80ばあちゃんの戯言

聞いてほしくて

集団的自衛権(20)

2014-09-07 18:19:16 | 政治
私たち一人一人ににとって何よりも大事なのは、お互いの命でしょう。

この地球上に住む動植物だって同じことです。われわれ人間は今まで、

勝手にその環境を破壊し命を奪いなんとも思わないで過してきたので

はないでしょうか? 

私たちが一番やっていけないことは何でしょうか?

それは戦争ではないかと思います。

近頃の世界のあちこちで起こっている戦争とか、紛争とかで、

われわれは一番大事な、この地球の姿を刻々と変えていって

しまっていますが、動植物は何も出来ないで、絶滅したり

しているのです。すべて我々人間の責任です。

確かに古来、地球の気候変動はあったのでしょうが、その自然

の力を上回る変動を起こしつつあるものが原子爆弾や、水素

爆弾などの度重なる実験や原発事故、そして、どこまでも増え

続けている二酸化炭素によるオゾン層の破壊ではないのだろう

かと私は気になるのです。

この夏の世界的異常気象、皆様はいかがお考えでしたか?

今は国々が助け合って異常気象に対応していけるだけの技術を

開発していかなければいけない時期ではないかと思いますが・・?

広島や長崎の原子爆弾をうけて、その悲惨な有様を目の当たりに

した日本人、また、福島の原発の事故の処理方法も解決の糸口も

わからないまま、外国に原発を輸出していこうとする日本政府、

原発で汚染された残土の行方さえ決まっていない有様ですのに

それでいいのでしょうか?

一方では、明治時代から、植木枝盛先生などの民権運動の人々

によって、研究されてきた、憲法草案が、戦後アメリカ軍の

GHQによって認められ、世界に誇れる、新しい平和憲法が生ま

れたという事実をご存じなくて、アメリカ軍から押しつけられた

憲法だから改正すべしという方々もあります。

日本はこの憲法のお陰で、戦後69年も小鳥たちの囀りを聞き、

美しい四季をめでて過してこられたのです。

今戦闘の起こっている国々では市街地だけでなくあちこちで自然が

破壊され、山さえも変形し、空には、鳥一羽飛んでいないその状況で、

それを望ましいと思う方はいないはずです。


何もかもなくした戦後の日本が、戦争を放棄したからこそ、(今は

防衛費が計上されているようですが、)少しづつ、世界の国々への

援助国として何とかやってこられ、世界一の、援助国として、いろ

色な国をお助けしてこられたのです。その後、米国やほかの国々に

も抜かれてしまいいましたが、それでも、日本の信用はまだまだ、

地に落ちていないのです。

戦争によって人類や動植物にとっていいことは何もないのです。

今こそ、ちゃんと平和宣言したはずの日本を取り戻しましょう。

平和でなければ、毎日のようにあちこちで起きる災害に援助する

ことなんて、とても出来ない相談ではないでしょうか?

せっかくした平和宣言を、ちょっとしたお思い付きでなくして

しまっていいのでしょうか?

核爆弾をこの世から一掃して、平和の世の中にするという覚悟は

そんな簡単になくしていいものかどうか、考えが甘いとおっしゃる

方々もいることは存じておりますが、それでも、世界の平和を

追求していく理想を世界の人々と一緒に手を組んで何とか実現して

いきたいと思っております。




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集団的自衛権(19)

2014-09-02 18:46:31 | 政治
さて、集団的自衛権といえば、抑止力という問題がありますが、

何も考えないで、核を持てだの強力な装備を持つ軍隊を持つこと

だとかおっしゃる方がありますが、大体、相手を抑止すると言う

のには、相手がいつ戦を仕掛けてくるかわからないので、相手の

国が恐れて戦を仕掛けられないほどの軍備を整えて、相手に脅威

を持たせることで戦争を回避しようと言うことですから、それを

するとすれば、膨大な軍事費というものがいるのです。それに、

それを職業として操作できる人間も必要になってきます。

自衛隊だけでは、当然ながら、足りません。今の日本には、その

費用も、その人間もないのではないでしょうか?

軍事力というものはこちらが拡大すれば相手もさらに強大な軍備を

持とうということになるのです。今まで、歴史的に見ても軍事力が

抑止力になったということはないようです。抑止という言葉は

あたかもそれによって戦争を回避できるように感じますが、実際は

返って、戦争につきすすんでしまうことが多いとか。

この前の戦争でも、海軍が今度こんな軍艦が欲しいといえば、大蔵

省は、必ずその要求を呑んで海軍の思う通りに軍備が進んでいった

そうです。ですから、国の歳費の80%、90%と軍備に費やす

ようになってしまったそうで、それで、海軍のお偉方は戦争に勝て

ないということができず、戦争に突入してしまったという話もある

ようです。

今、もし、国の歳費の90%を軍事費に使うとしたら、社会保障費

だとか、災害復興の費用とか、子供さんのための費用とかどんどん

削られていくことでしょう。


また、軍備ができると使いたくなる人間も出てきます。 理由は

後からでもつけられると、勝手に相手が悪かったことにして、無責任

な戦争に入ってしまう事だってありえます。

よく考える必要があると思います。

  (つづく)


