80ばあちゃんの戯言

聞いてほしくて

当時の交通事情(3)

2009-07-30 09:38:11 | 思い出の北京
1994年頃の話

 当時、北京の天安門前大通りは真ん中に6車線、つまり3車線

づつの上り下り(中国ではではなんというのかわからないのだが、)

の車の道があって、その両脇には自転車道が確保されていた。

かなり広いと思ったが、何せ何年も前の記憶だから、間違っている

かもしれないが、自転車も確か6台ぐらい横になって走れる広さ

だったようで、朝夕のラッシュアワーの時にはものすごい数の車が

次々と切れ目なく走っている様は壮観だが、私が、もし北京で

自転車に乗るとしたらとても怖くて真中は走れないだろうと思った。

 バイクはまだあまり多くはなかった。

 北京大通りでは、引越し荷物かと思われるぐらいの山のような

荷物を積んだリヤカーをよく見かけたものであった。

 中国人の馬力はすごいなあという感じがしたのである。

その周りに自動車が十分走れるくらいの幅の歩道があり、

(タクシー歩道を走るに書いたが)この歩道は、確か舗装して

いなくてところどころに段差があって、砂利道だったと思う。

段差があったということは、もしかしたら、私の乗ったタクシー

の他にも歩道を走った車があったのかもしれない(笑い)ですかね。?

 馬力といえば、少し郊外では、まだ馬車が通るのを見ることができた。

力車はあったようだが、私は見たことがなかった。

当時の交通事情(2)

2009-07-29 19:59:35 | 思い出の北京
1994年頃の話

乗り合いバスと言うのか、乗り合いタクシーというのか、小公共汽車(シャオコン

コンチーチャー)と言うワゴン車を道端に止めて、車掌さんが上半身を乗り出して

大声で行き先を叫んで、同じ方面に行くお客を呼び込んでいた。

 交渉次第で、ちょっと横道へ入ってくれたりすることもあったし、

4人乗りだったり、無理して5人乗せたりしていたが、乗客のメン

バーによってはとても楽しいひと時になった。

中には、車の中にいろいろ生活用品を持ち込んでいて、もしかした

ら、車の中で生活しているのかもしれないと思ったこともあった。

公共汽車(コンコンチーチャー)と言うバスは二台連結だった。

なかなか来ないし、来れば大勢乗れるのだが、行列すると言う風習

がなく、降りる方が優先と言うことも,勿論なく、我先に乗るので、

混雑している時間に乗るときには覚悟がいった。

大抵、女の車掌さんが一人乗っていて、行き先を告げた後は

”買票。買票.(マイピヤオ。マイピヤオ。と、切符を買えと早口

で言いながら、前の車へ行ったり後ろへ行ったりしながら、切符を

売っていた。みんな競って切符を買っていたが、買った切符は回収

しないので、異様な感じを受けた。

日本の古いバスが使われていたので、車体はぼろぼろで、床には

あちこち継ぎ接がしてあったし、よく故障して降ろされたが、

その際には、運転手さんや車掌さんからは何の説明もなかったが、

少し長く止まっていると思ったら、前に乗っている客が降り始め、

誰かが、故障だと言っているのが聞こえたりする。其れでも、誰一

人文句を言わず、慣れているからかなと思っていたのだが?

マーチョと呼ばれる輪タクというのだろうか、漕ぎ手は一人だが、

お客は二人並んで坐れるものに夫と乗ったことがあったが、北京

の石ころだらけの道では、がたがたして、あまり乗り心地がよい

とは言えず、お値段的には高いという印象がある。

 (つづく)



当時の交通事情(1)

2009-07-28 18:51:38 | 思い出の北京
1994年頃の話

 私は8回北京に行っていたが、汽車というものに乗ったことがなか

った。

ある時誰に言うともなしに

”ああ、私も一度中国の汽車に乗ってどこかへ旅行してみたい!。”

