80ばあちゃんの戯言

聞いてほしくて

日本は何故戦争に向かったか(32)

2011-10-31 07:58:27 | 戦争体験
NHKテレビ”日本は何故戦争に向かったか”よりの抜粋

 アメリカと戦えないことを認め、中国から撤兵することになると

これまでに失われた20万の兵の命や毎年の国家予算の7割に達し

た陸海軍費は何のためだったのか、国民は失望し、国家は面子を失

うと考えました。

 海軍省兵備課長湊慶譲の証言

”日本はもう世界的に全部威信を失墜すると将来日本人は中国人に

 唾を吐きかけられ、朝鮮人には石を投げられてですか、何処に行っ

 たってですね、そら、もう、立つ瀬はないですわ。これでは駄目

 じゃないかと、、、。”


この頃の大勢は中堅層を中心にリーダーを強硬に突き上げました。

これまでは油が底をついて、アメリカが戦力を増強すれば、日本は

ますます引き離される。この際一日も早く開戦すべきではないかと、



海軍省兵備局長保科善四郎の証言

 ”何故戦争に反対するんだと、後は脅迫までされましたよ。”


 結局リーダー達は軍の部下や国民を説きふせるだけの言葉があり

 ませんでした。


 企画印総裁鈴木貞一の証言

 ”東條君の言うたのはあれだけの人間を殺して、そして金も使い

 果たしてだね、ただ、その、手ぶらで帰って来いと言うことはだな、

 できないと。”


 
歴史家(日本近代史)ジョン・ダワーさんのお話 

 ”人が死ねば死ぬほど、兵は退けなくなります。リーダーは決し

  て死者を見捨てる事を許されないからです。  この死者への

  負債はあらゆる時代に起きていることです。 犠牲者に背を向け

  我々は間違えたとは言えないのです。”


1941年9月6日  開戦まで後98日

  石油が来なくなって一ヶ月、連絡会議はまたしても当面の方針で

 凌ごうとします。 交渉での推移を見つつ、一月後の10月上旬

 開戦か否かの決意を固め、決断はやはり先送りでした。

 ただしそれには、期限を設けていました。

 企画院総裁鈴木貞一の証言

 ”期限を切ると言うことはやらん方がいいと僕は言ったんですが、

 近衛さんは、やるけれどもだね、いづれはご聖断仰いでやらなけ

 りゃならんから、一応こうやっておきましょうとこういう考えなん

 ですよ。”


 陸軍省軍務課長佐藤賢了の証言

 ”これは開戦を決意したんじゃない。開戦決意をするという決議なん

 ですから。”

  開戦決議をするという期日を10月上旬と明示したのです。

 殆ど望みはないけれども何しろまだ交渉をやるんだから、万に一つ

 所謂我が目標が貫徹する事があるかもしれないと、こういうところ

 にみんなの安易な逃げ場があったのだと私は思うのであります。”


 確実に戦争の足音は近づいていました。

近衛首相はひそかに自分の心境を穏健派の海軍次官に明かし、ました。

 海軍次官澤本頼雄日記より、近衛首相心境
 
 ”どちらの軍からも対米戦に見込みがあると言う話は聞かない。

  この際私は人気取りで開戦決意しようと思えば容易なことだが、

  それは陛下の御心に反することになる。対米譲歩は国内を乱すと

  言うが、国内問題がどうあろうと国を滅ぼすと言うことはない。

  だが、対外問題を誤れば一国の安危に関わるんだ。”


  本音では戦争を避けたいリーダーたち。 しかし多くの恨みを

  買う、その決断を誰が言い出すのか、水面下で擦り合いが始まり

  ます。

(つづく)



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幼稚園の送迎バスと家族

2011-10-30 03:39:42 | 最近のできごと
 最近、また、幼稚園の送迎バスの運転手が幼稚園児を迎えに出て

来た小さい弟妹を引いてしまったと言うことで、その場で逮捕され

る事件がおきました。

ご家族や母親は一緒にいなかったのかと気になりました。 

この間の事件も母親と一緒に出迎えたと言う報道がありました。

母親は一体何をしておられたのでしょうか?  

