80ばあちゃんの戯言

聞いてほしくて

家具と私(14)

2010-06-28 14:59:12 | 家具
 昭和43年「1968年)から取り掛かっていた家事机。

労働大臣賞をいただいてから、更にいろいろと検討を加えて

夫の許可を得て、木工所でつくってもらっていた本体が出来上がっ

たのが、昭和45年「1970年)12月29日であった。

それ以外の引き出しの中のトレーだとか、中仕切りや、アイロン台を

兼ねた椅子にもなる部分とか鏡を取り付け、自分で本体と全く同じ色

に仕上げたのが完成したのは翌年昭和46年4月であった。

自分の家の中にあちこち収納されていた、あるいは収納しきれずにいた

私のものが、すべてこの家具一台に収まってしまって家の中が広くなっ

た気がしたものであった。

 左側の写真はカーテンを取り付ける前のもので右側のものは、中に収納

していた椅子を手前に出してある。

家が狭いので、思うような写真が取れず、手前に置いた夫の机の角が右端下

に茶色く写ってしまっている。

まづ左側の写真の上の方からご説明すると、一番上は上置きで、本体とは

別作りである。この中にはほぼ真ん中に縦に仕切りがあり、左右に

棚板が左に一枚、右に二枚着いていて、買い置きの布や毛糸など箱に入れて

収納されている。

本体の上部にはライトが付き、右に見える本棚は置く側と手前の前後に二側

並べに本を入れることが出来る。奥側に入れる本は、なるべく背の高い本を、

手前には低めのものを並べれば本の背表紙の頭が見えて後ろに何があるかが

わかるわけ。

引き出しは上から、薬品類、ちょっとした大工道具、化粧品類等が入れてあり

この写真では鏡が見えていないが、ミシンの上手前にかけて左側の板にとりつ

けたりはずしたりできるような金具で取り付けしたので、鏡をはずして立て

かければ全身が見える仕組みであるので、この家事机で自分の衣服を縫って

着て、見ることが出来るし、化粧品の引き出しがあるので、これで鏡台代わり

となる。鏡の角度は変えられる。

ミシンは下に載せる台板を作り、板の裏側には敷居すべりを取り付けてあるので、

重たいミシンが軽く取り出せたり、しまえたりする。

又ミシン台の下側には穴が開いているので、カーテンのような大きいものを

縫った場合には縫っていくうちに後ろの穴の中へ縫ったものが入っていくので、

ふわっとなって、下の板の上まで「約10センチ)しか落ちないので、家具が

なくてミシンの下の方まで布が落ちていくと、布の重みが掛かって、ひっぱら

れて縫いにくかったのであるが、それがなくなった。

机の面になる部分の手前には補助版が出るようにしてあるのだが、其の中には

編み機を収納でき、取り出せば取り付けて編むことが出来る。

下の大きい収納棚には椅子や、掃除機、カールセットなども入れられる。椅子の

上部はひっくり返せばアイロン台になる。又中にはアイロンがけを必要とする

衣類やクロースが入っている。

右下の上の引き出しにはトレーが二つ中に入っており、左右に摺動させて使える

が、三段に入れられるし、大きいものは立てて、端に入れておける。

大きいはさみなどは何もも仕切りのない上の浅いトレーに、小物はそれより少し

深めにしたトレーの取り外しも出来る仕切りを利用してきちんと整理できる。

取り外す事も簡単で、引き出しをあけただけでお裁縫箱になるので、ミシンを手前

に引き出せば、そこで、ミシンがかけられ、ミシンを奥に入れれば、小さいもの

など待ち針を打ったり、標しつけなども出来る。

右の一番下の深い引き出しにはアイロンやのり、霧吹き、たこ、などが入れられて

いる。

カーテンは例えば、何かを遣り掛けでやめなければならない時に出来れば扉の中に

入れてしまいたかったのだが、それではお値段的に高くなると思ったので、カーテ

ンをつけたらどんな具合だろうかと思ったのである。


ワールドカップ決勝進出

2010-06-25 06:20:44 | スポーツ・趣味
 バンザーイ!  バンザーイ!  バンザーイ!