と言ったら、

 "奥さん。行くだけは行けますが、帰れない覚悟で行って下さい。

切符は、そう簡単に手に入りません。ワッハッハ。”と、会社の方に

笑われてしまった。

 そう言えば、北京の駅前には何時も大勢の人たちが、駅前広場の

地面に坐って、大きな荷物によりかかっていたりするのを見ていたの

だが、切符を買うために待っていたのだとは知らなかった。親子連れ

や、グループらしい人たちも居て、中にはお食事中という方々もおら

れたようだったが、あまり本を読んでいた人は見かけた覚えがない。

 地下鉄は当時はまだあまり発達していなかったが、環状線と西郊外

への二路線あって、私は環状線に乗ってみたが、約30分のものだっ

たと言う記憶がある。

 わりと新しいので、電車は綺麗だったが、中に乗っている乗客は穏

やかな笑顔が多く、中国のおのぼりさんと言う感じのご家族も居られ

て、ほほえましかった。

タクシーはいつでもどこでも乗れて便利な乗り物であった。

 会社の運転手さんの話では時々渋滞すると言うことだったが、私は

時間帯が違うのか、あまり渋滞にあったことはなく、渋滞にあっても

すぐ解消してしまった。日本の渋滞とは大分違っているようであった。

 夫はタクシーに一人で乗るのは危険だと言っていたが、どこでも乗

り降りできるタクシーは私にとっては欠くべからざるものであった。

乗る前には相手の顔を一応見てから、交渉に入ったが、それでも変な

感じの人には幸いあわなかった。

でも中には代金をぼられたり、変なところへ連れて行かれそうになっ

た方もおられるようなはなしだったが・・。

 そう言えば、夫と一緒にテーブルクロスを買いに行ったときに、私

たちをお金持ちと勘違いした運転手にぼられたことがあった。 北京

住まいの夫がすぐ気づき、

 ”お前、私たちのお蔭でたんまり、手数料をもらっておきながら、

まだ、これ以上私たちから、お金を騙し取ろうとするのか”と怒鳴っ

たのを聞いて、運転手は

 "それもそうだ。”と引き下がった。

(つづく)

















