80ばあちゃんの戯言

聞いてほしくて

家具と私(11)

2009-11-29 06:00:14 | 家具
 近所の木工所へ自分で使うための家事机を頼むことにした

のですが、どうもなんだかアイデアを盗まれそうな気がした

のです。それでいろいろ考えて、本体だけを発注することに

しました。

鏡は別に鏡を買っていって額縁だけ取り付けることにして

もらい、引き出しの中と、アイロン台を兼ねる椅子の部分

は自分で何とか作ることにして本体だけの図面を描いて

頼みに行きました。

其のとき、そこの社長が、まだ40台くらいの人を紹介し

てくれて、この人なら図面がよくわかるからといって、担

当にしてくれたのです。

私はミシンをスライドさせる部分のことを相談してみたの

ですが、直ぐに、ああ、それなら、下に敷居すべりを貼れ

ばいいと言ってくれました。其の頃敷居すべりはまだ発売

されたばかりだったのです。

私はほっとして、この人ならうまくいくかなと思って帰っ

てきて直ぐ、敷居すべりを買ってきて、家でありあわせの

板に取り付けて、敷きいいすべりの力がどのくらいのもの

か試してみたのです。

敷居すべりは満足できるものでした。

二、三日して、其の木工所へ行ってみました。ちょうど

10時のお茶の時間だったようで、職人さんたちが、木屑

の間に坐って世間話をしながらお茶を飲んでいたようでし

たが、私が入っていったら、急に変な空気が流れたのを感

じました。

この前、お願いした職人さんがいませんでした。家事机は

本体の外枠が立ち上がってはいましたが、まだ中は殆ど手

がつけていなかったのですが、どうもおかしい雰囲気だと

思って、直ぐ社長室へ飛んで行ったのですが、まずいなあ

という顔をしてしぶしぶ出てきたのですが、

 ”あいつは田舎へ帰ったよ。” と、言うので、

 ”え。どうして、この間は何もそんなこと言っていなか

  ったのに。 田舎って何処なの?”と聞くと

 ”群馬だよ。”と言う答えでした。

 私は、その場の雰囲気から、多分彼が私のアイデアを持

 って田舎へ帰っていったのだろうと想像したのです。

 この時には、其の後の仕事をちゃんとしてくれるように

 だけ頼んで帰ってきましたが、内心全部頼まなくて、よ

 かったなあとほっとしていたのです。 其の職人さんの

 ことはほっておきましたが、後年、群馬のある家具工場

 へ家事机を実用化してくれるように、お願いの手紙を出

 したら、うちにもよく似たものがあると言って断られた

 のです。勝手に想像するのはよくありませんが、でも、

 家事をしない男の方にミシンが重たくて、軽く出し入れ

 したいなんて考えが浮かぶなんて、とても思えませんで

 した。

   (つづく)