日本が3対1でデンマークを下し、決勝進出が決まりましたね。

本当によかったです。

監督,選手、そしてスタッフや関係してくださった皆さん、本当に

ありがとう。

応援にわざわざ現地まで駆けつけられたサポーターの皆さんご苦労様。

今、きっと戦勝気分でお疲れも吹っ飛んでしまったかもしれません。

私も眠気が何処へやら行ってしまいました。

お仕事で御覧になれなかった皆さん。本当に日本選手たちは頑張られ

ましたよ。そしてもちろん岡田監督の采配もすばらしかったようです。

ゴールを決めた方々はもちろん他の選手の活躍も本当にすばらしい

ものでした。とかくサッカーはゴールした選手だけに光が当たりやす

いですが、それを助けた選手たちの動き、チームの団結力、日本選手

たちのすばらしい集中力、みんなに、お一人一人に拍手を送って上げ

ましょうね。

 試合は前半17分本田の左足がスーと伸びて、フリーキックで

1点が入り、前半30分、同じく遠藤のフリーキックから2点目が

入りました。

 後半トマソンがシュートしたのを、ゴールキーパーがいったん止め

たのですが、其のこぼれ玉をトマソンが入れてしまったのです。

本当にはらはらしましたが、其の後残り9分のところで、途中出場の

岡崎が本田からのいいパスをもらい、3点目を入れてくれました。

思わず飛び上がりました。本当にすばらしかったです。

ワールドカップ前の日本選手たちは負けていい経験になったのでしょうね。

見違えるような試合を展開してくれました。

本当に感謝。感激です。

すぐにでも乾杯したい気分ですが、もう朝になってしまったので、ここは

決勝戦で日本が優勝するまでやめておきましょう。同じくアジアから決勝

進出した韓国と日本がこの先いい試合を出来ますように。



戦後の暮らし(6)新円切り替え(ロ)

2010-06-23 07:01:10 | 戦争体験
 新円の切り替えで一番困ったのはサラリーマンのご家庭だったのではないか

と思います。

ご商売なら、品物をストックしてあれば売ればお金が入りますし、お百姓さんも

産物を売ればいいのですが、サラリーマンは、毎月銀行にお金が振り込まれても、

一定の金額しか下ろせないのでお給料を銀行に差し押さえられていると同じ事

でしたから大変でした。

私の記憶では父だけが多く、後の家族は一人当たり百円円だったような気が

していますが、父の金額は五百円だったか千円だったか私が受け取っていた

のではないのでよくわからないのです。

私の家は戦災にあい、防空壕に入っていたものは助かりましたが、戦争中に農家

へ買い出しに行くときに母の着物や帯などもって行ってしまってあまり残ってい

ませんでしたので、物々交換は出来ず、とても大変でした。

ある時本当に困ってしまって、母が何処からか結婚するというとお金が下ろせる

と聞いてきたのです。それで、結婚証明書を取るというのです。

誰がと聞くと、

 ”どうしてもお金が欲しいから、どうせ書類上のことだけだから、明日あなた

  の名前で町会事務所で証明をもらって銀行でおろしてきてくれない。

  千五百円下ろせるそうだから”

といったのです。

 私はびっくりしました。結婚なんて考えた事もなかったのに、
 
 "で、相手は?”と聞くと○○○ちゃんよ。”というのです。

 それは未だ9歳にしかならない従弟の名前でした。

 
 “エエッ!?”