中国人女性

2009-07-27 18:57:10 | 思い出の北京
1994年頃の話

 南宋の頃から、中国では、女性は足が小さいほど美人である

とされて、纏足と言う風習が行われていたようである。

幼い頃から足の親指以外を裏側に、きっちりと動かないように

留めていたと言う。

私が、子供の頃多分1937,8年頃のことだと思うが、横浜

の中華街(当時は南京町と言っていた)で、纏足の人を見た記

憶がある。

 中国風の鮮やかな紅、黄色や緑などの刺繍を施したコートの

ようなものを着てズボンを穿いていた。

 私の傍らに居た母が、

 ”あの人の足はとても小さいでしょう?あれは纏足と言って、

小さい頃から足が大きくならないようにされていて、体の割り

に足が小さいから、遠くまで歩いたりあまり力のいる仕事はで

きないそうよ。”と、囁いてくれた。

 その人の隣に長い辮髪を背中にたらした、かなり小柄な男が

居た。私の弟が、怖がって泣き出したのを覚えている。

 纏足は、清の時代には禁じられたそうだが、なかなか止めら

れなかったようである。

 何故こんなことを書いたかと言えば、私の考えでは、纏足の

お蔭で女の人がお料理をしなくなったのだと思うし、しないの

がお育ちがよいと言うことになっていたのではないかと思うのだ。

 若い方に質問すると、

”お料理なんてしません。”と平然と言うか、むしろ胸を張って

答えているような気がしたのである。

それに、私の家でパ-テイをしたときにも自分たちもお料理がし

たいと言い出したのは男性たちであったのだ。

でも、会社の秘書として働いていた方のお宅にお招きいただいた

ときには、そのお母さまのお手料理だったし、とてもおいしくて、

また、気配りのできる立派な方だった。

さて、以前にちょっと触れたことがあったが、中国女性は気が強

いし、夫婦喧嘩で勝てる男性はあまり居ないだろうと思う。

前回の話では大通りの出来事だったが、デパートで見かけた若い

ご夫婦があった。まだ生まれて間もないような赤ちゃんを抱いて

いたのだが、十代に見える若い母親が、あの人形を買ってくれと

館内中に聞こえるような大声で泣き叫んでいたのである。

ちょっと日本人では考えられない話だ。

一般の女性たちはなかなか気さくで、バスの中や相乗りのタク

シーの中でこっちへ荷物を置けとか、ここへ坐れとか親切に言っ

てくれた。

おしゃれに関してもなかなか興味があるらしく、私のイヤリン

グを褒めてどこで買ったのか聞いたりする。バスの中で、何だか

後ろから引っ張られているような気がして、振り向いたら、二人

のおばはんが、私の洋服を引っ張って品定めをしている最中だった。

昔から中国の歴史に残る女性と言えば、私たちがよく知っているの

は、楊貴妃だとか、西太后だとか、いずれも才色兼備の女性である

が、現代の女性もなかなか才色兼備の女性が多いような気がしてい

る。




夫の会社の女性たちも次々と日本へ留学してきたが、なかなか

しっかりとして頭がよかった。ただ、そのひとりが、

 ”日本の女子学生はちっとも一所懸命勉強しない。男の子の後

ばかり追いかけている。”と言っていた。


   ? ? ? ? ? 大ショック! ! ! ! !





中国語

2009-07-26 17:03:51 | 思い出の北京
1993年頃の話

 大分前に友達が中国へ旅行されて戻られたとき、

 中国の人は漢字が読めるから、汽車の中で面白いご夫婦と乗り合わせて、筆談を

 したけれど、とっても楽しかったわと言われた。

 まあ、それはそれでいいと思うが、わたしとしては、なんだかそれでいいのだろ

 うかという気がするのである。

 中国では、子供さんたちが習って居る漢字は簡体字(簡略化された漢字)のよう

 であるから、だんだん、わたしたちが使っている漢字が読めなくなる人も出てく

 るし、簡体字で表示されているものは読めないのではなかろうか?

 よその国へ行かれる方は多少なりともそのお国の言葉を勉強して行ってもらいた

 いと思うのだが・・・。

 例えば、日本語には(留守)という言葉がある。

 中国語にも全く同じ漢字で(留守)と書く言葉がある。

 ”そうよ。だから別に言葉なんて勉強していかなくても大丈夫よ。”と言って

 もらいたくないのである。

 何故なら、漢字は全く同じでも意味は正反対であるからだ。

 皆さんご存知の日本語の(留守)は不在と言うことであるが、中国語の(留守)

 は(リューシュー)と発音し、留まる所を守るのであるから、必ず居るという意

 味である。

 もし、中国の方とお話して、この言葉を使ってデイトしたら、と思うとぞっとす

 る。

 中国語で手紙と書くとトイレットペーパーのことだが、日本語の手紙は信(し

 ん)である。

 相手のお国の言葉を習うと言うことは、相手を尊敬する気持ちがあると言うこと

 だとわたしは思っている。

 お互い、尊敬しあい、理解を深めていかなければ、何時までたっても、真の平和

 への道は近づかないのではないかとわたしは思っているのだが・・・。

 如何なものであろうか?

定年退職(2)