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お詫び

2014-08-28 17:31:35 | 政治
このところPC の不調のため、いろいろと問題がおきています。

昨日のは今みましたら、同じ文面が3回も出てしまいましたが、

gooに出しましたものだけが変わっていました。 他にも、同じ物

を出しているのですが、gooのだけ、昨日の分が3回もでていました。

今気がついて直したところですが、どれも前が切れるか、後ろがないか

不完全なものになっていました。

今使っているのは限界まで来ていると修理する方にいわれたので、

新しいPCを買ったのですが、まだ、付け替えられないでいます。

すみません お許しください。m(__)m

集団的自衛権(18)

2014-08-28 17:03:08 | 政治
核爆発による地球の汚染は核実験によりどんどん進んで

いきましたし、さんご礁のサンゴだけでなく、鼻行類と

言う奇妙な生物も絶滅しました。

核戦争勃発かという危機もありました。世界のあちこち

に今までに作られた核爆弾も、まだ、たくさんあると

いうことです。




以下はWikipediaよりの抜粋

1962年秋にキューバ危機が起こり、アメリカとソ連は

あわや核戦争に突入かというところまで、激しく対立しました。

この苦い経験から米ソ両国は歩み寄り、部分的核実験禁止条約

の締結へ向かいました。

1963年8月5日に、アメリカ、イギリス、ソ連の三国外相

により、モスクワで正式調印がされ,10月に発効しました。

発効までに、108カ国(原調印国を含め111カ国)がこの

条約に調印しました。一方、中華人民共和国・フランスを含む

十数カ国は調印しませんでした。地下での核実験は除外されて

いたため、大国の核開発を抑止する効果は限定的でした。

このため、1996年9月に包括的核実験禁止条約が国連総会に

よって採択されたのですが、2012現在(このWikipedia の

書かれたときまでには)未発効でした。




包括的核実験禁止条約は、宇宙空間、大気圏内、水中、地下を

含むあらゆる空間での核兵器の核実験による爆発、その他の

核爆発を禁止する条約。



1996年9月、国連総会よって採択され、日本は1996年

9月に署名。1997年7月に批准しました。

2012年2月現在で182カ国が署名。152カ国が批准して

いますが、発効要件国(核兵器保有国を含む44カ国の批准が完了

していないため、未発効。



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集団的自衛権(17)

2014-08-25 17:49:52 | 政治
では、ビキニ環礁のあるマーシャル諸島の住民はどうなったか、

23の島からなるマーシャル諸島は、元日本の委任統治領だった

ところですが、戦後、アメリカの信託統治領になって、アメリカ

によって、総出力の高い水爆実験などが行われ、そのうち三つの

島が破壊されたそうで、マーシャル諸島共和国となった現在、

ビキニ環礁地域旗は、青地の中に23の白い星が当環礁の23の島

右上の三つの黒い星はキャッスル作戦で破壊された島々、右下の

二つの黒い星は島民が移住した島をあらわし、旗の中のマーシャル

語の記述は1946年に米軍から退去を求められた際に首長が島民

に語った言葉で、(すべては神の手の内に)を意味すると言います。

クロスロード作戦

ビキニ環礁で行われた最初の核実験は1946年7月1日と7月

26日のクロスロード作戦で、これは1945年のニューメキシコ

広島、長崎に続く史上4番目と5番目の核爆発であったそうで、

大小71隻の艦艇を標的とする原子爆弾の実験で主要標的艦はアメ

リカ海軍のネバダ、アーカンソー、ニューヨーク、ペンシルベニヤ

空母サラトガ、などの他、第二次世界大戦で接収した日本海軍の

戦艦長門、ドイツ海軍の重巡洋艦プリンツオイゲンなども標的と

なった。

キャッスル作戦(ブラボー実験)