 昔は6歳以下の子供は絶対親が目を離してはいけないと言われて

いたものですが、最近のお子さんは親御さんの庇護がなくても立派

に一人で何でもわかっていて心配ないほど急成長されているのでし

ょうか?


幼稚園の送迎バスを見ていると、所々に母親が何人もバスを待って

いる光景が見られます。

おしゃべりに夢中になっている方々もあれば、携帯電話から目が離

せない方もおられるようです。 いづれにしても小さいお子さんは

急に飛び出したりするものです。

車が怖いと言うことを子供さんはわかりません。

車に引かれるといけないからと言っておいたからと言っても、子供

さんには、どういう風に危険なのかさえも多分解らないでしょう。

絶対親御さんは片方の手を持っていてあげるべきです。

できるだけ子供さんから目を離さないのが鉄則です。

 私は運転手だけがいつも逮捕されるのはおかしいと思っています。

どちらかと言えば、小さいお子さんの場合は保護者を逮捕するべき

ではないのでしょうか? 

お子さんにもよりますが、ちょろちょろしていつどのような動きを

示すのか図りかねる時さえあるのですから、何人もそばで遊んで

いたりする場合もあるでしょうし、一回確かめたからと言って十分

に見たといえない場合もあるのではないでしょうか?

私は法律の改正を望みます。

日本は何故戦争に向かったか(31)

2011-10-29 18:45:21 | 戦争体験
 NHK テレビ”日本は何故戦争に向かったかよりの抜粋”

全面禁輸など覚悟していなかった軍の中枢には忽ち混乱が広がりました。

海軍省軍務局中佐柴勝男証言

 ”そんな事とは、夢にも思わんものだから、あれをどこか料理屋で飲

 んで、そのまま石油が止まっちゃったわけですね。

 その夜中に非常召集をうけたと、、、、。”

 企画印総裁鈴木貞一証言

 
 ”もうあの瞬間から実際戦になってるんですよ。

  あの瞬間に若い人たちはね、 戦をやるしか方法はないねと。”

 
 海軍省兵備課長湊慶譲証言

 ”中堅どころのわれわれぐらいのところではですね、物資がどん

  どんジリ貧になっていくのじゃないかと、もう、とにかく絶対に

  戦争だけは駄目だっていったってですね、そうもばかり言ってられ

  ない時代がきたんですね。”

 日本の緊急時、非常時にあたってリーダー達は何一つ具体的にな

 方策を決められないでいました。

 ああいう意見もある、こういう意見もある、そういう意見もある、

 いっぱいある意見を一つに一体化できないうちに、様子を見ている

 うちに全面禁輸が現実のものになっていったのでございます。

 日本に残されていた石油の備蓄は二年あるかないかでございます。

 国家の機能が停止するのは時間の問題でありました。

 事ここに至ってはですね、リーダーたちには選択肢が二つしかあり

 ませんでした。

 一つは中国からの撤兵を飲む対米譲歩、もう一つは南方の資源を

 独自調達をする。

 この二つしかありません。

 しかし前者は国内、後者は英米の反発が必至である。まさに

 進退窮まれリと言うところでございます。

 もうこれ迄のように結論をごまかしたり、先延ばしにしたりはでき

 ません。
 
 今度こそは国家の大局に立って決断を思い切らなければならない。

 しかし、みなさん、リーダー達にとって決断はこの後、更に困難さを

 増していくのであります。

 石油停止の現実にリーダーたちは狼狽えました。

  


  ”ルーズベルトは戦争を決意したと思われますか?”

  ”日本はこの朝鮮を受けてたちますか?”

  ”このままでは日本はジリ貧です。”
 
 記者たちの質問に豊田貞次郎外相は

 ”君達は本気で日本が米国と戦えると思っているのか?”

