを左に切り、ゆっくりと歩道を走り出したのである。幸い歩道に人の影はなかったが、私は仰天した。人様が走るはずの道をしかも反対方向に車が走っている。パニックになりかけていると、突然車が止まった。
”もうこれ以上行かれない。”と、彼が言うので、車から顔を出してみると、歩道に段差があって、そこに車の前輪がぶつかっていた。段差は15センチか20センチもあっただろうか、完全に車が動けなくなっていた。幸い道程の半分以上はきていたので、これ以上は無理だと思って百元札を出して代金を払おうとしたら、お釣りがないと言う。私は、これしかないと言って、10元札3枚と1元札数枚を出して見せた。その中から、彼は14元だけ抜き取った。初乗り料金が14元だったのだろう。どうやら、私が、14元と40元を聞き間違えたのだった。
そこから、荷物が一人歩きしているかと間違われそうな大きな荷物の間に挟まって、よろよろしながら、それでも、なんとか、家に帰り着くことができた。
それにしても、彼はどうやって帰ったのだろうか?北京は初めてといっていたけれど、これまでは、山の中か草原か、いずれにしても信号機などという物に煩わせられない暮らしだったのだろう。
振り返ってみれば、たった数分間の冒険だったけれど、何故か私の心が解き放たれたような気がして、北京が大好きになってしまったのである。
次回は風のいたずら。

米兵に追いかけられた話

2009-03-16 15:23:58 | 戦争体験
終戦直後、マッカーサー元帥がパイプをくわえて厚木空港に降りたたれてから、まだ間もない頃のこと。夕方4時ごろ、父が昔の部下の方のご好意で、お野菜をたくさん分けていただいて帰ってきたのです。戦時中、家も何も空襲で焼いてしまった私たち一家を居候させてくれた叔母の家に持って行くようにと弟に命じました。お父さんは疲れてしまったから頼むと重ねて言いましたが、反抗期だった弟はどうしてもいやだと言い続けました。傍から、私が行くと口を挟みました。女の子だからなあと父は思い悩んでいましたが、それじゃあ、県庁の横を通って、海岸通りへ出て・・・・と、通る道を指定したのです。米兵たちがどこに駐在しているのか、私たちには全くわかっていなかったのです。 多分そこなら大丈夫だろうと父は考えたようでした。私は焼け残ったオンボロ自転車に野菜をしっかりとくくりつけて、保土ヶ谷から本牧への旅(?)にでました。大好きな父の役に立てると思って気分は上々でした。ところが、県庁の通りに出たら、米兵たちが道いっぱいに広がって、何かボール遊びをしていたのです。”ヘイッ!  ヘイッ!”とあちこちから声が掛かりました。でも誰も近寄ってこなかったので、ほっとしてそのまま通り過ぎてしまったのです。 後で考えれば進路変更をするべきだったと思うのですが、女学校3年生の私は怖いもの知らず、父の言葉どおりに進んでしまったのです。ところが、少し行ったところで、真っ白いセーラー服を着た米兵たちが数人で後を追ってきているのに気がつきました。さあ、大変、一生懸命に自転車をこぎました。数分後、彼らはあきらめて散っていきました。海岸通りをしばらく走っていたら、又、7,8人の米兵たちが追っかけてきたのです。無我夢中で自転車をこぎながら、後ろの様子にちらちらと目をやると、少しずつ近づいているように見えるのです。もう時間の問題かなとも思いましたが、なおも必死でこぎまくりました。なんといっても、自転車は焼け残りのオンボロで、乗っているのは栄養失調で膝が、がくがくしている女の子,どう見ても勝ち目はないように思えました。ややしばらくして、5,6人が去っていきました。それでも一番大きい身の丈2メートルもありそうな兵隊と、一番小柄な水兵がどこまでもどこまでもついて来るのです。全く、生きた心地はしませんでした。2メートルぐらいまで近づき、手を伸ばされたら捕まるかと思ったとたん二人が同時にくるっと向きを変えてなにやら話しながら戻っていったのです。そのとたんに自転車のチェーンが外れました。20メートルは離れていなかったでしょう。息が止まりそうでした。慌てて自転車から降りて油まみれになりながらチェーンを取り付けました。
もし彼らが気づいて戻ってきたらどうしようかと気が気ではありませんでした。
それから十二天のあたりで閉鎖された工場の前にさしかかりました。人っ子一人いないところの不気味さ、いまでも思い出すと背筋が寒くなるのです。次回は夫の駐在で経験した(8回延べ日数80日あまり)、古きよき北京の話をさせていただくつもりです。