1954年3月1日のキャッスル作戦ブラボー実験では広島型原子

爆弾約1000個分の爆発力(15Mt )水素爆弾が炸裂し、海底に

直径約2キロメートル、深さ73メートルのクレーターが形成された。

このとき日本のマグロ漁船第五福竜丸始め約1000隻以上の漁船が

死の灰を浴びて、被爆した。また、ビキニ環礁から約240km

離れたロンゲラップ環礁にも死の灰が降り積もり、島民64人が被爆し

避難することになった。この3月1日はビキニ・デーとして原水爆

禁止運動の記念日となり、継続的な活動が行われている、

放射能検査

米国は1958年から残留放射能の検査を開始し、1968年8月

には居住ア安全であるとの結論が出され、島民の帰島が許可された。

実験に先立ち離島した167人のうち139人が帰島したが、1975

年に島民は安全性に疑問を持ち、アメリカ政府に対して訴訟を起こした。

その後、1975、76,78年に調査が行われ、1978年9月には

再避難することとなった。二度目の避難の後、1980,82年にも

調査が実施された。これらの米国による調査の後、1986年には独立

したマーシャル諸島共和国政府は第三者による調査を実施した。

その報告書は1995年2月に提出されたが、共和国政府は報告書を

承認しなかった。

1994年には、共和国政府は国際原子力機関(IAEA)に放射線調査を

依頼し、1997年5月に IAEAによる調査が開始された。1998年

には、IAEA は報告書(Radiological Conditions at Bikini Atoll;

Prospects for Resettlement)を発表し、その中で本環礁に定住し、

そこで得られる食料を摂ると年間15mSvに達すると推定され、永住

には適さないと結論付けた。

現況

 島民は強制的にロンゲリック環礁は、さらにキリ島へと移住させられ

た。 現在にいたるまで、原住民は島に戻れない。

放射能レベル自体は短期間の滞在では問題ないレベルまで下がっており、

現在では美しい沿海上記艦船はダイビングスポットにも、なっている。

リゾートホテルもある。

2008年4月オーストラリア研究会議(ARC)はビキニ環礁のサンゴ礁

の現状について発表した。その発表によると、ビキニ環礁面積の80%

のサンゴ礁が回復しているが、28種のサンゴが原水爆実験で絶滅

以上Wikipedia よりの抜粋。



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集団的自衛権(16)

2014-08-20 14:52:09 | 政治
NHKテレビ”NHK スペシャル 水爆実験60年目の真実"より

の抜粋


当時の極秘文書からは、アメリカが水爆実験で被害を受けた日本に

対して、ある秘密工作を行っていたことも明らかになりました。

当時のアイゼンハワー大統領は、その秘密工作を守るため、直属の

組織を設けていました。OCBという組織です。

OCB工作調整委員会の機密文書が入っていたファイルがあります。

OCBは他国の世論を動かす心理作戦をになっていました。

当時、最も神経を尖らせていたのは、ソ連がアジアで推し進める

共産化の動きでした。

水爆実験の年、ベトナムではホーチミン率いる共産党が急激に勢力

を拡大。日本では第五福竜丸事件を機に激しい反米反核のデモが

繰り返され、OCBは警戒感を深めていました。日本の放射能

パニックは共産主義勢力に絶好のチャンスを与えてしまっている。

事態を打開するためにOCBが推し進めたのは前の年、アイゼン

ハワー大統領が打ち出した戦略、原子力の平和利用です。

核分裂物質が、人類の平和のために使われるべきだとOCBが原子力

は兵力だけではなく、夢のようなエネルギーにも使えるとアピ-ル

するだけで水爆実験への批判をかわそうとしたのです。

日本で原子力の活用を推進することは被害を最小限にする最も

効果的な方法だ。 原子力を雑誌や映画などでPRし、日本での

博覧会の開催の可能性を探れ、水爆実験の翌年、OCBが提案した

原子力平和利用博覧会を日本は受け入れました。原子力平和利用

博覧会は被爆地広島を含む全国11箇所の会場に、のべ、300万

人がおしかけました。

水爆実験の二年後、OCBがアイゼンハワー大統領に提出した報告書

には、こう書かれています。

一連の原子力PR工作によって、日本人の反核感情は殆ど取り除かれ

た。

水爆実験への反発をかわそうとしたアメリカ、その思惑にのった日本、

多くの漁船員の被爆は、省みられなくなりました。

6月、広島の科学者たちの一年以上に及ぶ、調査の結果がメンバーに

報告されました。

最初は田中さんが進めてきた血液の染色体の調査結果です。

水爆実験当時、現場から1300キロ以内にいた8隻18人の染色体の

解析結果。染色体に異状がみられた細胞の割合を同年代の人の平均値と

比べると、18人中13人が高い割合を示しました。第二幸成丸の

久保さんも、その一人です。異状が見られた細胞は1300個のうち

14個、水爆実験によって被爆した可能性が高いと田中さんは報告し

ました。 さらに、異状がある細胞の割合をもとに、推定被ばく線量を

導き出しました。用いたのは、田中さんが、長年、被爆者の血液を調査

する中で得た相関式です。そこに今回、解析した人たちのデータを当て

はめました。異状の割合が1,14%の人は、128ミリシーベルト、

2.72%の人は306ミリシーベルト、18人のうち、8人が健康へ

の影響があるとされる国際保険機構の100ミリシーベルトを超える

被爆をしていることが示されたのです。

田中博士

 ”統計的には有意な差がでている。確実に多いとされているデータが

  出ている。100ミリシーベルト以上多くの方々があったことが

  推定できる。”

