1945年5月29日[S.20)横浜大空襲
この日だけではなく何回も空襲はあったのですが、
横浜の大部分が焼けてしまったのがこの日でした。
この日は朝から晴れ上がって気持ちのいい日でした。
5時半ごろ警戒警報になりましたが、警戒警報では
学校へ行くことになっていましたが、多くの学校で
はこの日は大体、今日は横浜がやられそうだという
ことを察知していて学校近くの停留所に先生方が待機
しておられて、乗り物から降りる生徒たちに家に帰る
ように命じられたそうでした。
私の父は当時、常置将校として横浜の浦島が丘小学校
に駐在していた部隊の副官だったのですが、一日おき
に家に帰ってきていましたが、警戒警報ですぐ、自転車
で隊へ戻りました。
なかなか空襲にはなりませんでしたので、警戒警報中は
学校へ行くことになっていたので、弟は学校へ行きました
が、弘明寺の終点で先生に今日はどうも危ないからといわ
れて折り返しの電車で帰ってきたのです。
“富士山頂をめがけて北上中の敵爆撃機約500機は富士山
上空で方向を変え、西に向かった模様というラジオのアナ
ウンスがあり、今日は名古屋か大阪かと思っていた矢先、
がらがらがらっと大きな音がしてお隣のお庭に焼夷弾が
炸裂しました。
大きな物音に驚いて私がお隣を覗いたときには木で作られた
塀の柱だけがめらめら燃え上がっていて、間にはめられていた
板はすっかり燃え落ちて陰も形もありませんでした。
その時、ラジオは“敵機は方向を変えて東上中と言っていました。
一軒置いて隣の家に住んでいた伯母が大きな声で
“富美ちゃん 逃げなさい”と声を掛けてくれているのが聞こえ
ました。
私と弟は、かねてから空襲の時には防空壕を埋めてから逃げろと、
父に言われていたので、毎日水を掛けてたっぷり滲みこませて
置いた古畳を引きずりながら、防空壕の扉の上に載せ、更に土を
盛りましたが、なかなか父の言っていたように30センチを盛る
ことは出来ず、あちこち、まだ、畳が見えている状態でしたが、
周りが燃え始めていたので今はこれまでと逃げることにしたのです。
私は父がいれば父が持つことになっていた大きなリュックサックを
背負い、水筒や救急袋を提げて小さい弟をおんぶした母を助けて
上の弟と4人で逃げましたが、途中で伯母たちと一緒になりました。
もう道の両端に火がちょろちょろと燃えていたのですが、私たちは
各家庭の前には必ず置くことになっていた防火用水の水を防空頭巾
の上からかぶりながら海岸の方へ逃げていきました。
ちょうど引き潮だったので、海の中へ入っていくことが出来たのです
が、向こうの方から一年先輩のお嬢さんが真っ赤なかいまきを頭から
かぶって出てきたのです。私の右隣にいた消防団員のおじさんが
“お前、そんなものを捨ててこっちへ来い。敵機に銃撃されるぞ!”
と怒鳴ったのです。
私は非常に感動しました。そんな自分の命が危ないときに他人に注意を
してあげる方があるなんてと思ったのです。
そのうち伯母の姿が見えなくなり、いとこが泣き出しました。みんなで
探しているうちにひょっこり伯母が出てきました。それから、すぐ近く
の大里町の叔母の家に行ったのですが、幸い焼け残っていて泊めてもら
えることになりました。
そのうち空襲警報が解かれて、B29の大編隊が引き上げたと言うので,
みんなで家の焼け跡を見に行きました。
すべてのものが焼け落ちて何もない状態で柱だけがまだぶすぶすと燃え
ていましたが、物置においてあった練炭の山が積んだままの姿で赤々
と燃えていました。
私の机の置いてあったあたりには辞書がそのままの形で燃えていました。
そっと燃え残りの木の枝を拾ってページをめくると活字が光ってちゃん
と読めるのです。
其のまま持って行きたい思いに駆られました。
その頃は紙がなく新しい辞書なんてとても手に入れられるなんて考えら
れなかったのです。
当時のアメリカの空襲はまず、フェイントを掛ける、つまり、方向転換
をすると高射砲の準備がすぐに出来ないので、彼らはより安全に飛んで
いけるということだったようです。当時、日本で一番優秀な高射砲は
