80ばあちゃんの戯言

聞いてほしくて

家具と私(44)

2011-02-28 16:07:51 | 家具
家事机が全部売り切れて在庫がなくなってしまったが、主婦の友社の方に

主婦の友誌に載ったらば、売れますから、三年はデパートにおいてくださ

いねと言われていたので、メーカーに又家事机を作るように依頼したのだ

が、もう作りませんと言われてしまったので、何とかしなければならない

と思ってあちこちのメーカーに話をすることにしたのだが、そう簡単には

いかなかった。

 仕方がなくて新潟の家具の産業展にはるばる出かけていった。

くまなく会場のメーカーに当たってみたが、なかなかやってくれそうな

ところがなかったが、夕方になってやっと一軒の家具屋さんの社長さん

と話ができ、いろいろと、話が弾んで、これから先のことにまですっかり

意気投合して話し合えて、家事机の量産のことが決まり、御代は先払いで

いいですからとお願いして、ほっとして岐路に着いたのだが、翌朝其の

社長さんから電話でお断りが来た。

 "あんたは酷い人だ。家事机はお断りだ”と言って電話を切られたのだが、

私は合点がいかなかった。

私が品物の御代を先払いすると言っているのに、何も危険はないはずでは

ないのかと思っていたのだが、調べて見たら、どうも家事机で後発になっ

てしまったデパートとへも商品を入れていると言うことだったので、もし

かしたら、何かあることないこと言われたのかもしれないと思ったのだが、

あきらめるしかなかったが、なんとしても次の製品を早く作らなければ

いけないと思って、今度は静岡の展示会へ行ってみた。そこでお目にかか

った藤枝の家具メーカーの社長さんが

 ”ではとりあえず、試作品を作らせてください。”と、言ってくだ

さったので、お願いすることにした。

暫くして、製品が出来上がってきたが、"うちではとても量産はできない。”

