80ばあちゃんの戯言

聞いてほしくて

昭和20年の思い出を語る会(6)

2010-08-31 05:48:11 | 戦争体験
Fさんのお話し(以下原文のまま)

私のところは祖母と妹を疎開させていて、あの日は母と二人きりでした。

父は早くなくなりました。焼夷弾が落ちてきたので、私は下駄を履いて母に

「逃げよう。逃げよう」と言うのですが、母は一家を背負ってるわけです

からシンガーミシンなんかを出したりしているんです。

ウロウロしているうちに隣まで焼けてきて川へ逃げました。

三ツ沢なんて田園地帯ですから本来焼けるところじゃないんですよね。

母に後で、「何で靴を履いてこなかったの」といわれました(笑)


翌日保土ヶ谷から従兄が迎えに来てくれました。

山をひとつ越えて浅間下に出たら、保土ヶ谷までまっすぐ見通せるん

です。何も無くて・・・・・。

行く手は凄いほどの夕焼けでした。

私は見なかったんですよね。炭になった死体を・・・・・。

それが無かったわけは無いと思うんですが、本当に無かったのか、

私が見なかったのか、ただ廃墟の彼方の真っ赤な夕焼けが西方浄土

のように感じられた、それを覚えているんです。

  (つづく)

昭和20年の思い出(5)

2010-08-30 09:06:43 | 戦争体験
Naさんのお話

自宅の前が坂道で、避難する人が路一杯に後から後から上ってくるんです、

其の先に逃げれば誰も安全だと分からないのに、みんな其の列に入ってゆく、

私もそうしたのですが。

人々の足元をチャボが縫うように小走りについていく光景を鮮明に覚えて

います。頭の中で合唱曲集にあった”祭りの太鼓がドンドコドン”と言う

歌がテープレコーダーがグルグル廻るように繰り返していました。

腰が抜けると言うのかウエストから下が力が入らない状態でした。

青木橋の本覚寺に逃げましたが、本堂にも火がついて、終われるように

裏山の墓地に行きました。そこで大旋風が起こったんです。焼けたトタン

や大きな板が燃えながら旋風に巻き上げられては墓山にたたきつけられる。

墓石の間に身を伏せて頭を抱えている側を、真っ赤に焼けたいろいろな物が

ガランガランと転がってゆきました。




Nauさん (以下原文のまま)

火が四方に迫ってくると警防弾の人もパニックになってしまい、ただ避難所の

方へ盲滅法に誘導しようとするのです。

「そっちは風下だから駄目、広場じゃなくても風上へ)と言う母の一言で命を

救われました。


風向きひとつで一本の道路を境に焼けたりっ焼けなかったりしました。

(つづく)

昭和20年の思い出を語る会(4)

2010-08-29 07:06:16 | 戦争体験
Nさんのお話「以下原文のまま)
 
私の家は有隣堂さんのすぐそばで開業医でした。中区 福富町と言うところです。

警戒警報なので、登校しないでいたら直ぐ空襲になり、どうしようかとオロオロ

している間に病院の屋根や窓に焼夷弾がどんどん刺さっちゃったんです。

祖父は杉田に住まいがあるのですが、やはり医者でしたから家に居りました。

杉田に逃げようと言う事で、祖父がステッキの先にハンカチを結んでこれについ

てこいというわけで、父と家族一同それに従って逃げ出しました。

”横濱かまぼこ”というのがありまして其処を通りましたら、防火用水桶の中に

頭を突っ込んで亡くなっている人がありました。

苦しくなって顔を水に漬けたんでしょうね。

そんなのを見ても何の気も起きませんでした。

宮川橋を渡って野毛山の高射砲陣地へ逃げました。

野毛山に何時までもいるわけにもいかず、又祖父に従って三春台の関東学院

の横を通りまして京浜急行の線路に下りて線路伝いに杉田の家まで行ったん

ですけれど・・・。霞ヶ丘って言うんですか、其処まで来たとき毛を燃やす

においがするんですよね。

みると人間が炭になっちゃっているんです。焼けて。

それが一杯ごろごろしていて歩けない。つま先でよけえてヤット歩いて・・・・。

悲しいとか怖ろしいとか、そんな気持ち全然起きなかったですね。

赤ちゃんをおぶってそのまま炭になっちゃっている、人間だか何だかわか

らない、木みたいになっちゃって・・・・・・・其の間を歩いて夜まで

かかって杉田に着きました。

やっぱり凄かったですね。後から考えるとね。

私の家の前にお琴の先生がいらして全盲だったのです。其の先生に防空頭巾

を逆さにかぶせて手を引いて逃げました。

野毛山までは。

其の先は覚えていないんです。

どうなったでしょうか。今でも思い出します。

(つづく)