続いて、統計学が専門の大瀧慈教授から、どれだけの船が被爆した可能

性があるかを示す、調査結果を報告されました。解析に使われたのが、

当時アメリカが観測していた空間放射線量のデータ。

太平洋の20箇所以上にモニタリングポストを設置し毎日データを収集

していました。形を変えながら広がる赤いエリヤ、空気中の放射線量が

自然界よりも高い海域を割り出しました。さらに、今回、日本の漁船

103隻の航路データと、新たに入手したこの二つのデータを重ね

合わせて見ます。

最初は狭い範囲にとどまっていた赤いエリア。3月14日第5福竜丸が

日本に戻ったころから、操業海域を覆うようになりました。しかし、

国は漁船の操業を止めるようなことはありませんでした。3月27日

ロメオ二回目の水爆実験、その一ヵ月後、4月26日ユニオン、3回目

の水爆実験、その9日後、5月5日ヤンキー、二ヵ月半に及ぶ水爆実験

の期間中、少なくとも98隻の船が操業を続けていたのです。

大瀧教授

 ”これは非常に大きな問題だと思うんですよ。予防的にですね、

  もう少し、危険範囲というか、そういった領域を広目にとっておけ

  ば、立ち入りできないように状況を少なくとも作っておけば、あん

  な高い線量の被爆はなかったと思うんですね。”



69年もの間なかったことにされてきた漁船員たちの歯や血液などに

残されたビキニや、当時のデータから大きな規模の被爆が起きていた

可能性が明らかになったのです。



山下さんは厚生労働省に向かいました。存在しなかったとしてきた

検査記録が見つかったこと、そして、漁船員の被爆が科学で裏づけ

られたことを伝えるためです。

第二幸成丸の桑野さんも思いをぶつけます。

 "私自身が100ミリシーベルトという放射能の痕跡が体の中に残って

 いる・・検査の中から・・・これはねえ、今までどんどんどんどん

 亡くなった方たちは私以上に何百ミリシーベルトの放射能の、核の

 放射線をかぶっていた、だからこそ、厚生省の力で公表してもらい

 たい。"

山下さん

 "厚生省として、人権に関る未解明の問題として位置づけ、因果関係

 の解明のために取り組まれたいんで、よろしくお願いいたします。”

山下さんは早急な調査を求めました。


担当者はまづ、資料の残っているかどうかを確認するということに

留めました。

山下さん

 "公文書を隠されて、被災の事実を隠されて、被災者も自分が

 被災したことをわからずに、苦しんで亡くなったりしていた。

 だからやっぱり、早くから事実を明らかにして、被災者も自覚

 することができたら、医療とか保障の問題も確立されていて、

 こんな事にはならなかっただろう。

 血液検査の結果が伝えられた第二幸成丸の久保尚さん、同じ漁船の

 親友40歳で亡くなった寺尾良一さんの下に向かいました。

 漸く明らかになった被爆の事実を報告します。

 "良一よ。ビキニの結果が出てね。長い月日やったけどわかった

 けんな。安らかに眠ってください。”

 
 被爆を疑いながら、何もできないまま、仲間を失っていった60年

 あまりにも長い歳月でした。

 熾烈な開発競争のさなか、大国の思惑に翻弄され、埋もれていった

 漁船員たちの被爆、亡くなっていった命、60年の空白を超えて、

 私たちに突きつけられた重い事実です。

  (つづく)

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集団的自衛権(15)

2014-08-19 18:44:03 | 政治
NHKテレビ ”NHK スペシャル 原爆60年目の真実より

の抜粋


昨年11月血液解析が専門の田中さんが高知を訪れました。

より多くの漁船員が提供できる血液で被爆の実態に迫ろうと

考えたのです。調べるは、血液の細胞の中にある染色体の異常

です。放射線が人の体を貫くと細胞の中にある染色体のいくつ

かが切断され、染色体が元に戻ろうとするときに、あやまって

別の染色体と入れ替わったり、二つの染色体が一つになったりし

てしまいます。この手法では歯による調査ほど正確な被爆線量

を測ることはできませんが、しかしより多くの漁船員を調べる

ことで被爆の広がりを把握できます。



 広島大学田中公夫博士

"やっぱり科学的に誰かが明らかにしなけりゃいけないと思って

 います。その技術はありますのでね。” 


この年、室戸市で行われた採血には9人の元漁船員が集まりました。

これまで口を閉ざしてきた元漁船人たち、進んで血液を提供し

ました。

水爆を受けた直後、国の放射線検査を受けながら、結果を知ら

されなかった第二幸成丸の久保尚さんは、一緒に船に乗っていた

仲間のために調査を受けることにしました。一緒に炊事当番をし

ていた元同級生の寺尾良一さん、水爆実験から23年後、二人の

幼子を残したまま、40歳で亡くなりました。肝臓癌の疑いでし

た。

久保さん

 "良一はつらかったと思うね。早くにわかって病院へ行って

  いたら、もっと長生きできたんじゃないか。”