戦争体験を話す

2009-11-28 16:56:33 | 戦争体験
 大分前から戦争体験の話を頼まれて、今日出かけて話し

てきたのだが、何となくこれでよかったのだろうかと、気

がめいってしまった。

戦争体験の話は何時も何分ぐらいと言われて依頼されるの

だが、原稿を書いて、時計と睨めっこで何分掛かるか計っ

てみて、長くしたり短くしたりいろいろこちらなりに工夫

するのだが、どんな内容にするかがなかなか難しいのだ。

今回はインフルエンザになって欠席するようでは申し訳な

いと、ここ数日ブログを休んで、体調を整えていたが、以

前にお話しさせていただいたところでもあるので、原稿も

重複してはいけないだろうと思っていろいろ心を砕いたの

だが、行ってみたら、幼稚園ぐらいのお子さんやら、小学

校低学年のお子さんなどが前の方にずらりと並んでいて、

予定していた話ではとてもわかってもらえないと思って

急遽、話を変えてしまったのだが、果たしてそれどよかっ

たのだろうかと今頃悩んでいる。

まさかの時のためにと思って一応配給制度になった物のリ

ストと日にちを書いていったので、それを横目でで見なが

ら、子供さんにも質問したりして、先ず、子供さんの好き

なお菓子やお砂糖の話からはじめてみた。それから赤ちゃ

んのための乳製品、お父さんお母さんのお酒やビール、

小学生の靴下、お米の配給に関するもろもろのこと、それ

から配給という言葉自体の意味、隣組と、其の隣組で色々

のものが配給されたり、宝石類や金属などの供出のこと、

しまいにはお寺の鐘まで大砲に変わってしまったことなど、

配給の切符がもらえても、はじめのうちは品物があったが、

だんだん切符があっても買えなくなってしまったこととか、

そういう配給品が地域によって大分差があったということ、

例えば、1942年の横浜ではデパートのご飯は乾麺を5

ミリくらいに砕いた麺米であったのに、大阪へ行ったら、

フランス料理、中華料理、和食などといろいろ楽しめたこ

となどである。 

配給のお野菜なども大阪では種類も多く、量も多かった。

そんな話をしているうちに後一分というカードが目の前に

現れたので、どうしてもこれだけは言いたいと思っていた

こと、つまり、海軍第一軍令部のお偉いさんたちが、その

上役に質問されて、

”燃料は大丈夫です。軍艦は大丈夫です”と言う答えを

したので、そのままそれが通って戦争へ突入してしまった

時、上役の人達が戦争反対してくれると思っていたのだ

そうだ。

誰かが反対してくれるだろうというのは誰もが反対しないと

いうことを覚えていて欲しいと言ってしめくくったのだが

どうだったのだろう?




家具と私(10)

2009-11-22 17:12:08 | 家具
 家事机を少しでもお安く上げるためには手間のかかる引き出しを少なく

する必要があると言う事と、ひとつの引き出しの中にお裁縫箱の機能を

持たせるにはと私が考えたのは深い引き出しの中にトレーを入れて、

中を2段か三段に使うようにすることでした。

それまで私が長いこと時間をかけて色々の物の大きさを調

べてきたのは、一つには、引き出しの深さをどれくらいに

したら一番いいかということのためでもありましたが、其

のお蔭でトレーの深さや仕切りの作り方を決めることがで

きました。

写真の左側のトレーは、小型のものですが、これは机の上

部の引き出しの奥行きが狭いので、それに入れるためのも

ので,一つの引き出しに一つづつのトレーを入れました。

中の仕切りはそれ自体簡単に取り外しができますし、しき

りの間の仕切り板も取りはずせますので、お好きなように

しきりの中の大きさを変えられるようにしてあります。

引き出しの中の左右には同じ高さに桟を取り付けて、其の

上をトレーが摺動するように考え,机面の上部になるとこ

ろには奥行きの狭い引き出しを三段作りました。

上から薬品入れ、大工道具入れ(小型の道具類で、錐や金

槌、ドライバーだの釘などや、換えの電池なども入れるこ

とにしました。)

その下は化粧品を入れて、家事机の机面の左側の上部に鏡

を取り付けて、角度を変えられたり、取り外しができるよ

うな風にして、鏡台の代わりとして使うことも考えたので

す。

机面の下は奥行きも広く深い引き出しを作りましたが、上

の方はお裁縫箱として使えるように、中に色のついたト

レー(仕切りのないもので、これには大きい裁ち鋏とか

の道具類をいれる)と仕切りの取り外しのできるトレーと

2段にトレーを入れ、つまり深さを三段階に利用すること

を考えたのですが(仕切りのあるものには、針差しと針類、

指貫などの小物などが分類されて入れられるようにしまし

た。

それそれのトレーは自由に左右に動かせますので、お裁縫

するときには、ほとんどのものが一目で何がどこにあるか

わかるようにし、引き出しを開けたままで、お裁縫をすれ

ば、取り出したり片付けたりの手間が省けるようにしたの

です。

その下の引き出しには仕切りは一つも入れずに、アイロン

とか、アイロンかけに必要な糊や霧吹き、お裁縫に使うた

こなども入れて置けるように考えてみました。

(つづく)