 と、答えています。

  

1941年 9月3日開戦まで後96日

 第50回連絡会議

リーダーたちは究極の選択と向き合うことになりました。

 
アメリカへの譲歩か、それとも、戦争か、統帥部は焦りを顕にし

ました。

海軍軍令部総長長野修身の発言

 ”帝国は各方面において物が減りつつあり、このまま時を経れば

  いよいよ痩せて足腰がたたぬようになります。”


杉山元参謀総長の言

 ”10月上旬には外交のメドをつけてもらわなければなりません。

  それ以上ずるずると延ばすことは統帥部としては認められません。”

一日一万トンの備蓄燃料が消えていく中、リーダーたちの決断の時間

は残されていなかった。

 突如、現実的な問題としてのしかかってきたアメリカとの戦争。

連絡会議のリーダーたちの煩悶が始まりました。

これまで対米強硬派の中心人物として語られてきた陸軍幹部の遺族が

取材に応じてくれました。 

東條英機の腹心、陸軍省軍務課長佐藤賢了は国策を起案するスタッフ

でした。

 ご本人のテープより

 ”東條さんは非常に責任観念の強い人で何かの癖に口癖に責任が

  出る人でありました。”



 意外にも素顔の佐藤は対米戦争に戸惑っていました。



ご遺族佐藤巌さんのお話

 ”制服の軍人と言うものは表向きは好戦的な事を言うんですよ。

  そりゃ軍人としては当然でしょうが、開戦の前日となっても

 ”やっぱりやるんでは?”と聞くと、

 ”馬鹿、負けるとわかってやる奴がいるか。”


本当にアメリカと戦うのかと、先ず、深刻な同様が拡がったのは海軍

でした。

 海軍省兵備局長保科善四郎の証言

 ”海軍の最高首脳部はもう絶対やっちゃいかんと言う考え方で、

  そういう力はありませんよ。そんなことを目標に日本の陸海軍

  の戦備はできているわけじゃない。”


 海軍省調査課長 高木惣吉の証言

 ”幾度(対米戦の演習をやってみても、あるいは図上で演習を

  やってみても勝ち目がないんですよね。実際のところ審判で

  ごまかしているんですけれども本当に率直に言えば。”


 まもなく陸軍の方でも対米戦に慎重を望む声が出始めます。

 日中戦争が終わらない中で、アメリカに挑むことの無謀を現場の

 指揮官達か訴えました。

 支那派遣軍総司令官畑俊六の言葉

 ”日米交渉はなんとしても成功させて欲しい。”

 支那派遣軍参謀課長後宮淳の言葉

 ”この際、撤兵の条件を飲むこともたいした問題ではないと考える。”

 しかしいざ、戦争回避を決断するとなるとリーダーたちの覚悟は揺れ

 ました。

(つづく)



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日本は何故戦争に向かったか(30)

2011-10-28 11:32:02 | 戦争体験
Nhkテレビ ”日本は何故戦争に向かったか”よりの抜粋

近衛らは陸銀を止める代わりに、その関心を南に向けようと今度は

南方準備に同意した。

企画院総裁鈴木貞一の証言

 ”近衛さんはだ、仏印をやらなければだね、北の方に陸軍がやら

 せんかという心配があったから南ならすぐ戦にならないとそう

 いう考えだった。”

皇軍佛印増駐(ニュース)

 日本佛領インドシナ共同防衛の取り決めに引き続きわが陸海の精鋭
 
を南佛印増派の旨、、、、。


 この南部佛印進駐も連絡会議の南方準備に基づいた行動でした。

1941年7月28日

 首脳部としては事前交渉でのフランス領への少数部隊の派遣に過ぎ

ず石油のあるオランダ領や英米が神経を尖らせるイギリス領には手を

出さない。北方と同様様子見のつもりでいた。 しかし陸海軍の

バランスをとった内向きの対応が最悪の結果を生むことになるのです。

海軍省軍部局中佐柴勝男の証言

”アメリカも東洋方面でですね、自ら日本と事を構える事はしない

 だろうと、とにかく(関心は)ヨーロッパの戦争の方に非常に向いて

 いるんですよね。ですから、まさか、そこまで来んだろうと言う

 予測が、その考え方が非常ににあったわけですよ。”

 参謀本部作戦課長土居明夫の証言

 ”わたしはね、南部佛印の進駐と言うことが大東亜戦争の決起に

 なるという程僕は不明にして考えなかった。”

 経済やアメリカの圧迫、アメリカの決意をやらすほどの情勢判断

 をようしなくって進駐をやったですね。


静岡県立大学(日米開戦史)森山優准教授のお話

 ”ここまでなら自分達にしては抑制的に動いているつもりであると、

  ここ蘭印)まで行きたいんだけれど、本当は手前で止めているん

  だから、或る意味では烏合の衆が寄り集まって綱引きをしたから

  いつの間にか変なところへ行っちゃってると、、、、。”