昭和20年の思い出を語る会(3)

2010-08-28 08:35:18 | 戦争体験
 Mさんの話(以下原文どおり)

私はあの空襲で大怪我をしました。

あまりいい話ではないかもしれませんが・・・。

家は中区二ノ谷の山の方にありました。山はUの字のような格好で、家の10

メートル上は高射砲陣地でした。此処は高射砲台だから安心だと軍の人は

言ったんですね、今考えれば一番危険な所なのに、教育というか、洗脳と言う

か、恐ろしいものだと終戦後つくづく解りました。

あの日はカンカン照りでしたが、空襲があるというので、冬の制服を着ていま

した。 あのヘチマカラーの長袖、でも暑いので、ぬいだ途端に”ババーン”

と来ました。

母の声が

 「飛行機がきたから出なさい」

 着る間もなく飛び出そうととした瞬間爆風で倒れました。多分右を下にして。

 だから右の方が怪我がひどかったのです。焼夷爆弾の直撃でした。

 実は50年経っても不思議だと思っているんですが、5月29日の一週間前に

 夢を見たんです。 爆撃でやられても耳が聞こえたから助かっている証拠だと

 言う・・・・・・暗示をうけたんですね。我にかえると爆弾の音がバンバン

 すごいんです。 

 ”あっ!聞こえる、助かったんだ”と思いました。

 家は焼け始めて煙がすごい。裏山の防空壕へ行こうとと逃げ出した時、ヒョイ

 と見たら両腕の肘から先に白いものがぶら下がっています。

 「あっ、皮だ。皮膚だ!」

 しかし其の時は痛くもなんともなくて、高い窓を飛び越えて貴重品をとりに

 いったりしました。それを肩に掛けて崖をのぼったのですが足が動かない、

 普段は平気で駆けのぼっているところなのに。やっとの思いでよじ登ると

 そこは三中、今の緑ヶ丘高校の山つづきで広々と畠なんですが、其処に焼夷

 弾が落ちているのを母と消しました。畠の土が柔らかくて足がブスブス入る

 ので、足の傷の中に泥が詰まってしまいました。

 手の怪我だけはわかっていたけれど、足もやられているとは気付かなかった

 んです。 顔もです。要するに露出していた部分は全部。右足はズボンの中

 なのに上の方までやられました。

 あっという間に空襲が終わりました。

 坂下の東福院に救護所があったので母と行きました。

 治療の順番があって包帯をもっている人が先なんです。母は黙って包帯を

 盗んだんです。 ほんの僅かですけど・・・・。そして井戸で傷の泥を洗って

 くれました。それがとてもよかったんですね。親って本当に強いなあと思い

 ました。盗んだおかげで早く診てもらえましたし・・・・・。

 今だからこんな事を話せます。 当時としては国賊ものですよね。

  (つづく)


昭和20年の思い出を語る会(2)

2010-08-27 06:34:04 | 戦争体験
(以下原文のまま)

