80ばあちゃんの戯言

聞いてほしくて

鉄管ビール

2010-07-31 18:26:34 | 最近のできごと
 テレビのコマーシャルの中でもビールの宣伝が多いこの頃

ですが、ビールとノンビールというのでしょうか、ビールと、

ビールでない物の区別さえつかない私ですが、それでも、夕方、

お風呂上りにたまには冷蔵庫に入っている頂き物のビール(?)

でも、飲んでみようかと思う事もあるのですが、最初の一口は

本当においしいなあと思います。

 近頃のお若い方の中には、ご自分たちは、お風呂上りの一杯の

ビールを楽しんでおられながら、傍らの赤ちゃんには、湯冷まし

もあげない方が居られるとか。

赤ちゃんは口も利けないのですから、親御さんの喉が乾いた時には

赤ちゃんも喉が渇いていると思って、水分補給をしてあげて欲しい

と思います。

ミルクはちゃんと時間であげているのだからと言う風に思われて

いる方もあるようですが、ミルクは水分補給にはならないのだと

思います。

このお暑い日々、赤ちゃんを熱中症にさせないためにも、こまめに

水分を上げてくださいね。

ちなみに題名に書いた鉄管ビールというのは今の方は言われないと思い

ましたので書いてみたのですが、金属の管の中を通っているお水の事

を昔の人は、しゃれで鉄管ビールと言っておりました。

 ついでですが、熱中症対策でお酒類を飲まれても水分補給には

ならず、余計に水分を排出してしまうそうで、別に水分を取られた方

がいいようですね。

戦後の暮らし(7)農地改革

2010-07-31 15:56:35 | 戦争体験
 私が小学校に入った頃のことである。

○○○と言った農家ばかりの所から何キロも歩いて小学校に通ってきた

子供たちがいたが、総じて貧しい身なりの子供たちで、鼻水をたらし、

手にはひびや、しもやけが出来ていて、子供心に暮らしが大変なところ

の人々であろうかと思って心を痛めていたのだが、それが戦後の農地改革

とやらで政府が豪農の人たちから農地を安く買い上げて、小作農に安く

買わせたと言う話があって、それが効を奏したのであろうか、戦後彼らの

生活は目に見えて変わっていったのである。


(以下はwikipedia調べによる)

 それは1947年「昭和22年)GHQの指揮のもと日本政府が農地の

所有制度の改革をしたと言う話だが、もともと日本政府はこれをやりたが

っていたのだそうであるが、地主たちの反対が強くてできなかったのを

戦後GHQ最高司令官のマッカーサーが寄生地主が日本の軍国主義に加担

したとして農地改革を行なったので、日本政府もスムーズにこれを取り入

れて行ったそうである。

これにより地主たちの農地は強制的に安く買い上げられ小作農たちに売り

渡された。

 これは全国的に行なわれ、7割あまりの農地が地主から小作人のものに

換わった。

 これにより北海道を除いて大規模農業が事実上不可能になり日本の農業

が国際競争力を得られない構造が固定化されることとなった。

なお、すべての小作地が買い上げの対象になったわけではなく東北地方

などでは戦後もある程度の小作地が残存した。


この農地改革をめぐっては,施行されたばかりの日本国憲法大29条3項

「財産権の保障)に反するとして、一部の地主が正当な価格での買取を求め

訴訟を起こしたが、第29条3項でいう正当な保障とは異なると言う解釈が

なされ請求は却下された。

また、この農地改革は当時政府やGHQも其の勢力拡大を警戒していた日本

共産党の力を大いに削ぐことになった。

従来賃金労働者と並んで、主要な支持層であった小作人が其の大部分が保守

系政党支持の自作農に変ったためである「共主義では自作農の土地は全て

国に集められてから国から土地を借りて耕作するという形になるため)。


塾の先生(7)