東京の久が原に一台あるだけだったようで、米軍の間ではなるべく久が原
の上空へ近づかないように飛べという指示が出ていたそうです。
上空一万メートルのあたりを飛行しているので、普通の高射砲の弾は届か
ないのと、なかなか命中しないようでした。
横浜のときなどでは、まず、横浜の周りに焼夷弾を落とし、更に真ん中に
落としたので、外側と真ん中の両方から火に追われた人々もあったので、
多くの焼死者が出たのです。
当時、飛行場にあった飛行機は空襲になると飛び立つのですが、だんだん
飛び立てる飛行機がなくなり、終には見せ掛けの木製のものも出てきました。
翌日、親戚の家にお泊りに行っている妹の安否が心配になり、母に言われて、
弟と二人で中区役所に勤めていた従姉弟たちを訪ねていくことになりました
が、伯母が一年上の従姉をつけてくれ、三人で水筒を肩に出かけました。
いいお天気でしたし、あちこちに火が、まだくすぶっているので、余計暑い
ように感じながら、三人で本牧の大里町から桜木町までとぼとぼと歩いて
いきました。
途中、防空壕の中で一家が全滅した話を聞きましたし荷馬車が焼け焦げて
残骸が残っていました。電車が線路の上で焼け爛れた姿もみました。
水道の管が壊れて水がちょろちょろ流れていたり、若い女の人が、お巡り
さんに抱きついて、家のものが亡くなったがどうしたらいいんでしょうと
泣きついていたりしたのです。
運良く従兄に出会え、みんな大岡川に入って、小さい従妹と、妹を川に
浮かんでいた筏に乗せ、伯母と、大きい従姉が、胸まで泥水につかり、
筏の上の子供たちに水を掛けてやり、助かることが出来たのだそうです。
其の後、避難所の南太田小学校まで行くのに、焼け死なれた方々の
ご遺体を跨いでいかなければいかれないほどのたくさんの方が亡くなって
いたということでした。
翌日は、父の安否を尋ねて行くことになり、朝早くから水筒だけを持って
三人で出かけましたが、父の部隊が駐屯しているはずの浦島小学校は焼け
て誰もいませんでした。一時は途方にくれましたが、会う人々に聞きなが
ら歩いていきましたら、確か子安小学校に軍隊がいるようだと教えてくれ
た方があり、早速尋ねていきましたら、父に会うことが出来ました。
お昼だったので、下士官さんに、父が、この子達に何か食べ物をやって
くれないかといってくれたので、すぐに、大きな真っ白い御飯にほんの少し
の大麦が入ったお結びが一個づつとみかんの缶詰の冷凍したものと、更に
太白というサツマイモの冷凍したものをいただくことが出来ました。
そのおいしかったこと、当時は白米に押し麦がほんの少し入っただけの
お結び何て見たこともないくらいで、私たちの御飯には、大麦、高粱、
とうもろこしのかけたもの、乾燥芋、などいろいろなものが入っていて、
お米粒はほんの少しだけと言ったものでしたから、本当にびっくりする
やら嬉しいやら、特に太白の冷凍のものなんて食べたこともなく、当時
からあんなに上手に冷凍の技術があったのに驚きました。
下士官さんが、今から中央市場まで買いだしに行くからトラックに途中
まででも乗っていきませんかと、声を掛けてくれたので、三人で乗せて
もらい、中央市場から横浜まで、また歩いて行きましたが、焼け焦げた
横浜駅を背に見た光景はなんとも恐ろしいものでした。
ところどころに焼けたビルの残骸や焼け残ったビルがあり、見渡す限り
の焼け野原が続き、たくさんの焼けぼっくいが、ぶすぶすと煙っていて、
向こうの方に海が見えたのです。思わず息をのみました。
三人が呆然としていたとき後ろの方で男の方々の声がしたのです。
“花園橋まで行きますが、トラックに乗って行きませんか?”
地獄で仏という言葉がありますが、本当にそんな思いでした。
人間て、こんな大変なときに他の人に優しく出来るなんて、すばらしい
と思ったものです。
1945年(S20)8月6日 広島に原爆投下
1945年 (S20)8月9日 長崎に原爆投下
1945年8月14日 (S20)ポツダム宣言の受諾を連合国に通告し
8月15日、昭和天皇がラジオで終戦のご詔勅を日本国民に発表されて
戦争が終わりました。
(つづく)