とお断りを食ってしまったのである。

 その後、全国のこれはと思うメーカーに手紙を書いてみたが、なかなか

返事が来なかった。

ある夏の朝早く、急に四国のメーカーの方が出張で夕べはこの近くに泊

まったからと行ってたずねてこられたのだが、夏休みのことで、まだ子供

たちは寝ていたので、狭い団地の家ではまだお布団が敷いてあって、恥ず

かしい思いをしてしまったが、ただの冷やかしに来たようで、ろくに家具を

見もせずに、四国の方ではみんな早起きですからと、言われてしまった。

 その後、又、静岡お家具展示会へ行ったが、社長さんが、是非うちでやら

せてくれと言われて、お店に連れて行かれた。

 そこで家事机以外の家具もご用を承りますと言って下さったので、こちら

で、他の特注品をお願いすることになったので、ほっとしたのだが、その後

一度も家事机のことでデパートから電話がなかったことは不思議でしかたが

なかった。

最初に売り出したときでさえ、締め切ってからさらに注文が会期中より多く

いただけたくらいだったからである。私に内緒で作っていたのかもしれない

と思っていたが、何分にも一人なので、時間がなくてデパート周りができ

なかったのである。

家具と私43

2011-02-26 18:48:52 | 家具
 それから毎日、仕事の外に,自分の家の家具をどうするかと考えて

いった。 

 それと同時に今まで茅ヶ崎で作ってもらっていた特注家具を横浜で

作ってくれるところを探さなければならないと思った。

それまでいろいろなお宅の家具を作らせていただいていたのだが、

其のお宅の家の大工さんのよしあしが家具を取り付けに伺うとすぐ

わかってしまうので、家具も同じことで、私がいくら一生懸命に使い

勝手や、見栄えを考えたとしても家具職人さんの腕がよくなければ

駄目だと考えていたので、今度はどうしても横浜方面のお客さんが

多くなるだろうから、時間や運賃のことを考えたら、どうしても

コストが余計にかかってしまうので、できるだけお客さまのお宅に

近いところで作ってもらう方がいいと考えたし、それと同時に

横浜で腕のいい職人さんを抱えている木工所を探したいと思って、

どうしたらいいのかと考えたのだが、多くの家具を塗装して

いる塗装やさんに聞けば、きっと、上手に仕上がっているところを

知っているに違いないと思ったので、以前家具の塗装をお願いした

ことのある塗装やさんに聞いて見たらどうだろうかと思ったが、

職人さんはとても頑固一徹な感じの方も多いので、下手に聞いたら

だんまりをされるかもしれないと思った。

それで、塗装やさんのお好きそうなものを持って行って、話を聞か

せてもらうことに決めた。

 それである日、其の塗装やさんのすぐ近くの商店街で塗装やさん

が何がお好きか聞いて見ることにしたのである。

まづ酒屋さんに行って買い物をしながら聞いてみたが、お酒は飲ま

れないと言うことだったので、今度はお菓子やさんにいったが、

甘いものよりは果物がとってもお好きのようですよと言われたので、

果物専門店に行ってお好きそうな果物を籠に入れてもらってお昼の

お食事が終わりそうな頃を見計らって持って行った。

 ちょうど、お食事が終わってお茶にしようと思っておられたところ

へ行ったので、気持ちよく逢ってくれて、話を聞いてもらうことができ、

二箇所の木工所を教えてもらった。

 一応両方とも行ってみたのだが、片方は断られたが、うまい具合に

私の家が建つところから車で7、8分の木工所が引き受けてくれること

になった。


スーパーオペラレッスン

2011-02-25 06:51:38 | 教育
 今朝たまたま早く眼が覚めたので、NHKの教育テレビをつけたところ、

”スパーオペラレッスン”を放映中でした。 私が拝見できたのはほとんど

終わりごろの7,8分だけではなかったかと思うのですが、非常にすばらしい

ものでしたので、ちょっとご披露を。

 放映時間は毎週金曜日の朝5時35分から6時になるまでで、私は早速来週分

の録画を予約しました。

 言葉は英語ですが、日本語の字幕も出ていたと思いましたがオペラの勉強

だけでなく、英語のお勉強にもなりますし、演劇がお好きな方にも非常に

面白いものではないかと思いました。 

 それだけでなく、人生訓もあり、バーバラ、ポニー先生のお人柄にも触れ

られて本当にお若い方にはぜひ観ていただきたいと思いました。

 今日の所で、一番感じたのは声を前の観客にぶつけなさい。愛し合っている

二人の歌声でもお客に声をぶつけなければ感動させられないから、最後に

相手のお顔を見るぐらいでいいと・・・・。 それに対して、演者からの質問

がありました。

 "もし、演出家が、相手の顔を見て歌えと言われた時はどうしたらいいので

 しょうか?”との答えでは、

 ”練習の時には、演出家の言うとおりになさい。でも本番では、ちゃんと

 やればいいのです。演出家とは其の後はお別れですから。 自分の考え

 通りにやりなさい。

 私の付き人はいつも私に輝いていろと言います。何時もあなたはピンクの

 バブルの中にいると思いなさい。 そう思って努力することが大事です。

 自分の考えを持つこと。”