 久保さんは寺尾さんの死は被爆によるものじゃないかと思って

 いましたが、それを証明する術がありませんでした。

 60年目にして受けることになった今回の調査、自らの検査結果

 で被爆したことを明らかにしたいと考えています。

久保さん

 "良一の無念さを晴らしたいと思うね。自分の体でできることが

  あれば協力する。”



広島大学原爆放射線医科学研究所

 高知や愛媛、宮城などから集まった血液は8隻18人分。

 13,000人以上の被爆者の染色体を見てきた田中さんが解析

 にのぞみます。

 田中さんは一つ一つの染色体を一つ一つ認していきます。

 ここが変です。二つがくっついています。おかしいですよ。

 二本の染色体が誤ってくっついています。原爆被害者にも多く

 見られる異状です。一つの細胞の中には46本の染色体があり

 ます。見ていくのは一人当たり、1300個の細胞。そのうち、

 異状が見つかった細胞がいくつあるのか数えることで、被爆の

 程度を明らかにしていくのです。体の中に残るわずかな痕跡から

 被爆を見つける作業が続いています。



広島の科学によってあきらかになりはじめたビキニの真実、水爆実験

を行ったアメリカでは、今年2月、新たな事実が見つかりました。

実験から数十年たって、公開された、当時の極秘文書の中に、それ

はありました。

日本の厚生省がまとめ、外務省を通してアメリカ国務省に渡された

検査の記録です。被爆した船のリストには、船名、帰港した港、

日付、魚と船体の浴びた放射線量、その隣には、漁船員の被爆線量

が記されていました。国が、これまで存在をしないとしてきた

データです。 漁船員の被爆線量は最大で500カウントまで

あったと記されています。複数の専門家による推計に基づいて

計算すると、毎時2,5マイクロシーベルトという値になります。

水爆実験から数週間たって帰港した時点でも漁船員の被爆に

よる影響が認められていたのです。

問診の中にも、記録がありました。血便、歯ぐきの出血など,広島

や長崎の被爆者の急性症状にもよく見られていたのです。

症状は記録によれば、14隻の漁船員の体から放射線が検出されて

いました。しかし、アメリカは被爆の事実をつかみながら、水爆

実験を続けていました。被爆による人体への影響に目を向けること

はなかったのです。

核兵器の開発を担うエネルギー省で機密文書に接していたロバート・

アルバレス氏、ソ連が水爆実験に成功したと伝わる中、ビキニ

の実験にのぞんだアメリカ、アメリカ政府は、これまでにない焦りを

感じていたといいます。



米エネルギー省元上級政策顧問ロバート・アルバレス氏

 "アメリカは核兵器の開発に不可欠だった核実験を中断されることを

 最も恐れていました。実験の邪魔となる不都合な事実はすべて極秘

 としました。だからこそ日本人漁船員の記録も隠してしまったのです。”

アメリカに渡っていた検査の記録、日本には残されていないのか、当時

アメリカに記録を渡したと見られる外務省に情報公開請求を行いました。

出てきたのは、水爆実験の年、厚生省が独自にまとめた放射線検査の

報告書です。魚、船、そして、人体、厚生省は確かに、漁船員の体の被爆

を調べ記録を残していたのです。久保さんや桑野さんの乗っていた第二

幸成丸の記録もありました。亡くなった通信士の頭髪からも224カウント

毎時、1,1マイクロシーベルトの放射線が検出されていました。

アメリカの文書にあった14隻の他にも新たに14隻の被爆のあったこと

がわかりました。

国に何度も問い合わせても、資料はないと門前払いを食わされてきた

山下正寿さん、

”こりゃちょっと許せないですよね。これだけの資料があったんだったら

 何故もっと早く明らかにして、救済とか治療とかに生かさなかったのか”

 

当時の厚生省の事情を知る人物がはじめて取材に応じました。

元厚生省審議官蔵田直躬さん(91歳)です。

蔵田さんは第五福竜丸以外にも被爆した漁船がいると感じていました。

しかし、検査は途中で打ち切られたといいます。


 蔵田さん

 ”甘いというか、もっとしっかりせにゃいかんと自己反省しています。

 しかも、あの時、厚生省にいたんだから、もっとしっかりせにゃと

 自分を責めたい。日本の国にとっておぞましきこと、決すべきことに

 思います。国民全部に被害者みたいな感情を持たれて、行動を起こさ

 れると困るという問題は深いですよ。そのために死んだリ、病気に

 なった人がどれだけいるかってことですよね。その調査もしていない。

 保障もしていない。”           



 (つづく)

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集団的自衛権(14)