占領下の日本

2009-11-21 17:27:12 | 戦争体験
 1945年8月末アメリカのダグラスマッカーサー

元帥が厚木飛行場に降り立たれて以来、私の住んでいた

横浜にも日ごとに米兵の姿が目立つようになった。

連合国軍最高指令官総司令部(GHQ)は東京に置かれたが

横浜でも焼け残った立派な建物は、ホテル、デパート

その他一般の民家でも接収されて進駐軍の軍人や民間人

の用に立てられることになった。

確か横浜の根岸にダグラスマッカーサーの邸宅にされた

豪邸があった。

横浜の目抜き通りの伊勢崎町では、それまで野沢屋と言

って、私達が親しんでいた大きなデパートがヨウバスと

呼ばれて、全国に置かれたP.X.(アメリカ軍の物資をア

メリカ兵や、軍属や家族にいろいろな商品を売るストア)

の元締めになる会計の事務所になって、其の隣の松屋デ

パートが横浜のメインP.X.(実際にアメリカ兵や其の家族

達に商品を売るストアの内、横浜で一番大きいもの)に

なっていた。其の前の通りをはさんでアメリカの将校達

のクラブだとかさまざまな軍関係の施設が並んでいたよ

うだった。

長者町5丁目周辺だとか、すっかり焼けて廃墟になって

いた所へかまぼこ兵舎と呼ばれる、所謂かまぼこ型の兵

舎がずらりと立ち並んでいて、其の周りは鉄条網で囲ま

れ衛兵が何時も銃を構えて立っていた。其の前を通る時、

敗戦という二文字が急に目に浮かんできた。

 本牧方面の焼け跡には、米兵の家族が住む洒落た家が

あっという間に建ってしまい、そこも一般の日本人は

立ち入り禁止で、入れないような囲いがあったのである。

美しく着飾ったアメリカ人の奥様方が西洋人形のような、

かわいい赤ちゃんを乳母車乗せて、日本人のメイドさん

に山ほどの荷物を持たせながら、悠然と歩いておられる

姿は、着るものや食べるものにも不自由していた当時の

われわれの生活と考えられないほどの差があって、アメ

リカに勝てるはずがないと何時も言っていた祖父の言葉

がしみじみと、今更のように思い出されたのである。

 どう考えても、私には、まるで別天地としか思えなか

った。
  
 (つづく)

家具と私(9)