 ”だってしょうがないでしょう。それしかお金が下ろせないのだから。

  お母さんは仕事が休めないから、明日行ってきてね。お願い。”

 私はお金が必要な事もわかっていましたが、どうしてもそれだけは行きたく

 ありませんでしたが、私しか行かれる人はないので渋渋、翌日、町会事務所

 で証明書をもらって藤棚の銀行まで一番下の弟の手を引きながら歩いて行き

 ましたが、如何しても銀行の扉を開けられないのです。

 恥ずかしくて勇気が出ないのです。

 だって、私は、未だ16歳で結婚という言葉を口にするのも恥ずかしい年頃

 なのに、あまつさえ、相手は9歳のお男の子で、銀行の人はなんて言うのか

 と思うと如何しても足が前に進みませんでした。

 1持間あまりだったでしょうか何回も其の前を行ったりきたりしていましたら、

 3時近くになり、弟もくたびれてしまい、銀行の閉まる時間が迫ってきてしま

 いました。

 ここで私が勇気を出さなければと思って中に入りましたが、案の定、銀行の人

 たちは、私の顔と私がおずおずと差し出した書類を見比べて、なにやら話し

 ながら笑っているのです。

 私はどこかに飛んでいってしまいたい気分になりましたが,弟の手を

握り締めて泣きたいのをぐっとこらえているしかありませんでした。


 
 お金はどうやら下ろせましたが、自分の家のお金を下ろすのにあんな

に苦労をしなければいけないなんて、今考えても大変な時代でした。

戦後の暮らし(5)新円切り替え

2010-06-22 16:00:48 | 戦争体験
 終戦の翌年の1946年3月3日、私は鎌倉のお茶の先生のお宅から

の帰りに鎌倉の八幡様の前の通りの両側にびっしり建っている露店で、

当時売っていた人絹の靴下を買おうとしてお札を出したら、何処のお店

もお釣りがないといわれて、買えなかったので、いったい何が起こった

のだろうかと思って、何か不穏な空気を感じて家に帰ったら、新円の

切り替えがあって、小銭はそのまま自分の家において置けるし、使えるが、

お札はいったん銀行へ預けて新円と変えてもらわなければ使えないので

おつりがもらえなかったのだろうと母に言われてびっくりした。

 
  

 以下はwikipedia 調べによる。

 新円切り替えは1946年2月16日夕刻に幣原(ひではら)内閣が

発表した戦後インフレーシヨン対策として行なわれた、金融緊急措置令

をはじめとする新紙幣「新円」の発行、それに伴う従来の紙幣流通の

停止などに伴う通貨の切り替え政策に対する総称である。

第二次世界大戦の敗戦に伴い、物資不足に伴う物価高及び戦時中の金融

統制の歯止めが外れたことから現金確保のための預金引き出し集中の

発生、又一方で、政府も軍発注物資の代金清算を強行して実施しか事

などから、市中の金融流通量が膨れ上がりハイパーインフレが発生した

対策が背景としてある。

この時同時に事実上の現金保有を制限させるため、発表翌日より預金

封鎖し、従来の紙幣(旧円)は強制的に銀行へ預金させる一方で、

1946年3月3日付けで旧円の市場流通差し止め、一世帯月の引き

出し額を500円以内に制限させるなどの金融制限策を実施した。

これらの措置にはインフレ抑制とともに、財産税法制定・施行のため

の資産把握の狙いもあった。

これによりハイパーインフレの抑制には一定の効果は上がったものの、

結果として市民が戦前に持っていた現金資産は債権同様に無価値同然に

陥る結果となった。

効果や小額紙幣は切り替えの対象外とされ、新円として扱われ効力を

維持した。そのため小銭が貯めこまれた。又市民は旧円が使えるうちに

使おうとしたため、旧円使用制限までの間は当局の狙いとは逆に消費が

増大した。

占領軍人は所持する救援を無制限で新円に交換する事が出来た。十分な

新円紙幣を日本政府が用意出来ないため、占領軍への新円支払いには

B円軍票が用いられた。

又、新円紙幣の印刷が間に合わないために、回収した旧円紙幣に証紙を

張り、新円として通用させた。

この際に証紙そのものが闇市で出回っていたという証言がある。

証紙付き紙幣は後には新紙幣との引き換えが行なわれた後廃止され無効と

なった。

(つづく)


戦後の暮らし(4)