2014-08-16 19:12:55 | 政治
NHKテレビ”NHKスペシャル 水爆実験60年目の真実"よりの抜粋

国が漁船員に対して行った検査の結果どうなったのか、山下さんは

当時の資料を探した結果、厚生省の作成した放射線検査のマニュアル

が見つかりました。船体や魚だけでなく人の体の被爆線量を測るよう

指示しています。

水爆実験の翌年に国に出された検査の報告書が見つかりました。

第二幸成丸の検査結果、船体と魚からの放射線量は記載されています。

ところが、漁船員の体の測定結果はどこにも掲載されていませんでし

た。

山下さん

 ”マグロよりも人間が大事ですからね、マグロよりも人間の影響を
 
  記録したものを真っ先に出さなきゃいけない。 そこに意図的な

  ものを感じました。”

何故、最も重要な体の記録が示されないのか、山下さんが国や県に

説明を求めたところ、答えが返ってきました。体の検査記録が残って

いないというものでした。


1986年3月7日高知県選出の議院が国会で国の見解を問いました

が答えは同じでした。


厚生省保険課長

 ”第5福竜丸以外の漁船の実態数字についてつかんでいない。”

厚生大臣

 "調査も難しい、対策を講ずることは考えにくい。”

国は当時の検査記録がないことを理由にその後も一切の対応を拒み

続けたのです。

 山下さん

 "国に、何か言っても窓口厚生省は閉じてます。解決済みです、

 資料がありませんの一点張りです。そこから全然進みません。

 何度ももあきらめかけたんですが、この壁の厚さは並ではない。”

被爆の疑いを持ちながら、それを証明する術がない中、漁船員

たちは沈黙を続けていました。

広島の科学者たちが被爆の実態を明らかにしようと動き出して

半年、漁船員の抜いた歯が見つかったと言う知らせが星さんの

元に届きました。

男性は9日前に、歯医者で歯を抜いたばかりでした。

星先生

 "これで、出てくる可能性があるなあ”

男性の乗っていた遠洋漁船第五明賀丸 水爆実験の現場から

1300キロの海域にいました。 一緒に乗っていた二歳上の

兄は皮膚がんで亡くなりました。

歯は仲間の研究者、岡山理科大学豊田新教授に渡されました。

歯の表面のエナメル質だけを分離しました。マイクロ波をあて

成分を分析する特殊な機器を用いて、異常な電子の数を数えます。

分析を重ねて一ヶ月、結果が出ました。割り出された放射線量は

414ミリシーベルト。

星先生

 "高めです。明らかに高めに出ています。”

この値には日常生活での被爆も含まれています。自然に浴びる

放射線量 45、過去のレントゲンなどの記録から計算された

医療被曝の推定値50 を引くと、319ミリシーベルト。

星さんたちが注目する100ミリシーベルトをはるかに超えて

います。

ビキニから1300キロで検出された319ミリシーベルト

それは広島の原爆で、爆心地から1.6キロで被爆者が浴びた

放射線量と、ほぼ、同じです。広島の被爆者たちは健康手帳が

交付され、医療費の全額が保障を受けられます。


豊田新教授

 ”ビキニの被爆ってのは見過ごしてきた感がありますね。

星先生

 "初めてですね、まったく初めてですね。”

国が60年間認めてこなかった漁船員たちの被爆、広島の科学で

初めて明らかになりました。


(つづく)



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集団的自衛権(13)

2014-08-11 11:57:29 | 政治
核実験について、今まで公開されていなかったものが、最近公開

されて、NHK で放映されました。


以下はNHK テレビ”NHKスペシヤル水爆実験60年目の真実”

よりの抜粋

 

広島の科学者たちが探していたのjは60年前太平洋ビキニ環礁

周辺にいた漁船員の歯。それを調べることで当時の放射線をどれ

くらい浴びたがわかるので、これで出てくる可能性がある。

これまで国が認めてこなかった被爆者を明らかにしようとして

います。

日本から南へ370キロ太平洋ビキニ環礁1954年3月1日、アメリカが

水素爆弾の実験を行いました。

威力は広島に投下された原爆の1000倍でした。大量の放射線降下物

第五福竜丸23人の漁船員全員が被爆。周辺には数多くの漁船が操業

していました。

水爆実験は二ヶ月半に6回、周辺には数多くの漁船が操業していま

した。しかし、日本政府は他に、多くの漁船員が被爆したのを認め

ませんでした。実験の翌年、アメリカから、200万ドルを受け取る

ことで、この問題を終わらせたのです。

それから60年、広島の科学者たちが第五福竜丸以外の漁船員の被爆

をあらわにしたのです。被爆の痕跡が歯や血液から次々と見つかり

初めてビキニ被爆がわかったのです。更にアメリカでも新たに事実

が判明します。

公開された文書の中に、これまで存在しないとされてきた漁船員たち

の検査記録もあったのです。

アメリカに送られていた漁船員たちの被爆記録。この事実が隠されて

きたのには訳がありました。

東西冷戦が激しくなった1950年代アメリカはソ連との核開発競争で

優位に立とうとしていました。アメリカエネルギー省元上級政策顧問

"アメリカは核開発の邪魔になるものはすべてとり除きました。この

日本人の被爆も同じように隠されてしまったのです。”