2009-11-18 18:32:12 | 家具
 発明展の後、夫が自分で使うものを作ってもいいと

言ってくれたので、改めて一から考え直してみようと思った。

 それで、まだ、まだ、いろいろな道具を調べて見なけれ

ばいけないと思って暇さえあれば、調べに行ったのである。

ミシンや編み機はミシン屋さんへ行っても、一社の製品し

かおいていないし、デパートは行ってもなかなか置いてい

ないことの方が多く、たまに催し物があっても、あまり多

くの物を展示していないので、何時もチラシなどに気をつ

けて、何時どこへ行ったら、何が見られるかと心を配って

いた。もう一つ困ったのは、編み機には大抵売り子さんが

ついていて編み方まで説明されていたので、どのくらいの

高さまで編み機を使うときには上の方をあけておかなけれ

ばならないか、また、奥行きはどのくらいのスペースを見

ておけばいいかとかはわかったが、他の機種は大抵箱の中

で見られなかったのである。

それと、鏡やさんへ行って鏡の事をいろいろ調べてみた。

厚さによって、品質の違うことを知ったが、確か3ミリ

程度の薄いものでは、お値段はおやすいが、いびつに映っ

てしまうので、5ミリの物を使う方がいいと言うことがわ

かった。また、鏡はとり付けただけでなく、簡単に取り外

せるようにできる金物が欲しいと思って家具専門の金物屋

さんへ行ったり、家具につけるコンセントつきライトを探

しに行ったりもした。

一方、薄い引き出しが多ければ、細かい物を重ならないで

収納できるわけで、何がどこに入っているか一目で見られ

るので便利だろうと思って引き出しの数を多くしようとし

ていたのだが、引き出しを作るのにはとても手間が掛かる

ことを思い出し、引き出しが増えれば増えるほど、家事机

の値段が高くなって、一般の主婦向けの価格になかなかで

きないだろうと考えたのである。

何とか、かかる手間を少なくして、しかも便利に収納する

方法を考えようと思っていた。

 (つづく)

夫と引き揚げ

2009-11-17 16:37:56 | 戦争体験
 以前に引き揚げの項で話したが、夫は中学生の頃は一人

で大連に下宿していたので、終戦後は満州にいた両親との

連絡は途絶えて、完全に一人で生計をたてなければならな

くなった。

 それで、タバコを仕入れて売ることを他人さまに教えら

れて橋の上でタバコ売りを始めたそうで、タバコ1本いく

らで売っていたそうであった。雨の日や寒い時はなかなか

大変だったようである。

そのうち中国人の方のお手伝いで、水道の元栓を閉めたり

開けたりの仕事をしたリ他にもいろいろやったらしい。

 終戦後約1年半たった頃であろうか夫は引き揚げ船に乗

ることができたそうで、当時16歳(数え)であったが、

団長を仰せつかったということで、16歳といえばまだ

子供のようなものではないか、それが何で団長を命じら

れたのかと、疑問に思ったので質問したことがあった。

 ”家族持ちだとどうしても自分の家族がかわいいから、

食料を配るときには喧嘩になって、誰のが多いとか少

ないとか大騒ぎになるので、それで、公平に配られる

ように家族のいない僕が団長になって 食事の時には

何時も配給が終わるまでは棍棒を手にして見張ってい

たのだ。”といっていたのである。

 夫は日本に帰ってもまだ家族は誰も帰っていないだろう

と思い込んで、親戚のある宮崎には帰らないで、東京へ

出ようと思っていたらしいが、ふと、やはり一度は宮崎

へ帰って、それから上京しようと思い直したそうで、

宮崎駅で、中学生の帽子に自分と同じ苗字がついてたの

で、もしやと思って声をかけたら,先に帰っていた弟だっ

たそうであった。お互いに数年も逢わないうちに成長して

 変わっていたので、わかリにくかったのだろうが、もし、

 そこで逢わなければ東京へ行って 孤児として生活するこ

 とになったのかもしれなかった。

   

お菓子の先生(2)カステラ

2009-11-16 12:38:43 | お菓子
 カステラの作り方

(カステラは直ぐいただくより2,3日置いてからいただく方が

 おいしく。スポンジケーキは直ぐその日に食べる方がよいそうである)


 材料 (きちんと計量すること)

 強力粉(カメリヤ)230g 蜂蜜 大匙3杯

 砂糖       300g 牛乳 100cc

 卵  6~8個 (大きいものなら6個でよい)

