80ばあちゃんの戯言

聞いてほしくて

原子爆弾投下予定地(7)

2010-08-12 07:18:52 | 戦争体験
日本の対応

当時、大本営と帝国陸軍中央特種情報部(特情部)は、サイパン方面の

B-29部隊について主に電波傍受によりその動向を24時間体制で監視して

いた。

大本営陸軍部第2部第6課(情報部米英課)に所属していた堀栄三が後に

回想したところによれば、第509混成部隊がテニアン島に進出したことや、

進出してきたB-29の中の一機が長文の電報をワシントンに向けて打電した

こと、それ以前からサイパン方面に存在していた他のB-29部隊が基本的に

V400番台、V500番台、V700番台のコールサインを用いていたのと異なり

第509混成部隊がV600番台のコールサインを使用していたことから、新部隊

の進出を察知していた。

その後6月末ごろから、この「V600番台」のB-29がテニアン島近海を飛行し

始め、7月中旬になると日本近海まで単機もしくは2~3機の小編隊で進出し

ては帰投する行動を繰り返すようになったことから、これらの機体を特情

部では「特殊任務機」と呼び警戒していた。しかしこれらのB-29が原爆投

下任務のための部隊であったことは、原子爆弾投下後のトルーマン大統領

の演説によって判明したとのことであり、「特殊任務機」の目的を事前に

察知することはできなかった。

そもそも日本軍は当時の米国における原子爆弾開発の進捗状況をほとんど

把握しておらず、およそ特情部においては「7月16日ニューメキシコ州で

新しい実験が行われた」との外国通信社の記事が目についたのみであった。

もちろんこれはトリニティ実験を指した報道であったのであるが、実験

直後の時点では内容は公開されておらず、当時の日本軍にその内容を知る

術はなかった。

それを踏まえ堀は「原爆という語はその当時かけらほどもなかった」

と語っている。

また特情部では、当時スウェーデンを経由して入手した米国海軍の

M-209暗号装置を用いた暗号解読も進めていたが、この暗号解読

作業において「nuclear」の文字列が現れたのが8月11日[12]の

ことであった。

当初は軍部は新爆弾投下に関する情報を国民に伏せていたが、広島や

長崎を襲った爆弾の正体が原爆であると確認した軍部は報道統制を

解除。

11日から12日にかけて新聞各紙は広島に特派員を派遣し、広島を全滅

させた新型爆弾の正体が原爆であると読者に明かした上、被爆地の

写真入りで被害状況を詳細に報道した。

これによりSF小説や科学雑誌等で近未来の架空兵器と紹介されていた

原爆が発明され、日本が戦略核攻撃を受けた事を国民は初めて知った

のである。

なお、この原爆報道により、パニックに陥った新潟県は8月11日に新潟

市民に対して「原爆疎開」命令を出し、大半の市民が新潟市から脱出

した。

これは新潟市も原爆投下の目標リストに入っているらしいという情報

が流れたからである。

原爆疎開が行われた都市は新潟市のみであった。また東京でも、単機

で偵察侵入してきたB-29を「原爆搭載機」、稲光を「原爆の閃光」と

誤認することもあった。

8月15日終戦の日の午前のラジオ放送で、仁科芳雄博士は原爆の解説

を行った。

8月15日正午、戦争の終結を国民に告げる為になされたラジオ放送

(玉音放送)で、原爆について「敵ハ新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ

無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル(敵は新たに

残虐な爆弾を使用して、無辜(むこ)の非戦鬪員を殺害傷害し、

その悲惨な損害は本当に人間の考えの及ばない程である。)」

と詔があった。

正確な犠牲者数等は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)

占領下では言論統制され、日本が主権を回復した1952年に初めて

報道された。

 (つづく)

  以上wikipedia 調べより