  一度でバーバラ先生のファンになりました。

戦後の英語教育

2011-02-24 16:32:39 | 教育
 今回も亦テレビで見た情報だが、戦後の英語教育が何故文法を重視する

やり方になったのかと言うと進駐軍の日本の教育を担当する方々が、

日本語と言うのは漢字、ひらがな、かなと三種類も文字があるから

きっと識字率が低いと思ってランダムに人々を集めてテストをしたところ

ほとんどの人が、漢字も、カナも、ひらがなも読めると言うのにびっくり

されてたとか。それは外国人にとっては信じがたいほどの数字だった

そうな。

一時は、漢字、カナ、ひらがなと三種類もあるのはよくないので、全部

ローマ字にさせよと言う話もあったそうだが、それでは日本の文化が壊滅

してしまうと言う反対もあって取りやめたそうで、こういう優秀な日本人

たちにどんどん英語を駆使されてしまうと、世界は日本人の天下になって

しまうと言う危機感があって、文法重視のしゃべれない英語を教えられる

ことになってしまったのだとか。


戦時中の英語教育

2011-02-22 07:16:43 | 戦争体験
 今朝NHKの教育テレビで ”英語愛憎の200年”と言う番組を放映

しておられました。

 これまで、私は、戦時中の英語教育が政府の肝いりで止められていたの

かと思っていましたが、そうではなくマスコミの影響が多分にあったと

いうことを知りました。

 今頃憤りを感じています。

私は昭和18年4月神奈川県立横浜第一高等女学校に入学しました。

当時は英語の教育を選択するかどうかでクラス分けがされたのですが、

1組は英語の授業を受けないクラスで、2組から6組までは英語を選択した

クラスでした。そして、2年生からはたった週一時間だった英語の授業

がなくなりました。

 其の頃放課後に行われるクラブ活動の名前もバスケットは篭球、

ピンポンは卓球と言った具合で、私は子供心に、そんなことで

戦争が勝てると思う狭い考え方に反発して、女学校に入ったら卓球部に

入ったら、きっといい選手になれると早稲田の学生だった叔父さんに

言われていたのにもかかわらず、卓球部に入ることを潔しとしなかった

のですが、本当にショックを受けました。

 国はダブルスタンダードで、一般には英語教育をやめさせ、必要だと

思われた人々にはちゃんと英語教育をしていたのだそうで、これも

びっくり。

陸軍の工兵隊の教科書は機械の名前などすべて英語で書かれた

ものだそうで、英語がわからないと、機械の製作や開発ができないと

言うので、英語教育が行われていたとか、商業英語も勉強されていたと

言うことでしたし、当時の海軍兵学校では、英語教育が日本語を一切

使わずに行われていたそうで、自然科学から歴史などすべて英語で書か

れたものを英語で何が書かれているかと説明があったそうです。

 私の一年生のときに同じクラスだった方がお二人、津田の教授になっ

ておられますが、彼女たちは、家庭教師に英語をずっと習っていたそう

でした。

戦後大学受験で私は母や伯母たちが卒業したフェリスの英文科なら受け

てもいいと言われて、入ったのですが、女学校から上がってきた人々の

英語力は、戦後の付け焼刃程度の私の英語とは、大学生と中学生程度の

ものすごい差があってショックを受け、聞いて見たところ、英語はずっと

教えられていたと言うことでした。

 フェリスでは母が学生だった大正時代に殆んどの学科(お裁縫とお作法

と国語以外)は米人先生の英語で行われていたそうで、戦後進駐軍の

英語の試験で神奈川県で、母は県庁関係にお勤めの男性と同点一位だった

と言うほど、フェリスの英語教育は昔からずっとすすんでいたのです。

これは余談ですが、外人の体育の先生があるときバケツを持ってこられて

"これはなんというものですか?"と聞かれたそうで、

先生の前に横一列に並んでいた生徒が、片側の方が、揃って”バケツ”と

言い、反対側の人たちが、"手桶”と言ったので、先生が、

"おや、”おけつ"ですかと言われて大笑いになったと言うこともあったそう

です。




家具と私(42)