2009-07-25 21:30:41 | 定年退職
夫は毎日張り切っていた。わたしの次の予定を聞き、初めてのところだと、地図を

引っ張り出して検討し、前の日に下見に行くのである。

 ”お父さん、大変だから、その日は少し早めに出て行けばいいのでは?”と、言っ

てみたが、夫は

 ”いや、それでは先様にご迷惑を掛けることになりかねない。”といって、埼玉

や、東京のはずれ、はたまた、千葉など、遠方でも出かけていく。

 ”二日続けていくのだから疲れるでしょう。”と言っても、張り切って出かけて

行き、やっぱり行ってみてよかったのとご報告がある。

わたしは商売だから、ガソリン代が倍掛かるわけだが、夫の趣味と思うしかないと

思って放っておいた。

わたしの方の話は大体時間が掛かるので、その間どうしたらいいかまで計画を立て

て、終わりそうな頃来て待っていてくれたのである。

実はわたしは、その頃特注家具の仕事をしていたのである。だから時には、新築や

改築のお宅に出来上がった家具を持っていって取り付けるのだ。もちろん、それは

職人さんたちがやってくれるけれど、わたしが少しでもできることを手伝った方

が、仕事も速く終わり、士気も上がり、そのお宅へご迷惑を掛けることが少ないと

思って何時もむくつけき男どもの間に挟まって重たい特注家具を運び入れたり、拭

いたりするのを手伝うことにしていた。

夫はそれまで手伝ってくれた。

ただ出来上がると、夫は入っていって家具の状態を見に来るのである。それは、わ

たしとしては、関係者でないのに入ってくるのは困ると思ったが、ご主人や奥様が

次々と出てこられて、嬉しそうに

 ”奥さんにお願いして本当によかったわ。”などと入れ替わり立ち代り言って

くださるのが嬉しいらしくて、どこへ行っても一番先に見に入るのであった。

 夫は一度行ったところは絶対に忘れないと言うのがご自慢だったが、数年たって

から、他のところも改築したくなったなどとお電話いただいたりした時にとても助

かったのである。そんな時、わたしが思い出すのはお客さんのことと、家具のこと

だけであったが、夫は道順まで覚えていてくれたのである。

定年退職

2009-07-24 11:25:46 | 定年退職
1995年
 
 夫は定年退職をした。65歳であった。
  
 翌朝から、

 ”おい、今日はどこどこへいくぞ!”と言う掛声に悩まされることになった。

 その頃私はまだ現役で仕事をしていたので、

 ”はい。そうですか。”と簡単に言う訳にはいかなかった。

 ”ちょっと待ってよ。今日はお客さんのところへ行かなければならないの。私だ
  
  って仕事をしているのだから勝手にスケジュールを決められても困るわ。”

 ”そうか。俺は今まで、長期計画、一年の計画、今月の計画、今日の仕事、時間

  割まで考えていたからなあ。”

  ”ご苦労様。でも、私だって計画があるのよ。”

  夫が定年退職をしたら、家で家事を何もすることがないだろうと思っていた。

  それまで午前様のことも多く、頼む気もあまりしなかったが、あまり器用でな

  い夫、もちろん私も不器用の部類に入ると思うが、それでも、長年私なりに何

  でもこなしてきてキャリアがある。だから家事のことを一切頼む気はなかった

  のである。

  夫が枯れ落ち葉とか、濡れ落ち葉とか言われて、家の中で坐り場所さえなくな

  くなるのは嫌だった。

  この日のために私なりに計画していたことがある。

  夫が好きなことと言えば、車を運転することだった。

  だから、私の仕事上、車の運転免許は是非とも欲しいものであったが、取って

  はいけないものだと固く自分に言い聞かせていたのである。

 よく○○さんみたいにアクテイブな方がどうして車の運転免許をお取りになら

 ないのですかと、聞かれたものだったが、私は、夫が運転してくれる日まで、ひ

 たすら待っていたのである。

 (つづく)