 5月29日横濱大空襲

  昭和20年5月29日の横濱大空襲。一時間8分の間に約40万個の大小

焼夷弾が降ってきて、市外のあらかたが焼き尽くされました。

あの日のことからはじめましょう。

Oさんの話

 あの日は朝8時過ぎ、登校の途中平沼橋で空襲警報になったので、家へ戻り

ました。

焼夷弾がバンバン落ちてきてアッという間に周りから火の手。あの空襲は東神奈川

平沼からやられたそうですが、私の家は其の平沼でした。

祖母が老衰と言う感じで寝ていました。

隣組の人たちが

「大家さんのご隠居さんは絶対に運び出します」

と言っていたのに、気がついてみたら近所中誰もいない。祖母を起こしてステッキ

を持たせ、私は非常袋とかいろいろ持って外へ出たらもう道の両側は火で、裸馬

なんかが逃げて走ってくるんです。

家の約束で父の実家の保土ヶ谷へ行く事になっていたので、どうしても保土ヶ谷へ

行かなければと思って浜松町まで来たら、もう火で何処へも行けないんです。

それで尾張屋橋の下の道路のところに祖母と二人で座り込みました。あの東海道線

や横須賀線や貨物線の線路がいっぱい通っている所です。線路の両側は煙で全然

先が見えない状態でした。

 その時祖母が

「此処に置いていっておくれ、あんたは若いんだから一人でお逃げ」

と言いました。でもまさか置いては行かれません。

 「空襲が静まってから迎えに来てくれればいい。私は此処で必ず待っているから」

辺りはシーンとしていてザーッと言う雨の音がしている。

それは焼夷弾が落ちる音なんですが静かなんです。二人の押し問答が聞こえたのか、

線路の向こうから憲兵が二人でてきて

 「誰かこのばあさんを連れていってくれ」

すると不思議なことに、煙の中から小柄なおじいさんが出て来て祖母をおんぶして

くれました。祖母は大柄な人だったのですが、小さいおじいさんにおぶわれて線路

を行きました。昔、機関車にホースで水を入れていたけれど、そのホースが壊れて

水がバンバン出ていたので、三人でその水をかぶりました。煙で苦しかったので。

私は大切な羅紗のオーバーコートを着こんでいたのですが、頭から水をかぶったの

に五分で乾いてしまいました。三人で久保町まで来たら火が治まっていて、

”ああ、助かった・・・・・”。

話しはそれだけなんですけれど、尾張屋橋まで行く途中に川があって、熱いから皆

どんどん飛び込んでいたけれど、私は祖母がいるから出来なかった。仕方なく

尾張屋橋の下へ行ったんですが、結局あの川には焼夷弾がたくさん落ちたんですよね。

もし飛び込んでいればどうなっていたか。

 それにこのごろ思うんですが、私が祖母の立場だったら”私を置いてお逃げ”

と果たして言えるだろうか。又祖母はこんな事も言いました。

 「手ぬぐいにオシッコをかけてそれを口に当てて逃げるんだよ」

 まあ、それはしないで済んだのですけれど。祖母は本当に大したものでした。

この話しは誰にもしたことがなかったんです。もしかしたら聞かれたことも

なかったんですよね。

(つづく)

 昭和20年の思い出を語る会(1)

2010-08-26 14:10:00 | 戦争体験
 今、私の手元に「昭和20年の思い出を語る会」と言う小冊子がある。

 私の女学校の同期生、神奈川県立横濱第一高等女学校45期生の篠崎

孝子さんのご発案で同期生の45期生と46期生の皆さんのご協力で作

られたものである。

 これは余談ですが、何故同期生が45期生と46期生と言うことに

なるのかと言いますと、この戦争直後現在の高等学校制度ができ、

それ以前は5年生で卒業するような制度でしたのが、戦争のお蔭で

4年で卒業させようということもあったようで、私たちの学年では

4年生で卒業する事も可能でしたし、普通に女学校を卒業すると5

年生卒で、又、新しい高校卒と言う事を選択しますと6年で卒業す

ることになりました。

ですから地方に疎開された方は4年で卒業された方もいらっしゃっ

たようで、私たちの学校でも、一年上の方は4年で卒業された方も

居られたようでしたが、私の学年ではお一人もなく、5年で卒業の

45期生と6年の46期生に分かれる事になったのです。

 これは戦争の思い出ですので「昭和20年の思い出を語る会」を

編集された同期生の柴田(中田)トシさんにお願いして、ブログに

掲載させていただく事にいたしました。

 企画してくださった篠崎孝子さんや御協力くださった皆様に感謝

と敬意を表しながらここに掲載させていただきます。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

             「序にかえて」

 ☆ I 「昭和20年の思い出を語る会」へのおさそい(抜粋)☆

                 H7(1995年5月17日

 早いものですねえ。日本が戦争に負けてからもう50年も経った

 なんて・・・。

 昭和20年には多くの人が空襲で丸裸にされただけでなく,肉親・

 友人との別離、疎開による転出・入校、勤労動員、飢え、敗戦、

 占領軍の進駐、思想の大転換、教育の混乱、その他一生忘れられ

 ないような体験を沢山しました。

 実は私自身,14~15才という感じやすい年ごろに受けた強烈

 なインパクトが、その後の己の生きかたに計り知れない影響を持っ

 たと強く感じている一人なんです。

  そこでご提案ですが、50年前に味わった事、感じたことなど

 を皆でお話し合いする会を持ってみませんか?