2011-02-21 13:19:11 | 家具
 その頃、長男が仕事の都合と、嫁さんの都合でどうしても東京でないと

暮らせないと言うことで、東京に住んでいたのだが、次男と暮らすことに

なるので、一応長男との話し合いを持ち、了解を得て次男との二世帯住宅を

建てることになった。

次男が、建築会社の建物を方々見て歩いて旭化成ホームズに決めたいと言う

ので、頭金は夫が出し、後はローンを組むことになって、いよいよ本格的に

家の建設がはじまった。

初めて旭化成の人とお目にかかることになったのはその翌年の2月15日で

私たちは、茅ヶ崎から車で日吉の次男のアパートに行ったが、出かける時

には、曇りだったのだが、三者の話し合いをしているうちに急に雪が激し

く降りだして、話が終わって外へ出た時には、もうすでに15センチぐらい

雪が積もっていて、さらに激しく降ってきているようだったので、とても

茅ヶ崎までは帰れないだろうと判断して、屏風ヶ浦の私の実家に泊めて

もらうことになった。

翌日家に帰ったら、茅ヶ崎では停電が続いていて、家の中はとっても寒くて

灯油の火鉢を出して暖をとったのだが、少しも温かくならずに、閉口した。

あんな大雪は本当に珍しいことで、積雪は35センチあった。




 それから私は仕事を毎日こなしながら、家の間取りを考え始めた。

二階は旭化成の設計士に頼むと言うので、一階の私たちの方は、私が、いろ

いろ考えて、間取りから考えることにしたのである。


設計の方と話し合って、とりあえず、玄関と階段の位置を決めてから取り掛

かった。


私のところの土地は、北側が広い道路に面していて、まだ、周りには家が

あまり建っていなかった。南は空き地で、東側は一段上に宅地があったが、、

まだ空き地のままであった。西側は一段下がったところに農家の畑が

広がっているので、風も日様もさえぎるものが全くなかった。

つまり西日がもろに当たるというので、できれば、キッチンにはしたく

なかったのだが、息子の要望で、そこへキッチンを作ることになった。

 1)長男がきたときにも家の前に車をとめられるように。

 2)二間続きの部屋を作って人寄せができるように。

 3)家具は全部自分で作って収納力のあるものを入れる。

 最初から家をショールームとして使う計画だったし、私たちもお年なので、

 お葬式を家から出すときのことも考えて決めたのである。

家具と私(41)

2011-02-20 07:26:41 | 家具
 1980年代には、家が欲しいと思い出して、私たちはあちこちの土地を

申し込んでいたが、いつも外れていた。

その後、次男が、結婚して、日吉に住んでいたのだが、ある土曜日の朝、

その息子から電話がきて、

"いつも会社の方とお昼のお弁当を一緒に食べているのだけれど、其の

 方が、明日、港北ニュータウンの土地の募集があるから行って見よう

 と思っているのですが、行かれたらどうですか? 結構よさそうです

 よ。”
  
 と、言われたので、 今から申し込みに行こうと思っているのだけれ

 ど、お父さんの名前を借りてもいいかと言う話であった。

 夫がいいというので、すぐ返事をし、ちょうど出かけようとしていた

 ところだったので、すぐ、車で出発してしまったのだが、ふと、夫の

 名前で申し込むのなら、もしかして、夫の会社の住所を書く必要が

 あるかもしれないと思って、途中の郵便局から電話をかけたら、息子

 が、今それを聞いておこうかと思っていたところだと言った。



  そんなことがあって、数日後に夫の場所が当籤したと電話で言われ

 たので、夫や息子たちに連絡をして、大喜びだったのだが、それから

 二、三日後の夕方、港北ニュータウンの事務所から電話があって、

 当選は無効になったと言われたのである。 びっくりして何故ですかと

 聞いたら、夫の名前と次男と長男と重複して申し込んであると言うこ

 とだった。 

 急いで、次男に其の旨、電話連絡したら、次男が、

 ”それはおかしいよ。僕たちはそこにおられた担当の方に、父は県内の

 ところに、兄は県外、僕は市内で、嫁さんのお父さんの名前で県外で

 この様に申し込みたいけれど、どうでしょうかと、ちゃんとお伺いを

 立ててから申し込んだんだと言うので、みんなで翌朝一番で契約する

 会場へ出かけていくことにした。

 