野菜のおいしさ

2009-03-15 19:27:18 | 日記
新鮮なお野菜のみずみずしさを味わえるのは、汗水たらして作った人の特権でしょう。何を作ろうかなと思いながら、種や苗を買い求め、最高のできばえの野菜を夢見ながら、私も細々とつくってはいるのですが、その夢とは似ても似つかない貧弱なものが出来上がってしまうのです。でも、ひとつだけプロと同じなのは新鮮さだと思って自分を慰めているわけ。スーパーに並んでいるお野菜とはっきり違うのもそれでしょう。新鮮な物は栄養価も違うそうで、時間がたてばたつほどビタミンなども減っていくとか。
今の所へ家を建ててから20年あまり、仕事をしながら庭仕事や畑つくりにいそしんできました。私のところは切り土で、ちょっと掘ると、黄色みを帯びた粘土質の硬い硬い層が顔をだす畑には全く向いていない所で、深さ30センチ掘るのがやっとでした。近くの植木屋さんに、奥さんのような力では掘れるわけがないと笑われたこともありました。掘っても掘ってもミミズ一匹出てこないのです。それからミミズ、ミミズと呪文を唱えながら、毎年うん万円の金肥をつぎ込みました。私の切なる願いが叶ってか近頃ではミミズ様にお目通りができました。こうなればしめたものと言いたいところですが、それが、どうしてどうして、NHKテレビの野菜の時間を見て、急いで種を買いに走り、蒔いてみたもものうまくいかない。良く考えて見ると再放送だったかもなんてこともあるんです。危険な農薬とか殺虫剤は勿論ご遠慮願っているのです。先日ご近所の可愛いお嬢さんが来られて、珍しそうに見ているので、"お大根、抜いてみたい?”と言うと大喜びだったので、どれでも好きなもの抜いていいわと言ったところ、引き抜いたとたんに”あ、日本産だ!”確かに立派な日本産ですよね。小さいお子さんの発想に思わず笑ってしまいました。
先日次回は一週間後にリリースするといってしまいましたが、私の年ではいつまでもできそうもありませんので、出来次第読んでいただくことにいたしました。次回は米兵追いかけられた話。

地震と右目

2009-03-12 08:13:28 | 戦争体験
あれは確か終戦の翌年。私の記憶が正しければ、まだ蝉の鳴き声がしていた夏の終わり。当時私は女学校の4年生でした。 午後3時頃でしたか、急に大きな地震があって、私は玄関から外へ逃げようと思って、隣の四畳半に入っていきました。そのとたん分厚い本が正面の棚の上からすっとすべるように落ちてきて、とっさにに避けようとはしたのですが、本の角が右目にあたったのです。"しまった”と思いながら恐る恐る目を開けてみると、右目は全く焦点が定まらず、ものすごい速さでめちゃくちゃな動きをしているのでした。家人は誰もおらず、横浜は戦争で焼け野原、どこにお医者さんが居られるのかもわからず、電話も勿論なく。どうしたものかと思ったとたん、小学校の4年か5年の時に読んだ講談社の木戸孝允の話が頭をよぎりました。彼がまだ故郷にいた時、暴漢に襲われて瀕死の重傷を負った。その時、体中の刀傷や打ち身の傷を、家族や友人達が交代で井戸水を汲み上げ彼の体にずっと長時間ぶっ掛けて治したというのを思い出したのです。
多分水流で治ったのだろうと思って台所へ飛んで行き、流しに背をあずけてひっくり返り、水道を出しっぱなしにして、右目を閉じ、瞼の上から当てました。5分、10分たっても目はそのままで、10分20分立っても、全く変わりません。それでもあきらめずに水を流し続けました。30分あまりもたった頃、まだ駄目かと思いながら目を開けると、なんと完全に治っていたのです。その時の嬉しさ60年あまりたった今でも忘れられません。その本は ”レ。ミゼラブル”本当の話です。
次回は野菜のおいしさ。一週間ごとに変えていくつもりです。よろしく!

はじめまして

2009-03-05 15:18:36 | 日記
私、数えの80歳。でも、私が生まれた頃は年齢の数え方が現在の方法と違っていたので本当はまだなんです。昔は生まれたその日が一才。新しい年がくると一つ年をとるという風でしたから、もし、大晦日に生まれたとしたら、翌日には2歳ということになるんです。で、私は目下78歳のしわくちゃのギャルです。よくもまあこの年まで、たいしたこともなく無事に過ごせたものだと、われながら、関心したりあきれたり。でも、考えてみれば、本当にいろいろなことがありました。
よく、怖いものは地震、雷,火事、親父とかいいますけど、私など、その上に戦争というもっと怖いものもたっぷり経験しているんです。
お若い方は地震のことや津波の被害などはよく御存知。でも、戦争はまったく比べ物にならないんですよ。地震でも津波でも、ある一定の期間が過ぎれば落ち着くでしょうが、戦争はそうはいきません。私は、小学校の5年生の12月8日から女学校3年生の8月15日まで、戦争を体験をさせられていたわけです。当時横浜で焼夷弾、爆弾、機銃掃射にあいましたし、四六時中命の心配をしていたのですから。食べるものもろくになくて、いつもお腹はぺッコペコでした。膝ががくがくしていました。栄養失調だったのです。終戦後は米兵に追いかけられて、あわやというところまでいきました。
まあ、あきらめずに頑張って事なきを得たのですが・・・。と、今日はこれまで、
次回は戦後横浜での地震で失明の危機をどう乗り越えたかをお話しましょう。ではチャオ!