中国家庭料理

2009-07-23 06:00:15 | 思い出の北京
1994年頃の話

 確か杭州の出身の方のお宅だったと思うが、お食事に招いていただいた。

 彼らの話では、一般に中国ではお客様にご馳走するときには一人分3皿作ると言

 う。つまり3色「3種類)である。

 中皿というのだろうか、直径20センチぐらいのお皿がたくさんあって、一人増

 えるごとに中皿一枚分他の料理を増やすということだった。もちろん足りないよ

 うなら、どんどん追加する

 われわれ日本人はよそのお宅でご馳走になったら、残したら悪いような気がして

 たくさん食べ過ぎてしまうことがあるのだが、中国では、残すようでないとご馳

 走が少なくて、いいお持て成しとは言えないということだそうで、 つまり少し

 は残さないといけないのだとか。無理をして食べてしまうと、相手は何時までも

 作り続けなければいけなくなるのだそうである。

 彼らが使うお皿はいつも同じサイズのものだと言うことだったが、脇に同じ白い

 皿がたくさん積んであった。

 ある意味では非常に合理的と言えるのではないだろうかと思った。収納するにも

 場所をとらないし、探す手間も要らないというわけだ。

 日本のように、さまざまな色や形のものがあって、お料理や季節、テーブルクロ

 スの色にあわせたりするのは楽しいものだが、一長一短だなあと思った。

 今日は何人前作るからといちいち量を考えなくてすむし、同じ量をいつも作って

 いるなら、お料理もすぐに上手になっていくのではないかと思ったものである。

餃子

2009-07-22 08:09:21 | 思い出の北京
1994年頃の話

 中国では昔から、日本で言うところの旧正月を祝う。

 どこかへ出稼ぎに行っていた人もみんな帰ってきて、家族総動員して餃子を作

って正月を祝うのが慣わしである。

 だから、普段、お料理とは関係ないと他人任せにしているご婦人達も,餃子には一

家言を持っている。

 私たちが中国の方をお招きしてく餃子パーテイをしたことがあった。多分全員で

17,8人になったが、北はハルピンから南は四川や雲南から来られた人々だった

が、それぞれのご自慢の作り方があって、どう作るかで喧々諤々、早口でまくし立

てるので、わたしは全くついていかれなかった。

 結果教えてもらったことは、

 1.餃子の皮は手作りで、日本のものより大分厚めで、耳たぶの硬さにしたら冷蔵

   庫で少し寝かせておく。

 2.キャベツは味を損ねるので、絶対に入れない。「これは南北共通」

 3.小エビをたたいて豚肉に混ぜるとおいしい。

 4.にんにくは中へ入れないで、擂って、別皿に入れ、好きな人がつけて食べる

  「これも共通)

 5. 野菜「生姜以外)は細かく切って、水気はよく絞っておく。生姜は別に擂っ

    ておく。
   

 6.3の挽肉「小エビ入り)と 5の野菜をあわせ、胡麻油と醤油をいれてよく

   よくかき混ぜる。

 7.大鍋に湯をたっぷり沸かし餃子をを茹でるが、浮き上がって繰れば出来上が

   り。

 8. 酢醤油で食べる

材料

 豚ひき肉、小エビ「少しあればいい)
 
 しょうが、白菜、にんにく、にら、長ねぎ   粉(強力粉)



 餃子は、爆竹とともにお正月の楽しみだと言う話であった。

学童疎開(3)

2009-07-21 07:39:23 | 戦争体験
 集団疎開から帰った妹は家にそのままいても学校がありませんので、母方の祖母の妹のお宅に縁故疎開でお世話になることになり、静岡県の相良まで母が送っていきました。

 当時の相良ではまだ横浜に比べると食料があったらしく、母はいろいろ買ってきてくれました。妹は遠縁のお宅でしかも男の子お二人で、それも大きかったので、可愛がっていただけたようでした。


 その数ヵ月後に横浜の私たちの家は空襲で焼かれました。ですから妹は空襲で
逃げまどうということはありませんでした。

 話は変わって、わたしは友達と陣中見舞いと言うことで、ある方を秦野にお尋ねしました。

その方はわたしたちの尊敬していた先生でした。

お寺にお世話になっていて子どもたちは本堂に寝起きしていたのです。

先生のお部屋は隣で、お部屋の中にはいろいろなものが置いてありました。

 その中に山積みされた南京豆がありました。

 先生は、わたしたちが伺ったことをとても喜んで下さったのですが、帰りに、そ

の南京豆をわたしたちに400グラムづつぐらいづつ袋に入れてくださいました。

 ”いいえ。結構です。”とわたしは言いましたが、先生は

 ”横浜ではないだろう。”とおっしゃってくださったのです。

一緒にいた友達は単純に喜んでいたので、それ以上断ることもならず、受け取って

しまったのですが、帰り道に、あれは子供たちにあげるものではなかったのかと思

うと、とても憂鬱になってしまいました。