日米両国のデータを重ね合わせると、更なる事実が浮かび上がって

きました。死の灰を浴びた可能性のある漁船は100隻近くにものぼって

いたのです。国家の思惑の陰で、亡き者にされた漁船員たちの被爆、

広島の解き明かす60年目の真実です。

水爆実験60年目の真実。広島が迫るうずもれた被爆。昨年4月広島で

ビキニ水爆実験を明らかにするプロジェクトがたちあがりました。



集まったのは、長年被爆者の体に残された放射線の影響をしらべていた

専門家たちです。

リーダーは放射線物理学の第一人者、広島大学放射線物理学名誉教授

星正治さん、統計学で被爆と病気の関係を明らかにしてきた統計学

広島大学大瀧慈教授、そして、血液学を専門とする広島大学田中公夫

博士、数多くの漁船員が暮らす高知からもメンバーが加わりました。

元、高校教師の山下正寿さんです。

きっかけとなったのは山下さんが長年にわたって行ってきた漁船員の

追跡調査でした。それは25年前、高校の生徒たちが行ったひとつの調査

が出発点となりました。

地元の漁師から、ビキニ周辺操業していた船が港の近くに捨てられて

いるというを話を聞き放射線量を調べてみることにしたのです。

水爆実験から30年以上たっているにもかかわらず毎次1,5マイクロ

シーベルト、自然界の37倍の放射線量が検出されました。

漁船員が水爆実験の後、どうなったのか山下さんは漁船員の実態調査

を行いました。(実験から34年後の時点)

健康状態について帰ってきた答えは驚くべきものでした。

癌などの病気で全体の3割、61人がすでに亡くなっていました。

さらに、一般の男性では13,000人に一人が発症すると言う

白血病で死んだ人が三人もいたのです。

しかし、山下さんには、病気と被爆を結びつけるすべはありませんで

した。

そこで協力を申しでたのが、長年被爆を研究してこられた広島の科学者

たちでした。

原爆被爆者を追跡調査してき多研究者の一人


...もっと早くいろいろなことに気がつくべきだったんです。というか

もっと素直に実態を把握すべきだったんです。

1945年8月6日、ひろしま、8月8日長崎、アメリカが投下した

二発の原子爆弾によって、その年だけで21万人以上の命が奪われま

した。

生き残った人たちも、その後次々と、癌や白血病におそわれます。

人々は被爆のためだと国に原爆症の認定を求めました。しかし、認め

らレない人が相次ぎます。そういう人たちの体に残る放射線量の痕跡

などから、広島の科学者たちは被爆を証明してきました。これまで

培ってきた技術があれば、60年前の事実でも明らかにできると考え

たのです。

どれだけの被爆があったかわからないわけだから、それを解明する

チャンスがあれば、私たちの義務でしょう。

プロジェクトは今回漁船員の被ばく線量を測り、健康への影響が現れ

るかどうかの国際基準の100ミリシーベルトを超えるかどうかに

注目します。

リーダーの星さんは、漁船員の歯を集めることを提案します。

 ”歯があれば被獏線量が測れます。抜歯する時にとって置いて頂く

 ことになりますよね。”

絶えず細胞が変わる他の組織と異なり、歯は入れ替わらないために

被爆の痕跡が残ります。歯の表面を覆うエナメル質、ここに放射線

があたると組織に異常がおきます。 異常は原子と原子をつなぐ

電子に現れます。放射線があたると、二つの電子のうち、一つが飛ぶ

わけです。異常が見られた電子の数を数えることで、浴びた放射線量を

導き出すことができるのです。

高知県室戸

プロジェクトチームの山下さんは漁船員たちの歯を捜し始めました。

以前調査で訪れたことのある漁船員の家を回ります。

”武蔵丸という船にのっておられたとお聞きしたんですが?”