 名づけて「昭和20年の思い出を語る会」とでもしましょう。

 年齢も六十路の半ばにさしかかったいま、一人ひとりが”わが

 人生”の総括をするのも悪くないんじゃないでしょうか。

  でも、非力な私が一人で力んでみてもどれほどの事ができる

 でしょう。いろいろ考えたすえ、次の方がた(アイウエオ順)

 にお力を貸していただけないものか相談しました。

    碓井(佐藤)ヤスコさん  長井(八木)文枝さん
 
    安田(竹腰)美代子さん  柳沢(岡崎)和子さん

 何と、全員が即座に”OK”とのお返事でした!

 そして5月14日、安田(竹腰)さんのお宅に集まって具体的

 な打ちあわせをしました。

 いうまでもなく、この会の主役はあくまでも参加してくださる

 あなたです。お話し合いの内容を記録としてまとめ、次の世代

 へのメッセージとして、母校にお贈りするのも良いでしょう。

 ちなみに第一高女は21世紀の初めに創立100年を迎える

 そうです。

  上記の趣旨をご理解くださり、「昭和20年の思い出を語る

 会」にご賛同、ご参加のお気持ちがおありのかたは、5月25日

 (木)までに次のような内容で幹事のいずれかへご連絡いただけたら

 と思います。

  ① 話し合いに参加する気持ちがある。(できれば実施の

    方法なども)

  ② グループでの話し合いの際,コーディネーターを引き
 
    受けてもよい。

  ③ 体験記を送りたい。

  ④ 特に○○さんの話を聞きたい。

  ⑤ その他

                    篠崎(松信)孝子


 ♡開催要領

  日時:平成7年7月2日(日) 午前11時

  場所:有隣堂 営業本部ビル 6F会議室

     〒244 横浜市戸塚区信濃町881-16

  費用:昼のお弁当代として約2千円ご用意ください。  以上

 
(つづく)

胡瓜の塩漬け

2010-08-25 10:58:08 | お料理
 昨日卓球のお友達から胡瓜の古漬けだと言って胡瓜の塩漬けを

たくさんいただいた。

重たい石で重石をしていると言う事と、塩が辛いので、家に帰ったら

すぐ塩出しをしてくれと言う事と、今は暑いので、すぐカビが生える

から、すぐ食べてねと言われたので、家に帰ったらすぐ水に漬けて

置いたのだが、重たい重石をしてと言われるだけあって、きゅっと

締まってなかなか上手に漬けられていた。

 夕べは久し振りにてんぷらをしていたのだが、天ぷらの衣がほんの

少し残ったので、ふと、いたずらを思いついた。

其の残りの衣を使って胡瓜の塩漬けを揚げてみたらどうなるかと思った

のだ。

塩抜きして水気のある胡瓜の水分を拭き取って残りの衣に入れてみた。

天つゆでいただいたら、意外とおいしかったので、次々と思いつくまま

いたずらしてみたのでちょっとご披露。

 写真向かって右の木の葉型のお皿のものはてんぷら、真ん中の向こう

側のものは、てんぷらの油を容器に移した後の少し残っていた油で、

炒めて七味唐辛子をかけたもの、其の手前はそのまま鰹節をかけて

マヨネーズであえてみました。残りの物は、油いためのものに鰹節

をかけてみたのですが、いつものようにしょうがと合わせたりもいい

のですが、たまにはこんな方法もいいのではないかとと思いました。

学徒動員時代の思い出(5)