 佛印への進駐がアメリカの態度を硬化させました。

 それまでの部分的な輸出制限から一気に言って気の石油も日本に

 売らないという前面禁輸に持ち込んだのです。

 当初アメリカの反日世論は急速に高まっていました。

 アメリカ政府内では対日強硬派が力を拡大し日米交渉での時間稼ぎ

 を考えていたマル国務長官等をじきじき圧迫、そうした中で強硬

 措置をスタートさせました。 

 ルーズベルト大統領もこれを追認。

 制裁解除には中国と佛印からの撤兵を条件に掲げられます。

 日本の首脳部は方針を曖昧にして選択肢を残そうとしたことが最悪

 の結果をひきおこしました。

(つづく)



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日本は何故戦争に向かったか(29)

2011-10-27 11:04:45 | 戦争体験

NHKテレビ"日本は何故戦争に向かったか”よりの抜粋

6月下旬、日本の意思決定のこの問題点が顕になります。

1941年6月22日三国同盟を結んだドイツと、ソビエトとの間で

全面戦争が勃発、日本の首脳陣はどう対処すべきか判断を迫られまし

た。

当初ドイツは目覚しい進撃を見せました。

その時陸軍の中には北のソビエトを叩けと言う北進論。海軍の中から

は南の資源を確保せよと言う南進論が同時に浮上しました。

参謀本部作戦課長土居明夫証言

 "今まで陸軍は対ソ作戦できているんだからソ連を叩き、明治以来

 の北方処理を解決したいと、、、。”

海軍省軍務局柴勝男証言

海軍は南ってずっと言ってきておったでしょ。どうしてもこれだけは

やらなきゃいかんと、所謂自存自衛ですわな”


陸海軍が自分たちの組織の都合を訴える中で連絡会議の近衛首相ら

首脳陣の方針は定まりませんでした。



1941年7月2日 開戦まで後159日、リーダー達は当面の対応

方針を打ち出します。

それは方針とは名ばかりで、選択肢を外交交渉、南進、北進をどれか

に決めることなくすべてを進めるという総花的なプランでした。

しかも具体的なことはべつに定めず、準備だけをすると言うような

様子見、先送りでした。

軍令部作戦課長富岡定俊の談話速記録より

"何でもって妥協したかと言うと文字でもって妥協したわけです。

作文で。佞人が大分できましてね、それで国策をを陸軍は陸軍

で自分の領海にしたがってどんどんやる。

海軍は海軍で領海でやっているというそういう現象なんです。



1941年7月13日開戦まで148日

連絡会義の方針に基き北進の準備の動員を開始した。

総勢16個師団85万の大兵力、準備を何処までするか軍の判断に

まかせられていた。

準備は秘密、兵士の見送りも許されなかった。

方針の曖昧さをいいことに陸軍は準備の内容を最大限に解釈。

この大動員が波紋を拡げることになります。

陸軍の準備は行き過ぎではないか、国家に緊張が走った。



"聞いてますか?関東軍が行動の自由を要求したということです。

シベリヤの統治計画を作っているとか。”

海軍省軍務第二課長石川信吾の証言

”どういうことか。 陸軍はまた勝手にことをはじめる気なのか。”

 危機感を持って海軍省幹部が陸軍省に乗り込みました。

″佐藤、貴様らは本気でソ連に出るつもりでおるのか。北進は陸軍の

単独作戦となるが、国を滅ぼすぞ。食い止めるんだ”

佐藤賢了陸軍省第二課長

”誰がそういっているんだ。”

様子見のために曖昧にした首脳部の方針。逆に現場に拡大解釈を許す

結果となった。

(つづく)