2010-06-21 12:19:58 | 戦争体験
 戦時中や 戦後の事を書くならどうしてもこの事を書かなければならない

とは思っておりましたが、同性として、とても書き辛い事で、書き渋って

おりましたが・・・・。

戦後アメリカ兵が上陸してきてあちこちに駐屯するようになり、暴行事件が

多発しました。

もちろんアメリカ兵の中には、そんな兵士ばかりではなく、ちゃんとした

紳士もいたのですが、其の頃の戦場をくぐってきた心がすさんでいる米兵

たちによってあちこちでおきていた事件でした。

ご主人の目の前で暴行された方もありました。

其の被害者の中には死を選んだ方々もあったようですが、中には、離婚され

仕方なく、生きていくために、パンパンガールと呼ばれていた娼婦になって

いった方もありました。親を亡くした未だ何も知らないようなお子さんが幼い

兄弟を養うために、口紅を赤く塗って、街角に立っている姿も見受けました。

大事な稼ぎ手を戦争で失い、生活が苦しく、働くすべを持たない人たちが、

家族を守るために転落していったと言う事もあったようです。

神奈川県は横浜はもちろん、厚木飛行場もあり、横須賀には軍港があるので

米兵が多く、兵舎も多く建ち、米軍の家族も多く住んでいた町ですから、

大変でした。

 町には昼間から米兵と腕を組んで歩いたり、街中でキスしたりで、私たち

は度肝を抜かれる事ばかりが起きていましたが、特にショックを受けられた

のは海外でひどい戦争を経験して帰ってこられた帰還兵の方たちでした。

ご自分たちが、戦争で日本の女、子供を守るために一生懸命戦って帰って

こられて、初めて目にしたものが外人に媚を売っている女たちを目にしたの

すから、随分お辛かったことかと思いますが、時々町でそういう人々に

向かって怒鳴っておられるのをよく目にしたものです。

気がおかしくなられた方々もありました。本当に悲しいことでした。




樺美智子さん

2010-06-20 17:56:40 | 政治
1960年6月15日は当時東京大学の女子学生樺美智子さんが

安保闘争で官憲に虐殺された日であり6月19日は全学連の追悼集会

の日であった。

と言っても、お若い方々にはどんな事か皆目お分かりにならないかも

しれない。

簡単に言えば、日本が敗戦を迎えてから占領軍との間に吉田茂首相全権

が米国の全権ディーン・アチソンと日米講和条約を締結し、日米安全

保障条約にも調印したのだが、日本はアメリカに駐留を許すが、日本の

安全保障に対して明確に書かれていなかったために、その後、日本側に

とって不利益な安保条約を是正しようと日本政府は水面下でいろいろ

根回しをしていたようであるが、岸首相の時に、岸首相が渡米して日米

合意に達し新安保条約に調印した。これは米軍に駐留を許すだけでなく

第三国から攻撃された場合に日米相互で防衛する事を保障すると言うも

のであったが、岸首相が帰国して国会審議が行なわれた時に、社会党が

日本が戦争に巻き込まれる危険があると反対し、労働者や演劇関係者や

学生たちもこれに呼応したのである。

岸首相が戦争中の東條英機内閣の閣僚であった事もあり、反対運動が

始まったのだが、当時の岸首相は警察隊の他に右翼ややくざまで動員し

特に弱い女優さんや、学生たちをいたぶったらしい。

それで当時、東京大学文学部日本史学研究室学生だった樺美智子さんが

殺された。警察側は彼女が転倒したための圧死だといっていたが、学生

たちによれば怪我の様子から見れば、とてもそんなものではなかったらしい。

私は一才だった次男をおんぶして、寝かせながら、涙をボロボロ出して

ラジオを聴いていた記憶がある。


ばあちゃんと枇杷(2)

2010-06-19 09:53:43 | 最近のできごと
 今年はお蔭様で枇杷がよくできた。

実がほのかに赤みを帯びてきた頃に思いつきで、一部の実に薄いビニールの袋を

かけて見たのだが、どうも其のお蔭かお鳥様があまり近寄ってこなかったよう

だ。

 例年なら朝早く小鳥たちがチュチュー、キーキーとうるさいのだが、

それもあまり聞かれなかったし、毎日小鳥さまの食べかけの小さな枇杷が

何十個も落ちて蠅がたかるので、其の始末に追われていたのだが、それも

あまりしないですんでいる。 きらきら光るので警戒したのだろうか?