 サラダ油     大匙 2杯

 
 使う器具類

 1)ボール 卵を泡立てると膨張するので大きい物

   の方が使いやすいので、できれば直径35セン

   チ以上のもの

 2)泡だて器 できれば電動のもの

   手動のものは大きいものが早く泡立ち易い。

 3)カステラを焼くときの型

   何でもいいのだが、大きくないと入らないの

   で、私は豊島やの鳩サブレーの空き缶の

   縦30.5センチ、  横22センチ、

   高さ11.5センチの物を使っている

 4)密閉容器

   カステラが焼きあがったときに入れておき、
   
   時々容器の周りについた水滴がカステラの上に

   落ちないうちに、布巾かキッチンペーパーで拭

   きとらなければいけないので、カステラの周り

   に握りこぶし一つ分ぐらいづつ空きがある方が

   拭き取りやすいのでなるべく大きいもので、

   できれば中の水滴の様子が見える物がよい。

5〕スパテラ(ゴムべら)と布巾、クッキングペー

パー,計量する為のはかりや計量スプーンを用意

6)泡立てる時に大きな入れ物に水と氷を入れてそ

の中にボールを入れて、泡立てるので、ボールが

入る大きな入れ物がいる
 
 
作り方

 (1)卵を冷蔵庫から取り出して常温に戻しておく。

 (2)ボール、ホイッパー(泡だて器)は綺麗にしま

ってあったものでも中性洗剤で洗って水切りを

しておく. 布巾で拭かないこと

 (3)型にクッキングペーパーを敷いて用意しておく

のだが、型の内側にぴったりと入るくらいにきっ

ちりと折り目をつけて入れておき、紙が型の高さ

より1センチ以上出ないようにしておく(たくさん

出しておくと燃える危険性があるのでご注意)

    この後カステラの生地ができたときに糊代わり

として指先にちょっとつけて型の中の紙をきちんと

おさえるために4隅につけておくとよい。
 
 (4)強力粉は必ず篩で3回振るっておく

  (5) 砂糖は篩にかけないでよい
  
 (6)オーブンは時間を見計らって180度cまでに

必ず熱しておく

 (7)牛乳100ccに蜂蜜大匙3杯を入れて、小さ

い鍋に湯を沸かし、その中に入れて湯煎にする。

蜂蜜がとけるまでかき混ぜ、とけたら、すぐ火を

止めて取り出してさましておく

(8)卵を泡立てるときに共立て(黄身も白身も一緒)と、

別立て(黄身は黄身だけ、白身は白身だけで泡立てて、

後で一緒にする)とあるが、今回は共立て。

  卵をボールに入れてからざをとり、前述の氷水の中に

入れて冷やしながら泡立てていくが、最初は大さじ

1杯の砂糖を入れて泡だて器で少しづつゆっくり泡立て

る。中立ちになったら、(少し混ざって膨らんだら、)

残りの砂糖を入れて、一混ぜして、今度はダイナミック

にボール全体の中で力強く泡だて器を動かしていく

(9) (電動のハンドホイッパーでも)電動で12,

3分以上 混ぜて9分通り泡立たせたら、湯煎にして

さましてお いた牛乳と蜂蜜をスパテラの上から静か

に流しいれていく。手動の泡だて器なら、持ち上げ

てみてある程度 ついている生地が立つぐらいまで泡

立てる)

 (10)よく混ぜたら、篩っておいた強力粉をいれ更

に泡立てる。カステラの場合には練ってもいい。)

  泡立てが足りないよりはよくよく泡立てた方が 

  きめが細かくなる。

 (11)更にスパテラの上からサラダ油を入れてよく

   混ぜ、用意しておいた焼き型に入れて、中の空気

   を少し抜くために型ごと持ち上げて(5~6セン

   チ)、すとんと落とす。  これを二回やる。

 (12)天板にのせて十分余熱し終わったオーブンに

   入れて焼く。

  焼く温度は180度cで10分焼き、 続いて、

  150度cにして、50分焼く。

 (13)約一時間たったところで、細い竹串を真ん中

   に刺して焼けたか見るが、串に何も生地がついて

   こなければOK.