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エスカレーター

2011-10-26 16:16:03 | 最近のできごと
 つい先ほどのことである。

センター北から地下鉄のグリーンラインに乗って、センター南

で下車し、長いエスカレーターの下まできたら、もう左側には

長い列ができていたので、その右側に乗って階段を昇るように

歩いていったら、左斜め後ろから"ばあちゃん元気だね!”と、

聞き覚えのないお若い殿方の声が聞こえた。 

 え、ばあちゃんって、私のことと思いながら、何せばあ

ちゃんのこと、反応が鈍いからどんどん昇っていきながらの

ことでどなた様が声をかけてくださったのやら判らないうちに

上までついてしまって、わざわざ声をかけるのも変かなあと

思いながら失礼してしまった。

聞くところによると関西では追い越しは左側だとか、片側の

昇らない方ばかり人が乗るので、そちらと反対側にかかる

体重差があまりに大きいのでバランスが悪いために機械が

壊れやすいのだと聞いたことがある。

私も左側に乗ることもあるので、あまり大きなことは言えないが、

それにしてもあまりにお若い方が楽な道を選んでおられるような

気がして、ワンガリ.マータイさんではないけれど、

  "もったいない”

と、言いたくなるのである。 今は何でも便利な時代、少しでも、

ご自分を甘やかしすぎると、どんどん体がなまってしまいそうな

気がするのだ。 せっかくの体のためになるチャンスではないか?



 今年百歳になられた日野原さんという有名な現役のお医者さん

は、お若いとき、病院の6階から空襲の度に患者さんを背負って

何回も階段を上り下りされたと言う。 食糧難の時代にである。

さぞ大変だったろうと思うが、患者さんのためにと必死で頑張ら

れたお蔭で、多分今のお元気なお体があるのだと私は推測している。

毎日の小さなことの積み重ねが大事なのではないだろうか? 



 私ごとで恐縮だが、37,8歳の頃、保育科に通っていたのだが、

茅ヶ崎駅まで自転車を飛ばし、それから東海道線で、横浜駅迄行き、

東横線に乗り換えて白楽で下車。それから坂を駆け上って学校へ行

っていた。途中階段が何段あっただろうか、入学当初は慣れなかっ

たので、とても辛いと思ったが、一ヶ月もしたら、なんとも思わな

くなった。

その後、父の喀血で、横浜の警友病院へ昼休みを利用して、父を

毎日見舞い、熱海国立病院には毎週一回か二回学校帰りに母を見舞

い、二人の小学生の息子と午前様の夫を抱えて、家に帰れば宿題

やピアノのお稽古もありで本当に大変だったけれども、神様は、

私に耐えられるとお思いになってこういうことをさせてくださって

いるのだと思い、頑張ったお蔭で今の丈夫な体を与えていただいて

いるのだと言う気がするのです。

どんなことでも人生無駄になることはないと母が申しておりました

が、人生健康ほどありがたいことはないのです。

せっかく歩くチャンスがあるのに、歩かないのはもったいないので

はありませんかね? 小さいことの積み重ねが大事なのでは?



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都筑交流センター

2011-10-25 16:05:47 | お正月
 8月の10日午前10時半ごろだったかと思うが、初めての方からのお電話

があった。

 ”都筑交流センターの○○です。あなたのブログ拝見しました。

 以前から荒武さんのことは朝日新聞とかアエラも拝見していますし、

いつか取材をさせていただきたいと思っていました。

実は私もホームページを立ち上げていまして、母の語る20世紀と言うのは

人気があるんですよ。どうぞご覧になってください。都筑交流センターと

言うのをご存知ですかなど、取材を申し込みながらご自分のことを長々と

しゃべられるので、かわった方だなあと言う印象を受けたのだが、とこ

ろが、この方の文章が実にすばらしい。どうぞ皆さんもご覧ください。

http://www.city-yokohama-tsuzuki.net/station/visit/index.html

http://www1.tmtv.ne.jp/~hsh/20seiki21.htm

http://www1.tmtv.ne.jp/~hsh/

http://www.city-yokohama-tsuzuki.net/

日本は何故戦争に向かったか(28)

