核実験について、今まで公開されていなかったものが、最近公開
されて、NHK で放映されました。
以下はNHK テレビ”NHKスペシヤル水爆実験60年目の真実”
よりの抜粋
広島の科学者たちが探していたのjは60年前太平洋ビキニ環礁
周辺にいた漁船員の歯。それを調べることで当時の放射線をどれ
くらい浴びたがわかるので、これで出てくる可能性がある。
これまで国が認めてこなかった被爆者を明らかにしようとして
います。
日本から南へ370キロ太平洋ビキニ環礁1954年3月1日、アメリカが
水素爆弾の実験を行いました。
威力は広島に投下された原爆の1000倍でした。大量の放射線降下物
第五福竜丸23人の漁船員全員が被爆。周辺には数多くの漁船が操業
していました。
水爆実験は二ヶ月半に6回、周辺には数多くの漁船が操業していま
した。しかし、日本政府は他に、多くの漁船員が被爆したのを認め
ませんでした。実験の翌年、アメリカから、200万ドルを受け取る
ことで、この問題を終わらせたのです。
それから60年、広島の科学者たちが第五福竜丸以外の漁船員の被爆
をあらわにしたのです。被爆の痕跡が歯や血液から次々と見つかり
初めてビキニ被爆がわかったのです。更にアメリカでも新たに事実
が判明します。
公開された文書の中に、これまで存在しないとされてきた漁船員たち
の検査記録もあったのです。
アメリカに送られていた漁船員たちの被爆記録。この事実が隠されて
きたのには訳がありました。
東西冷戦が激しくなった1950年代アメリカはソ連との核開発競争で
優位に立とうとしていました。アメリカエネルギー省元上級政策顧問
"アメリカは核開発の邪魔になるものはすべてとり除きました。この
日本人の被爆も同じように隠されてしまったのです。”
日米両国のデータを重ね合わせると、更なる事実が浮かび上がって
きました。死の灰を浴びた可能性のある漁船は100隻近くにものぼって
いたのです。国家の思惑の陰で、亡き者にされた漁船員たちの被爆、
広島の解き明かす60年目の真実です。
水爆実験60年目の真実。広島が迫るうずもれた被爆。昨年4月広島で
ビキニ水爆実験を明らかにするプロジェクトがたちあがりました。
集まったのは、長年被爆者の体に残された放射線の影響をしらべていた
専門家たちです。
リーダーは放射線物理学の第一人者、広島大学放射線物理学名誉教授
星正治さん、統計学で被爆と病気の関係を明らかにしてきた統計学
広島大学大瀧慈教授、そして、血液学を専門とする広島大学田中公夫
博士、数多くの漁船員が暮らす高知からもメンバーが加わりました。
元、高校教師の山下正寿さんです。
きっかけとなったのは山下さんが長年にわたって行ってきた漁船員の
追跡調査でした。それは25年前、高校の生徒たちが行ったひとつの調査
が出発点となりました。
地元の漁師から、ビキニ周辺操業していた船が港の近くに捨てられて
いるというを話を聞き放射線量を調べてみることにしたのです。
水爆実験から30年以上たっているにもかかわらず毎次1,5マイクロ
シーベルト、自然界の37倍の放射線量が検出されました。
漁船員が水爆実験の後、どうなったのか山下さんは漁船員の実態調査
を行いました。(実験から34年後の時点)
健康状態について帰ってきた答えは驚くべきものでした。
癌などの病気で全体の3割、61人がすでに亡くなっていました。
さらに、一般の男性では13,000人に一人が発症すると言う
白血病で死んだ人が三人もいたのです。
しかし、山下さんには、病気と被爆を結びつけるすべはありませんで
した。
そこで協力を申しでたのが、長年被爆を研究してこられた広島の科学者
たちでした。
原爆被爆者を追跡調査してき多研究者の一人
...もっと早くいろいろなことに気がつくべきだったんです。というか
もっと素直に実態を把握すべきだったんです。
1945年8月6日、ひろしま、8月8日長崎、アメリカが投下した
二発の原子爆弾によって、その年だけで21万人以上の命が奪われま
した。