  もしまだついているようなら少しづつ時間を伸ばし
  
  ながら焼けぐあいを見て行く。

 (14)焼けたようなら、すぐ火を止めそのまま3分

   空焼きをする(空焼きとは火を消してまだ熱い中

   にそのまま入れておくこと)これがコツである。

   (それ以上置くと焦げるので、余計入れて置かな

   いこと)ただし、空焼きが少なすぎると表面が

   割れることがあるのでご注意。

 (15)3分後取り出して、密閉容器に入れる。すぐ

   に蒸気が容器の周りにつき始めるので中のカステ

   ラの上に水滴が落ちないうちに蓋を開けて布巾で

   水滴をふき取り、また密閉しておく。これをさめ

   るまで何回も繰り返す。

  

  日本の気候だから、こういう手間をかけなければいけ

 ないそうで、ヨーロッパではしなくてもいいそうである。

 アメリカの場合はどうかわかりませんが・・。
   
   
 

お菓子の先生(1)

2009-11-15 06:14:45 | お菓子
 もう33年も前の話になるが、12月の末の本当に気持ち

よく晴れ上がった日に、お正月の買い物をしに横浜の高島屋

へ出かけていった。

 夕方4時頃の東海道線で茅ヶ崎まで帰る途中、列車の中で

何となく胸騒ぎがするので、列車を降りてすぐ家に電話を入

れたら、息子が出て

 ”お母さん。大変だよ。お菓子の先生が亡くなられたって、

  さっきご主人からお電話があった。早く帰ってきてよ。”

と、いった。 

数日前にはあんなにお元気でいらっしゃったのにと半信半疑

だったが、兎も角急いでタクシーで家に帰り、服を着替えて

飛んでいった。

 先生は持病がおありだったとか、私達には仰っていなかった

ので、誰も知らなかった。そう言えば、お菓子を焼いている時

途中で一回だけ、ちょっと坐らせてねと言われて坐られたこと

はあったが、まだお若い先生のこと、お顔は苦しそうではなか

ったので、私達は気にも留めなかったのである。

ご主人さまのお話では、苦しくなったといって病院へ連れて行

ってくれといわれて、車で出かけたが、途中で亡くなられたと

とうことだった。 まだ42歳のお若さだった。

 先生は何でもきちんとされるご性格だったので、暮れの大掃

除も手を抜かないで、大働きされたらしかった。

それがよくなかったのだろうとご主人が残念がっておられたが、

私達もいい先生を失ってがっかりだった。

 プロに習ったと仰っておられた先生のやり方を少しでも皆さん

に聞いていただければ、先生のお菓子が残せるかと思って書かせ

ていただくことにしたのである。

先ず準備段階で、使う器具をたとえ洗ってきちんとしまっておいた

物でも、必ず中性洗剤で洗って水きり台の乗せておいて、布巾は

使ってはいけないということであった。

 始める前に手洗いはいわずもがなのことであったが・・・。

次回はカステラ(先生はカステラはお菓子の部類には入らない

くらいの簡単なものよとおっしゃっていたが)を日本でしっと

りと作るコツを書かせていただきます。

  (つづく)


家具と私(8)