  四人揃って中へ入り、当日次男と嫁さんが話した人を探すことに

 なったが、奥の方に立っておられた40代ぐらいの背の高い格好のいい

 スーツ姿の人を見つけて、

 "ああ、あの人だ。”と言うので、みんなで近寄って行き、息子たちが、

 "先日、申し込みのときに、僕がこのように申し込みたいが如何ですかと

 お伺いしましたよね。?”と言ったら、覚えていてくださった。

 ”其の申し込み方が重複しているので、無効だと、お電話をいただいた

  ので、びっくりして伺いました。”と、私が言ったら、

 ”ちょっとお待ちください”と行って奥へ引っ込まれたが、すぐ、やって

 こられて、

 "それでは、こちらへどうぞ。”と言うことになって別室で契約ができた

 のであった。
 

夫と癌(10)

2011-02-16 07:01:23 | 
その後、夫の死亡診断書をもらいに病院へ行った。

係りの女の人が、

"ああ、あの、検査入院の方ですね?”

と、言われたので、びっくりして、

"いいえ、癌の手術で入院していました。”

と、言ったのだが、もし、検査入院でということになると癌保険は

降りるのだろうかと、考えていた。

大分待たされた後、男の方がやってきて、封筒に入ったものを渡さ

れたのだが、裏には封がしてあった。

其の男の職員さんを、隅の方に連れて行き、小さな声で言った。

 ”さっき受け付けの方が検査入院の方ですねと言われたので、

 この内容が気になっていますので、この封をあけたいのですが?”

 と言うと、其の方が、

 "これはちゃんと封をしてありますので、これは開けられません。

 もしあけたら、法律違反になってしまいます。”と、言われたので、

 ”私たちは癌保険に入っているので、この内容によっては癌保険が

 出ないかもしれませんので、ちゃんと癌と書いてあるかどうか確か

 めないと長年高い保険料を払ってきたのですが、それが無駄になって

 しまいます。だから確かめたいのです。”と言ったら

 ”どうしてもだめです。このままお持ち帰りください。”の一点張り

 です。

 それでも、私は”此処で引き下がるわけにはいかないのです。”と

 言って 頑張りました。
 
  30分も過ぎた頃、彼が、
 
 "分かりました。では、私が開けてあげます。封筒を取り替えればいい。

 この封筒は私が書いたものですから。”と言ってくれた。

 中の死亡原因の欄にはたった一言"癌”と書いてあった。


夫と癌(9)

2011-02-15 10:23:10 | 
 お葬式の数日後、夫と同じ先生に私も健康診断を受けていたので、

結果を聞きに行くことになっていた。

午後一時にということだったので、12時45分ごろに病院へ行った。

私が午後の部では一番最初に待合室に入っていたのだが、午後の診療

が始まっても、一向に私の名前が呼ばれなかった。私の後から来られ

た男性たちが、

"奥さん。 悪いね。 奥さんの方が早く来ておられたのに、お先に

ごめんなさい。”と言って、つぎつぎに診察室へ吸い込まれていった。

私には大体訳が推測できたので、"別に急ぎませんので、どうぞ”と、

何食わぬ顔をして見せていたのである。

皆さんが全部終わられて、辺りが暗くなりかかって、廊下に人っ子一人

いなくなってから、暫くして、やっと私の名前が呼ばれてお部屋に入る

と看護婦さんも誰もおられず、先生お一人だった。

きっと、私が先生を罵るとか何とか、大声もありうると思われて、

そういうことになったのだろうと私は思った。

 私は言った。

 "先生。うちの母は、よく変なことを言うと、其の通りになって

 しまうことがあるから、変なことをいうもんじゃないって言って

 ましたけど、夫は、何でもない時に、僕はあの先生が大好きだから、

 あの病院であの先生や、看護婦さんのお世話になって死にたいって

 言ってましたよ。だから、其の通りになってしまったのでしょうね。”

 先生はふっと小さく息をはかれたような気がした。



 
  翌日、私は同じ病院の眼科に行った。

 眼科の色白の美人先生が

 "あら、あんたが、あの荒武さんの奥さん?”