生き残った人たちも、その後次々と、癌や白血病におそわれます。
人々は被爆のためだと国に原爆症の認定を求めました。しかし、認め
らレない人が相次ぎます。そういう人たちの体に残る放射線量の痕跡
などから、広島の科学者たちは被爆を証明してきました。これまで
培ってきた技術があれば、60年前の事実でも明らかにできると考え
たのです。
どれだけの被爆があったかわからないわけだから、それを解明する
チャンスがあれば、私たちの義務でしょう。
プロジェクトは今回漁船員の被ばく線量を測り、健康への影響が現れ
るかどうかの国際基準の100ミリシーベルトを超えるかどうかに
注目します。
リーダーの星さんは、漁船員の歯を集めることを提案します。
”歯があれば被獏線量が測れます。抜歯する時にとって置いて頂く
ことになりますよね。”
絶えず細胞が変わる他の組織と異なり、歯は入れ替わらないために
被爆の痕跡が残ります。歯の表面を覆うエナメル質、ここに放射線
があたると組織に異常がおきます。 異常は原子と原子をつなぐ
電子に現れます。放射線があたると、二つの電子のうち、一つが飛ぶ
わけです。異常が見られた電子の数を数えることで、浴びた放射線量を
導き出すことができるのです。
高知県室戸
プロジェクトチームの山下さんは漁船員たちの歯を捜し始めました。
以前調査で訪れたことのある漁船員の家を回ります。
”武蔵丸という船にのっておられたとお聞きしたんですが?”
"もう亡くなりました”
漁船員本人に出会えてもなかなか歯は見つかりませんでした。
"歯は全部ないわ。 やるんやったら、もっと早くせにゃね。”
60年の空白が調査の前に立ちはだかりました。
プロジェクトチームが被爆の実態に迫ろうとするビキニ水爆実験、
それはアメリカが広島や長崎の原爆投下から9年後に行いました。
広島を壊滅させた原爆の1000倍の威力、新たなパワーの時代
の幕開けでした。
このとき被爆が公になったのが第五福竜丸です。日本政府は、脱毛
やけどなど、放射線による急性症状が現れた漁船員24人の被爆を
認定します。実験はその後もくりかえされました。大量の降下物、
死の灰が太平洋上に降り注ぎました。
”一連の水爆実験は成功裏に終わった。”(アメリカの報道です)
この周辺の海域では多くの漁船員がマグロを追っていました。
被爆を疑う声が上がりましたが、国が受け止めることはありません
でした。
何故漁船員たちが自ら声を上げてこなかったのか、そこには漁船員
たちの抱えた事情がありました。
桑野浩(ゆたか)さん81歳
桑野さんが乗っていたのは高知県室戸市第二幸成丸。1954年
2月24日に日本を出航、一ヵ月後にビキニ環礁から1300キロ
のところで二回目の水爆実験に遭遇します。
"黒い雪が降る。雨でも雪でもない、黒いのがどんどんどんどん降って
くる。一センチ、二センチ甲板にたまるんです。何や何やとなるんです。
そのとき乗っていたのが、平均年齢25歳20人の漁船員。実験から
20年過ぎたころ、癌や心臓病などで次々に亡くなりました。
今、生き残っているのはたった3人だけです。
桑野さんは仲間の死が、被爆によるものだと思いながら、声を上げる
ことができませんでした。禁句だったのです。室戸市内ではビキニの
話はないことにしようと言う風潮でした。
亡くなった漁船員の奥さんの話
”徹底的に隠していた。魚が取れなくなる、室戸はマグロで生きてきた、
でも、漁師のなくなる、船もなくなると室戸が全滅する。”
国の対応に不信感を抱いていた第二幸成の当時17歳だった久保尚さん
77歳はビキニから日本に戻ると直接国による放射線検査を受けたこと
を覚えています。ガイガー(測定器)でやっていた。最初は検査官が船
に乗ってきて、船の周囲と、人体を測った。測定器は激しく鳴っていた。
しかし国から結果を知らせることはなく、その後、何も対応はありませ
んでした。
久保さん
"そんな病気であると全然わからんし、死の灰と言われても、全然どんな
ものかわからない。ほったらかしと言うか、その一時だけ騒動で・・・。
(続く)