2009-11-14 09:57:33 | 家具
 何とか3月31日ぎりぎりで特許庁へ出願し、その後、

発明展にも出品することができたが、発明展ではびっくりのし通し

だった。

 私は労働大臣賞をいただけたことは、嬉しくないわけではなか

ったが、それでも、他人様のように有頂天には到底なれなかっ

たのである。これから、まだまだ改良しなければいけないところ

が山済みであるし、そんなに簡単に実用化のできるわけがないで

はないかとも思っていたのである。

 ただ、発明展を見に来られる方々の反応が知りたくて毎日発明

展の会場へ詰めていたが、本当にいろいろな方がおられて、びっ

くりもし、恐ろしくもなったのであった。

 私が立っていると、いかにご自分のアイデアで損をしたかとい

うことを話される方が何人もおられ、それが決して半端な額のお

金でなかったのである。億単位のお金を簡単に投資できる方が

私には、全く理解できなかった。

また気になったのは、本当にご自分のアイデアに惚れ込み過ぎ

ている方の多かったことであった。

自画自賛もいいけれど、もう少し冷静にならないとどんな罠に落

ち込むかと思われる方もある一方で、罠にはめるというと言い方

は悪いが、おだてあげて、自分の工場で物を作らせて、お金を払

ってもらえれば、後は野となれ山となれで、売れようが売れまい

がわしゃ知らんと嘯いているような人達もいたのである。

申し訳ないが、本当にうぬぼれ癖のある方はこちらで見ていても

はらはらさせられたが、そういう御仁にそうっと大損された方が

先ほどこんなことを言っておられたと言ってみても、ご自分のア

イデアはすごい物だから、すぐにでも目の前に大金が転げこんで

くるようなお話になるので、危ない、危ないとひやひやさせられ

たものだ。

その殆どが、悪いけれど、そんなにすばらしいとは思えなかった

のである。

(つづく)
 

家具と私(7)

2009-11-13 18:11:49 | 家具
この家事机はこの前に書かせて頂いたように特許庁へ

出願したもので、発明展に出品した物はミシンの上に

本棚をつくった。12の高さと同じに棚を設けてあった。

5の溝の上には鏡を兆番で取り付けていた。

1〕はライト

2)はコンセント

3)はミシンを載せる台で、ミシンを使用するときには5と5’

  の溝を使って前後にスライドさせるというもので、3〕の台

  の下は板がないので、3)を前に出すと、後ろの下側に10

  につながる空間ができるので、ミシンでカーテンなどの大

  きなものを縫った場合にはその後ろの空間に徐々に布が

  入っていくことになるので、布自体の重さで引っ張られて

  縫いにくくなることがないように考えた。もし、大物を縫

  っているときに、布が下まで急にすとんと落ちるようで

  あれば生地自体の重さで引っ張られて縫いにくくなるし、

  もし、背板との間に空間がなければ、大きなものはかさば

  ってくるので、縫いにくくなるのを考えたのである。 
 
4)はミシン台のとって。

 5及び5’)は溝でミシンの台が軽くすべるようにした。

   また、テーブル面に疵がつかない工夫。

 6〕は普段は机としてノートなども十分載せられる場所。

 7 及び7’)は 8の補助板をつけてある蝶番。

 8〕は補助板 机面を広く使うためで、これを出すと子供の物

   や、ブラウスを やスカートなどの印付けや待ち針を打つ

   など裁縫の仕事にもつかえるようにした。

   (勿論このときはミシンは後ろに摺動させておく)

 9)は 8の支えになるもの

 10)は後ろの背板までつながる空間ができるように考えら

   れた物で、編み機を入れることができる。

   編み機はテーブルの補助板を出して取り付けることはで

   きたが、長い間編んでいくうちにどうしても編み機を取

   り付けている金物がだんだん緩んできて外 れやすくな

   っていくことがわかり、危険だと思って編み機の使用が

   できるとは書かないことにした。一つには編み機を使う

   人が割と少なかったためでもあった。

 11)は椅子兼物入れの箱と小型の掃除機が入るように考えた。

   その物入れは蓋の表面にはビニールを貼り、坐れるようにし、

   裏面には芯にべびー毛布を折りたたんでいれ、白い木綿布で

   覆って、アイロン台とした。箱の中にはアイロンをかけたい

   ものを一時的に収納できる場所とした。

 12)は本棚

 13以下 22までは引き出しである。

    13~19には、家庭薬品、ちょっとした小さい大工道具、

    文房具、小物類、20には化粧品をいれ、この図にはない

    が、5の溝の上に鏡を蝶番でつけて、角度が変えられるよ

    うに設定し、鏡台の役目を持たせた。

    21はお裁縫箱、22はアイロンやアイロンがけ用のスプ

    レー糊や、お裁縫のたこなども入るように考えてあった。

    こうして、机、本棚、鏡台、物入れ、お裁縫箱、ミシンの台

    アイロン台の一台七役ができることになった。