 と、言われたのだ。  

 もうすでに病院中の噂になっていたのだろうと思った。

 

  私の友達の中には、

 "あなた。訴えればいいのよ。”と仰られた方もあった。

 でも、私は、そんなことを思ったことはなかった。

 たとえ一年半でも夫も私もまったく癌のことを忘れて幸せに過せた

 ことは、本当に先生のお蔭であり、もし癌がずっとあちこちに転移

 しての死であるならば、夫もきっと長い間苦しむことだろうし、私も

 其の苦しみを見ることになって大変な思いをしなければなかったと思う

 からだ。

 日曜日だったので担当の先生がおられなかったのは仕方のないことだし

 日直の先生が一度も来られなかったのは、お忙しかったからに外ならない。

 其の日に夫が具合が悪くなったことが不運であったのだと思う。

 戦後、アメリカの訴える文化が日本に入ってきて、何かあると訴えることも

 あるようだが、私はあまり賛成できない。今回は先生の落ち度ではない

 けれど、よしんば、先生に落ち度があるケースであったとしても、それは

 ご本人がきっと 反省しておられることだろうし、それから学ばれること

 も多い筈。失敗は成功の元である。人間だからこそ、時には失敗もありうる

 のだと思う。全く失敗がないことを要求するならば、それは神様に治療を

 お願いする外はない。 何かあれば、すぐ、訴えられるようなこと

 であれば、そんな大変なお仕事をしてくれる人々がきっと減っていくこと

 になるのだろうと考えている。

    (つづく)

夫と癌(8)

2011-02-14 08:25:23 | 
 夫の病室へ荷物を片付けに行って、同室だった方々にご挨拶をした。

お隣のベッドの方が、ご主人は、明け方、苦しくなられて、ベルを

押されたようだけれど、看護婦さんが中々来られないので、這って廊下

まで出て行かれて、そこでやっと看護婦さんが来られたのです。”

と、言われた。

私は、もし、夕べ夜通し付いていてやっていたなら、夫が苦しみ

ながら、這って廊下まで行くなんてことをさせなくてすんだ

のにと思ったら、たまらなかったが、いまさらそれを

言ったとて、どうなるものでもないと心の中で思っていた。



 私たちはただお礼を言って、車に荷物を置きに行き、霊安室へ

戻ったら、長男と大学生の孫が東京から駆けつけてくれていた。

 長男が先に家に帰って用意しておこうと言ってくれたので、鍵を渡

して頼んだが、朝起きぬけに、そのままの状態で飛び出したので、

お布団もそのままだったし、みんながいてくれて本当に助かると感謝

した。



 霊安室にはすでに葬儀やさんが待機してくれていた。

お医者さんの着るような白衣の服を着た30代ぐらいのやや小太りの

あまりさえない感じの男だったが、型どおりの挨拶をし、

 "これからご遺体をお宅へお移しいたしますが、場所はどちらですか?”

 と聞かれた。

一応、町名を言って、”如何ほど掛かるのでしょうか?”と、聞いたの

だが、”お宅へ行って見なければ判りません”

 どういう意味なのかと思って、再度いろいろ尋ねてみたが、何を聞い

 ても、お宅へ行って見なければ判りませんという返事。

 どういう意味なのか計りかねたし、なんだか、ぼられそうな気がして

 いたら、次男が、

 "すみませんが、会社の葬儀屋さんがあるので、そちらに頼みたいと

  思っているのですが・・・・・。?”と、言ってくれた。

 男は口惜しそうにすごすごと引き上げて行った。

 

 次男が携帯電話で、連絡を取ってくれたら、背の高いまじめそうな

 34,5歳ぐらいの男が割合と早く来てくれて、丁寧に、ことを

進めていってくれたので、ほっとした。




夫は常々、以前会社の方のお葬儀に参列したときに、お年を召した

会長が、外の寒い所にずっと立っておられてとても気の毒だったから、

俺の時には、迷惑を掛けたくないので、内輪でやってくれと言って

いたので、息子たちとも相談して家族葬で家でやることににした。

 (つづく)