 大きめの実は、ご近所に差し上げるとか、嫁さんのお世話になっている

会社の方々に食べていただいたのだが、小さめのは、摘果できない上の方

になっている実でお日様がよくあたっているところのものだからおいしい

はずなのだが、見劣りがするので、他人様には差し上げられないので、

それを枇杷酒やジャムにしたのだが、ちょっこし、いたずらを思いつき、

老人のなりのジャムの作り方を考えたので、ご披露しますね。

 まず枇杷はさっと洗って、水気を切り、テーブルの上に古新聞を敷き、

其の上にジャムを作るためのホーローのお鍋を置き其の上で枇杷の皮を取っ

たり、種を取り、中の筋をとると、ジュースがお鍋の中に流れ込んでいく。

私は、ソファーに坐って、テレビを見ながら、この作業をするのだが、若い

頃はなんとも思わなかったこんな軽作業が今では2,300個もやると疲れ

るので、適当なところで切り上げて、鍋に入っている枇杷のほぼ同量より

少し控えめの量のお砂糖を入れて、少々かき回してから蓋をして置いておく。

そのまま冷蔵庫へ入れておいたりもするが、それをキッチン作業をしている

ときに取り出して、最初は強火にかける。「水は一切入れていない)

沸騰点に達したら弱火にして木べらでかき回しながら、少し煮るが、他の

作業をしているうちは、時々鍋底からかき混ぜるが、このときには私はオール

電化なのでIHクッキングヒーターを使っているが、1か2ぐらいの弱火に

してタイマーを3分にしておく。(万が一友達から電話が来たりしても安心

だし、私自身が忘れたりする危険も回避(?)できる。

これを何回か繰り返しておく。

台所の仕事が終わったら、そのまま電気を切り、鍋に蓋をしておく。

時々思い出したら、蓋を取り、蓋の裏にびっしりついている水気を拭き取り

ちょっと電気を入れて、強めの火力で、沸騰するまで、木べらでかき混ぜ

ながら 少しづつ煮詰めていく。 蓋をし火を止めて。又暫く置く。

これを何回か繰り返す。

さめたら、蓋の水気を取り、冷蔵庫に入れておく。 翌日は次の新しい枇杷

をつくり、ここまでの作業をしてから、前日の鍋を取り出し、其の中へ一緒

に入れてしまって、レモンの絞り汁を1,2個分入れて、かき混ぜ、味見を

してみて、酸味や甘味が足りなければ足す。

最後の仕上げにかかるが、このときには、レモンの汁を入れているので、

最初は強火でもいいが、少し煮詰まったら、少し弱めの火にして、つきっきりで

かき混ぜないと、焦げ付きやすいのでご注意。

ご自分のお好きな薫り高いお味のジャムが楽しめます。

ずっと立ち通しではないので、ほんの少し楽になるような気がしますよ。






老いを生きることの難しさ

2010-06-18 17:09:54 | 老人
 ”無事 之 名馬”と言う言葉がある。

齢80にもなると、この言葉が何如に難しい事かと思えてくるのである。

日常のスケジュールの組み方にしても、自分の体力、気力と何時も問答

しながら決めていかなければならないのだが、其の合間に何かが突然

起こってくると大変なことになる。

老人と言うものは、やってしまうと其のときにはちゃんと出来るのだが、

後になって疲れが出てくることなのである。だから適当にセーブしながら

やっていくしかないのだろうが、それが難しいのだ。

何時も何時もセーブしながら何かをやっていたら、急激に体力が落ちて

しまう。 でも、この前同じことができたからといって、それが出来る

とは限らない。

前日、前々日の行動によっても違うだろうし、気候によっても違うよう

に思う。

わたしはどうも急に低気圧が発達してくると、調子がおかしくなる。

 一説には90歳100歳の方でも、努力によって運動能力や脳の力を

高める事ができると言うので、それではと思って、私もいろいろ試行錯誤を

繰り返しながら、どうも昨年よりは今年の方が働けると思っていたら、この

ところ疲れがたまってしまったような気がしている。

機能をアップさせるより、落ちる方が早いようなのだ。

本当に初めて年をとるのだから難しい。(わらい)

勝ち点 3

2010-06-15 02:05:03 | スポーツ・趣味
 サッカーのワールドカップの初戦で日本の選手たちはカメルーンを

破ってくれましたね。本当に嬉しいです。ご同慶の至りというのでしょうか?