2010-08-24 05:23:02 | 戦争体験
学徒動員を要請するために学校側から父兄に宛てた当時の手紙が見つ

かった。

ただしこれは私たちの次の2組と5組のために書かれたものである。

以下は私の同期生たちが昭和20年の思い出を語る会の小雑誌を作ら

れた際に掲載されものである。




拝啓 豫て御承知の如くすでに本校は三学年以上の生徒を工場に出勤

せしめありし處今般さらに當局の指令に従ひ低学年生徒をも派遣致事

と相成り候

是固より国家の要請に基くものに有之候へども学徒盡忠の至誠を発揮

すべき機到れりと生徒等は皆大なる感激を以って挺身奉公を誓ひ居る

次第にて誠に頼もしき限りに御座候

併しながら厳寒の折柄不慣れの作業に従事し剰へ雑踏の交通機関にて

往復致すにつきては健康衛生訓育学業等諸方面に亘り細心の注意を要

する事とて学校としても萬全の手段を講ずべく候へど各家庭におかれ

ても充分なるご配慮を賜はり度御依頼申上げ候

本動員は決して単なる労力の供與にあらずして学徒をして勤労報国の

理念の下に行ふ作業場を道場とする行學一体の教育実践にしてあくま

で学徒たるの 持をもたしめつつ戦力増強に十二分の効率を上げしめ

たきものと存せられ候


洵に重大なる一行事なるにつき学校としても改めて保護者各位の御来

校を求め充分のご説明をなすべき筈に候へども緊迫せる戦局下に鑑み

今回は書面を以って御通知申し上げ候 何卒別紙○○出勤要項等御高

覧の上本動員の趣旨達成に充分の御協力を切望致す次第に御座候 

           敬具

 尚出勤中特に御気付きの点有之候節は其の都度即時学校に連絡相成度候

昭和廿年一月三十日

            神奈川縣立横濱第一高等女学校長 長澤恭治


保護者殿

            出勤要綱


 一、場所 横濱市鶴見区下末吉町一〇三五

      森永食糧工業株式會社鶴見工場

 一、人数 一〇〇名

 一、期間 自 昭和二十年二月一日 至 昭和二十年二月二十八日

 一、勤労時間 自 午前八時半 至 午后三時半

 一、休業  毎週金曜日

 一、作業内容  軍糧食包装

 一、通勤方法  自宅ヨリ通勤

 一、支給經費  報償・交通費等

 一、支給金ノ處理  學徒勤労動員ノ報償取扱細目ニヨル

 一、配給  雑炊 四勺(毎日間食トシテ)

 一、警報発令ノ場合

   1、就労中ハ會社ノ指揮ニヨル

   2、警戒警報中ニテモ出勤ス

   3、空襲警報ノ際ハ解除後に出勤ス

 一、健康診断
   
   1、出勤前学校ニ於テ校医ノ診察ヲ受ケシム

   2、出勤中ハ随時健康診断ヲ行フ

   3、長期疾病ノ場合ハ診断書ヲ添ヘ保護者ヨリ学校長宛ニ

     免除願ヲ提出ノコト

 一、出勤中事故ノ場合  学徒勤労動員受入側措置要綱ニヨル

 一、勤務成績  出欠状態 就労中ノ態度熱意ニツキ考定ス

 一、出勤セザル者ノ處置  学校ノ指示ニヨル

   注意  通勤ニハ乗リ物ノ乗降・警報等ニ充分注意スル

                        以上
  

 本文の中に支給経費とあるが、この時には12月18日から半月分14円

  次の1月分は28円と言う計算書はいただいた覚えがあるのだが、お札を

  手にした覚えはない。友達に聞いてみたのだが、其の事すら忘れておられ

  る方ばかりで、支給金の処理という次の項目に学徒勤労動員の報償取扱

細目ニヨルとあるので、何か他の経費に振り当てられた可能性があるよ

うに思っている。私には初めての給料になるはずだったのに、こんな紙切れ

  一枚かと思った記憶がある。 母にもそれを見せたと言う記憶があるが、

  もしお金をいただいたのなら、母の行動を覚えていると思うのだが、

"ああ そう"

と言われたぐらいのことだったように思えるし、もしそれで何かを買ったの

 なら覚えている筈だ思えるのだが・・・・・・。

 (つづく)  

学徒動員時代の思い出(4)