"もう亡くなりました”


漁船員本人に出会えてもなかなか歯は見つかりませんでした。

"歯は全部ないわ。 やるんやったら、もっと早くせにゃね。”

60年の空白が調査の前に立ちはだかりました。

プロジェクトチームが被爆の実態に迫ろうとするビキニ水爆実験、

それはアメリカが広島や長崎の原爆投下から9年後に行いました。

広島を壊滅させた原爆の1000倍の威力、新たなパワーの時代

の幕開けでした。

このとき被爆が公になったのが第五福竜丸です。日本政府は、脱毛

やけどなど、放射線による急性症状が現れた漁船員24人の被爆を

認定します。実験はその後もくりかえされました。大量の降下物、

死の灰が太平洋上に降り注ぎました。



”一連の水爆実験は成功裏に終わった。”(アメリカの報道です)



この周辺の海域では多くの漁船員がマグロを追っていました。

被爆を疑う声が上がりましたが、国が受け止めることはありません

でした。

何故漁船員たちが自ら声を上げてこなかったのか、そこには漁船員

たちの抱えた事情がありました。

桑野浩(ゆたか)さん81歳

桑野さんが乗っていたのは高知県室戸市第二幸成丸。1954年

2月24日に日本を出航、一ヵ月後にビキニ環礁から1300キロ

のところで二回目の水爆実験に遭遇します。

"黒い雪が降る。雨でも雪でもない、黒いのがどんどんどんどん降って

くる。一センチ、二センチ甲板にたまるんです。何や何やとなるんです。

そのとき乗っていたのが、平均年齢25歳20人の漁船員。実験から

20年過ぎたころ、癌や心臓病などで次々に亡くなりました。

今、生き残っているのはたった3人だけです。

桑野さんは仲間の死が、被爆によるものだと思いながら、声を上げる

ことができませんでした。禁句だったのです。室戸市内ではビキニの

話はないことにしようと言う風潮でした。

亡くなった漁船員の奥さんの話

”徹底的に隠していた。魚が取れなくなる、室戸はマグロで生きてきた、

 でも、漁師のなくなる、船もなくなると室戸が全滅する。”

国の対応に不信感を抱いていた第二幸成の当時17歳だった久保尚さん

77歳はビキニから日本に戻ると直接国による放射線検査を受けたこと

を覚えています。ガイガー(測定器)でやっていた。最初は検査官が船

に乗ってきて、船の周囲と、人体を測った。測定器は激しく鳴っていた。

しかし国から結果を知らせることはなく、その後、何も対応はありませ

んでした。

久保さん

"そんな病気であると全然わからんし、死の灰と言われても、全然どんな

ものかわからない。ほったらかしと言うか、その一時だけ騒動で・・・。

 (続く)


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集団的自衛権(12)

2014-08-09 11:12:25 | 政治
以下Wikipediaよりの抜粋

フランス

1960年から1996年にかけて210回の実験を行って

 いる。

 年   計画名   爆発回数  場所      備考

1960 ジェルボアー  3-4  アルジェリア  フランス初の

   ズ・ブルー計画              核実験

1961 アギャット計画 >12  アルジェリア

1966 アルデバラン  >45  フランス領                  

   計画           ポリネシア   水爆実験含む

1975 アシーラ計画  >146  フランス領 

  ポリネシア

1996 クストー計画      ファンガタウファー フランス最後
                         
               環礁(フランス領  の核実験

               ポリネシア)    フランス最後
    
                         の核実験  

                        (地下核実験)

中華人民共和国

中華人民共和国は45回の核実験を行っている。内23回が大気圏内。

22回が地下核実験である。ロプノールで行われた最初の核実験は

1964年10月16日であり、1967年6月17日には、水爆

実験が行われている。1980年10月16日には最後の大気圏内

核実験が行われ、1996年7月29日には、最後の地下核実験が

行われた。



インド

インドは1974年と1998年の二度にわたり、核実験を行って

いる。

・インドの核実験 (1974年)5月18日実施。一回の実験。

・インドの核実験 (1998年)5月11日と13日に実施。

          5回の爆発


パキスタン

パキスタンは1998年に核実験を行っている。

パキスタンの核実験は1998年)5月28日と30日に行われている。


6回の爆発。5月30日には、プルトニュウムによる原子爆弾であるが、

当時のパキスタンはブルトニュウムの開発は行っておらず、蜜月関係

の北朝鮮のプルトニュウムの原子爆弾の代理実験だったとされる。


北朝鮮

北朝鮮は、2006年、2009年、2013年に核実験を行っている。

1998年に事実上の核実験を行っているとされる。

・パキスタンの核実験(1998年)5月30日に実施。 一回の爆発。

 北朝鮮のプルトニュウム原爆の代理実験。15kt。

・北朝鮮の核実験 (2006年)10月9日に実施。一回の爆発。

 0.8~2kt。

・北朝鮮の核実験(2009年)5月25日に実施。一回の爆発。

 4~12kt。

・北朝鮮の核実験(2013年)2月12日実施。一回の爆発。

 7~40kt。

南アフリカとイスラエル

アメリカ合衆国の早期警戒衛星ヴェラは1979年9月22日にインド

洋上で、閃光と電磁パルスを観測した。

これは南アフリカとイスラエルによる核実験との推測が有力となって

いる。
  
  以上Wikipedia(最終更新2014年2月6日更新よりの抜粋)

(つづく)