よかった。よかった。

皆さんはきっと今頃は祝杯を挙げておられるのでしょうか?

私も嬉しくてたまりません。赤ワインで一人乾杯しました。(笑い)

では、おやすみなさい!!!!!監督や選手の皆様有難う!!!!!





広告詐欺

2010-06-13 19:52:41 | 思い出
 相変わらずお古い話で恐縮だが、もう40年近く前の事、確か三月頃

の話である。

当時は私は特注家具の仕事をしていたのだが、ある日突然、広告を出し

ませんかとあまり上等でない黒っぽい背広を着た40代ぐらいの小太り

の男が尋ねてきた。

一見まじめそうな人であったのでとにかく話だけは聞いてみようかと思

った。

今回は茅ヶ崎市内のこの近くの路線バスの終点の周辺にあるお店を特別

に取り上げようと言う事で、もう何軒かご契約をいただいていますと

言う事だった。

一寸見せてくださいと言って手にしたものは、B3ぐらいの大きさの紙

をいくつかの小間に分けてあったが、小さいものは4万円で其の倍の大

きさになると7万5千円だと言う。

私は其の広告の位置が大事だと思って聞いてみたら、何処も同じお値段

だと言うので、なんとなく変な気がしたのである。

何時これを配られますかと聞いたのだが、奥さんのご希望はと言うので、

大岡祭の頃までには配布されて欲しいと言ったら、いいですよと言う。

それでは配られる所は何処ですか?

この団地にも入リますかと聞いたのだ。

私は用心深い立ちなので、紙面をよくよく見たら、その会社の住所や

電話番号も記載されていたので、まあとにかく、この団地に入るなら、

それを確認してから払えばよいと思って一区画だけ申し込んでみた。

私の懇意にしている薬屋さんの名前も書き込まれていたので、夕方

買い物のついで立ち寄ってみたら、奥さんが出てきて、大丈夫よ、

私も申し込みましたと言う。

それから半月ほどして、事務服のようなものをきた40代ぐらいの

女が一枚のちらしを持ってきた。こんな風に出来ました。これを配り

ますと言う。

もう一度配る日を確認しといたのだが、数日後、最初に来た男が集金

に来たので、

 ”未だうちの団地には入っていないわよ。私はそれが配られないうち

 はお金は払えません。”と言ったら、

 ”今夜入ります。"と言う。

 "そう。では其の後で、お払いします。”と言って其の男を帰したのだが

  気になって其の広告に書かれている其の会社へ電話してみたら、この

  電話は現在使われておりませんと言う事であった。

 最初に来た男の名刺のところへも電話してみたが、やはり同じであった。
 
 私は、急いで、他の方が詐欺に会われないようにと思って、其の広告に

 書かれてあるお店に片っ端から電話をかけたが、薬屋さんは未だ集金に

 来ていないと言う事だったが、一番大きな区画を頼んでおられたお店の方

 はもう払ってしまわれていた。

 私は其の奥さんが小切手で払ったと言うので、


 ”夕方お払いになったのなら、 すぐ銀行へ電話した方がいいですよ。

  横線は書きましたか?”と言ったのだが、 それも書いていなかった。

 ”でももう払っちゃったからいいですわ。間に合わないでしょう。”と

 言うので、

 ”今日お払いになったのだし、お払いになったのが3時過ぎで、銀行が

  閉まっている時間なのだから、今日電話すれば大丈夫でしょう。”

  と言って差し上げたのだが、奥さんはそれをしなかったらしい。

 後日、其の方の旦那さんから電話があり、せっかく奥さんが注意してくだ

 さったのに、妻がうっかりもので、取られ損になってしまったと嘆かれて

 いた。