2010-08-23 04:22:48 | 戦争体験
 戦争中は軍隊の食料が一番大事で国民の栄養摂取はニの次にされて

いたので、内地の将校クラブなどでは結構いろいろ食料があったらし

いが、私たち子供は、小国民などと言われて次の国家を担うものを

育てなければと言う事は一応考えられていたようだが、食料について

は全く何の配慮もなかったと思う。

私は女学校入学時の身長は133センチ、体重は31Kgぐらいだった

ように記憶しているのだが、小さい方であって、背の高い方は170

センチを超える人もあったが、全体の児童の発育は遅れていた。

それは栄養失調と言うだけでなく、戦争と言う圧力が私たちに

精神的、且つ肉体的発達を遅らせていたようであった。

最近では小学校二年生ぐらいでも初潮があるお子さんもあると

保育科で習った記憶があるが、私たち女学生の中にはすでに初潮

を経験している方もあったらしいが、たいていは戦後までなかっ

たようである。

物のない時代だからある意味では助かったのだが、体の成長が遅

れていると、女性としての気持ちの上での発育も遅れているよう

であった。

何かあると、背の高いグループの方が男性に対しての興味を持っ

ていて背の低いグループの生徒たちは余り興味がなかったように

思う。

いつもそういう問題で騒ぎ出すのは背の高い人たちであった。

森永動員時代に、時々、私たちの工場に出入りする若い素敵な男性

が居られた。 当時は本当に若い男性などあまり目に入らない時代

だったから、余計みんなが注目していたのかもしれないが、その時、

何やかやと話題を提供してくれたのが、背の高い人たちであった。

その男性は湯元主任さんの息子さんの一郎さんであった。時々業務

連絡でこられていたそうだったが大学を卒業されたばかりのなんと

なく初々しい方であった。

その後で3年生になって海軍航空技術省支廠へ行った時にも、私たち

に魚雷の図面の見方を教えたり、いろいろおせ世話をくださった加藤

少尉と言う背の高い、颯爽とした方が居られたが、その時にも騒ぎ出

したのは背の高いグループの人たちであった。

  (つづく)

学徒動員時代の思い出(3)

2010-08-22 17:58:35 | 戦争体験
 ”航空耐寒食”の袋つくりは、チョコレート色の艶のある紙

を裏返しにして置き、その上に銀紙と透明なセロハン紙を載せ

30センチ長さの直径3センチぐらいの木型に巻きつけて筒状

の物を作るのであった。

出来上がりは表にチョコレート色の艶紙が来るようになるので、

私たちはこの中身にはチョコレートが入るのかしらなんて想像

してしまった。

お昼休みになると、自分の持ってきたお弁当を食べ、工場の裏庭に

出て日向ぼっこをしながら、当時流行していた歌をお友達と歌う

のが、つかの間の楽しみになっていた。

 一日の作業が終わると、食堂に集まってご飯がお茶碗一杯分出る。

ご飯といっても、細切れの大根やら大麦の入ったもので、小さめの

お茶碗によそったご飯をお皿にひっくり返して、その上に、ゴマ塩

を掛けたもので、たまにカレーがかかっている事があったが、そん

な時には、満面の笑みを浮かべられた湯元主任さんの

 ”このカレーは、当社のバターを使っておりますので、とても

 おいしいと思います。”と言う宣伝文句が付け加えられていた。

カレーには大根しか入っていなかったが、それでも私たちは、大いに

歓迎した。

 月一回、森永キャラメルの当時10銭で売られていたものが一個と

五助と呼ばれていた、焼きすぎたり割れてしまったクッキーの袋が

配られて、みんなとても喜んだが、誰も袋を開けてすぐ食べようと

言うものはいなかった。

その頃はそういうものは配給もなく手に入らないので、家族のために

みんな喜んで持って帰ったのである。

家に帰ると弟や妹たちが大騒ぎして、母が分けてくれるのを待ちかねる

位であったが、私は小さい弟妹たちの年には、いつでも好きなだけ食べ

られるものだったのにと思うと、可哀想でならなかったので、いつも

少しだけ食べて机の中にしまっておくと、下の妹が、見つけて食べるの

であった。
                 

                          (つづく)