2011-10-22 06:51:24 | 戦争体験
NHKテレビ"日本は何故戦争に向かったか"よりの抜粋

 開戦リーダーたちの迷走

今から70年前、1941年あの日米開戦の年ですけれども、この年

のリーダーの決断を取り上げてみたいと思います。

この年まだ中国と戦争していた日本に対して、アメリカ、イギリス、

オランダが経済制裁を強めて参ります。所謂ABCD包囲網という

ことです。特に石油に関して言えば日本は、アメリカ、イギリス、

オランダに94%依存している日本にとってこれは由々しき大事で

ございます。 

一方日米間の国力差は甚だしい問題でありました。総合的な国力差

はアメリカは日本の80倍だと言われていました。

 石炭   10倍    石油    530倍

 鉄鋼   12倍    総合力    80倍

これでは歯が立たないだろうと当時のリーダー達はみな認識をして

いたということでございます。

そして今回取材してわかったことは、この段階で日本はアメリカと

戦争しなくてはいけないと、本気で思っていたリーダーはいなかった

と言うことでございます。

では、みなさん、日本は何故戦争へ向かっていってしまったのでしょ

うか?

世界で戦争が拡大していった1941年各国の指導者達は危機の時代を

乗り越えようと懸命でした。

リーダーは自らに権限が集中し、迅速な決定で、激動の時代に対応

しようとしていました。

 一方の日本、突出した権力者はいませんでした。

当時は第二次近衛内閣、国家を運営する内閣国務大臣と、統帥権を

担う軍のトップが責任を負っていました。 経済制裁や中国問題を

めぐってアメリカとの交渉がはじまると、彼らのリーダーシップが

大きく問われることになります。



 1941年5月22日午前11時半  開戦まで後200日 第25回連絡会議

 首相官邸で内閣及び軍のトップが国家方針を検討する所謂大本営

 政府連絡会議が始まります。


松岡洋右外相

 ”アメリカのハル国務長官には、すでに、野村大使からわが方の

  条件を手渡しました。 回答には少し時間がかかるでしょう。”


 日米交渉では、アメリカに経済制裁の解除と中国との調停役を期待

 していたのだがそう甘くはないとわかっていた。

 杉山元参謀総局(陸軍)

 ”もしアメリカが大陸からの撤兵、三国同盟の破棄を条件に蒸し

  返すならこちらも応じる余地はない。そのあたりにぬかりは

  ないでしょうな?”

 "無論、こちらの条件は念を押してある。だが、ものになるかは

 三分、正直厳しいと思う。”

 交渉に見込みはあるのか、交渉以外の道はあるのか首脳部は揺れ

 続けていた。

 首相や外相、陸海軍の代表と各書式のトップが集うこの連絡会議

 は実質的な日本の最高意志決定機関でした。

 重要な国家方針は御前会議にかけられますが、そこでは、天皇の

 承認を受けるのみ、その方針案は連絡会議が責任を持って全会

 一致で、示すことが原則でした。 しかし会議は各代表の権限は

 対等で首相にも決定権はなく、反対者が一人でると、何も決めら

 れませんでした。そこで、話をまとめるには各組織の要望を均等

 に反映した曖昧で実体のない合意でまとめられるのが慣例となっ

 ていました。

 静岡県立大学(日米開戦史)森山優准教授のお話

 ”何も決められないですね、具体的なことは別に定むと言うことで

 決められると言うわけではありません。実際のチャンスが来た時には

 改めて議論しようじゃないかと言うことになります。反対派はその

 場で反対すると、また、なかなか意思決定ができないと...。”

 
  (つづく)

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或る少年の話

2011-10-21 02:18:05 | 最近のできごと
 昨日の夕方の話である。

横浜駅から地下鉄ブルーラインに乗った。 やや暫くして、多分新横浜

を過ぎたあたりだったろうか、電車のドアが閉まりかかった時、その

ドアのすぐ近くにいた少年が紙ごみを拾ったように見えた。

ドアにごみを挟み込んではいけないと思ったのかと思いながら4m

ぐらい離れたところから私は見ていたのだが、何か汚いものをつまむ

時にするような仕草、つまり親指、人差し指、中指の三本でそっと

紙ごみの端をつまんでぶら下げていたのだ。

私は、その後、ずっと彼を見ていたが、夕方のそろそろラッシュアワー

に掛かる頃で、大勢の人々が乗り降りするので、絶え間なく見ていられ

たわけではなかったが、人々の行きかう間に、ちらちらと彼がぶら下げ

ている紙ごみが見え隠れしていた。

 私は彼があのごみを拾う前は見ていなかったけれど、あれは彼の棄て

たごみではないだろうと考えた。彼の棄てたものだったら、あん

な汚いものを持つようなも持ち方はしない筈だと思ったのである。

何とかあの坊ちゃんを褒めてあげたいと言う気がどんどん強くなった頃

センター南駅に到着して、ドアが開くや否や、その少年が飛び出して、

まっすぐ前の方に走っていった。階段もエスカレーターも左の方なのに

と思いながら、彼の後を目で追った。紙ごみをごみ箱に棄てに行った

彼はエスカレターの方へ飛んでいって、私が、もたもたしている間に

見えなくなってしまった。

グリーンラインに乗り換えようとして、そのホームの一番前まで行ったら、

彼の少年がすぐ目の前にいたので、すぐそばへ行き、

 ”さっき ごみを拾ったでしょ。 えらいわね。誰も見ていないと

 思ったかもしれないけど、いい事したら、どこかで誰かが見ている

 ものよ。”

 その時彼は、なんとも言えないいい笑顔を見せてくれた。


何だか急に、彼にブログを読んでもらいたくなって、ブログの宣伝を

してしまった。(大笑い)

日本は何故戦争に向かったか(27)

2011-10-20 03:34:11 | 戦争体験
NHKテレビ"日本は何故戦争に向かったか"よりの抜粋



日本のリーダーシップをどう思いますか?

 "とても頼りないと思います。”

 "駄目だと。”

 "リーダーシップが取れていない”

 ”指導力がないかな"

 ”軸がぶれているんかな”

 "行動力、決断力がない。”




 今から70年前の1941年日本はアメリカとの破局的な戦争、

 太平洋戦争に向かいました。当時のリーダーはアメリカとの圧倒的

 な国力の差を無視して開戦に突き進んだと考えられてきました。

 しかし事態はもっと、複雑でした。

 

もと、海軍省兵備局長保科善四郎の証言。

 海軍省の中枢装備面の責任者として国策の決定にも関わっていた

 この幹部は首脳部に戦争回避を訴えていました。

 "アメリカと対等にはできないんです。向こうの工業力というものは

 とても日本の比較にならん。アメリカと戦争しても何も得がない。”


もと、陸軍省戦備課長岡田菊三郎のメモより

 強硬派とされる陸軍中枢も対米戦の不利をよく解っていました。

 戦備課長岡田菊三郎も徹底的な国力データの分析から、勝算なしと

 結論、トップに直談判を重ねていました。

 ご遺族川原房明さんのお話、

 "武藤軍務局長なんかでも、絶対積極的には戦争にもっていくべき

 ではないって言うことは言っているようです。日本の国力から言った

 ら、数字の上では絶対に勝てない。絶対賛成しちゃ駄目だ、開戦に

 賛成しちゃ駄目だと言っていた。


 今回戦争を目前にしてリーダーの貴重な資料が見つかりました。

 最後の連絡会議、この会議を持って戦争に突入したわけですね。


 ですから実際の戦争に関係のある人が一堂に会した写真です。

大本営政府連絡会議と呼ばれる最高首脳会議で開戦を決定した直後

に写されたリーダーたちの写真です。

実は彼等の間で驚くべきやり取りが交わされていたのが、戦後告白

した膨大な証言テープからわかってきました。

海軍省兵備局長保科善四郎の証言

 ”海軍大臣嶋田繁太郎が、実は戦争にはあんまり自信がないという

 ことを言うと、それなら、海軍を辞めちまえと言いましたよね。

 いずれにしても、海軍は自信がないということを海軍大臣からもれ

 ている訳なんです。

 陸軍省軍務課長佐藤賢了の証言

 ”海軍の口から戦争できんと言えんから、総理大臣から戦せんように

 言うてくれと言うたということがあるんですがね。”

 企画院総裁鈴木貞一の証言

 ”東條は、海軍はやっぱり戦は不同意だということになれば、陸軍だっ

 てそんなこと強いて主張しないんだ。物資の面から言うとね、本当に

 物というものを計算してやれば、戦争なんてできっこないんですよ。”

 


 日本人だけで300万を超える命が失われた太平洋戦争、国家の指導

 者たちは、何故不利と知りつつ、戦争を避けられなかったのか

 これは戦争前半年間の衝撃的な記録です。

   (つづく)


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