2010-07-27 07:37:14 | 思い出
 ある時お隣の奥さんが急に私を呼びに来た。

なんだろうかといぶかしく思って出て行ってみると、ご自分のお子さんに

野球を将来の仕事として選ぶように説得してくれと言うのだった。

もちろん、そんな事ができるわけはないので鄭重にお断りした。

それでも、散々粘られた。

ご主人様とお二人で何回も子供さんと話し合ったが、如何しても厭だ

と言うので、これ以上は無理だから荒武を連れて来いとご主人が言わ

れたと言う。

私は、心の中で、それを言うならせめてさん付けにしたらどうかと思

ったが、まあ、ぐっと、こらえていた。

親御さんがお二人で何回も説得して駄目なら、私ごときが話したところで

駄目でしょうと言ったが、ともかく来て話してくれの一点張り、私は

説得はしませんよ。でも、彼の気持ちを聞く事はしましょうと言って、

のこのこと、割りの合わない仕事に出かけていった。

彼は二年生の時に私の塾生だったので、それ以来、私には一目置いてく

れていたのだが、私は彼の気持ちが一番大事だと考えていたし、本当に

彼が一番やりたいことをやらせてあげたかったのである。だから、まづ、

彼の話をよく聞いてみる事にしたのだった。

彼は小学校の低学年の時からお父さん監督の下で野球のチームに入っていた

のだが、結構野球センスがよくって、ピッチャーとして活躍するばかりでなく

ホームランバッターとなって、だんだんチームを優勝に導いていく原動力に

なっていたのだが、高校では神奈川県で野球で名をは馳せている高校のひとつ

にスカウトされた。其処まではよかったのだが、どうも全国から来ている力

のある選手のなかで、自分の力を今ひとつ信用しきれない経験をしたようだった。

でも、親御さんは巨人軍に一位指名されて、莫大な契約金をもらえる選手の姿

を彼の上に重ねて見ていたのである。

試合ごとに親御さんの圧力が大きくなった事は想像に難くない。彼はどんどん

追い詰められていったようであった。

 ”わかった。私がお父さんやおかあさんを説得してあげるわ。でも、今まで

親御さんたちがあなたを一生懸命育ててくれたからこそ、こんな立派に成長

したのだから、野球の道に入らなくても他の世界で一生懸命働きなさい。

それが親御さんのためにもなると思うよ。”と言って、ご両親をあきらめる

ように、ひたすら説得に努めたのである。


塾の先生(6)

2010-07-26 08:33:57 | 思い出
 それから数年たってたまたま行った藤沢の路上で、本当に数年ぶり

に茅ヶ崎の団地にいたある奥さんに会った。

私のところへ勉強に来ていた当時5年生のお嬢さんのE子さんのお母さん

だった。

お子さんはなかなかしっかりとしたいいお子さんだったし、勉強の方も

まあまあだったのだが、ある時、彼女に道端であったらそっぽを向いて

しまわれた。お友達と一緒であったので、塾には、一切行かせていない

とご近所にふれこんでいたので、塾のことは内緒にしなければいけないと

きつくお母さんに言われていたのだそうであった。

私のところでは一日も休まず楽しそうにしていたのにと、なんだか妙な

気持ちになった。

 その後いい高校に入学されたが、そのときには、荒武さんのお蔭で算数の

考え方をしっかりと見につけられたのがよかったと言われたのだが、

其の5年後、一流銀行に就職された後でひょっこりお母さんに会ったときには

”E子は荒武さんのお蔭で銀行の就職試験の数学が一番だったので、

  コンピューターの方へ廻されたって、お蔭で今とっても苦労しているわよ。

  本当に毎日遅くてうらんでいるわ。”

 と、言われたのであった。

塾の先生(5)

2010-07-25 19:42:01 | 思い出
 私のところに勉強に来ていた6年生だった男の子が私立の高校に

入ったと言ってきたので、夕方帰宅した息子たちに、そのことを話し

たら、よく入れたなあと二人とも感心していたが、翌日彼の家にお祝

いに行ったら、ご本人が出てきて、
 
 ”荒武先生にあの時教えていただいたお蔭で入れました。”と言っ

 てくれたので、

 ああ、成長したものだと思っていたら、お母さんの言い分は違っていた。

ご主人のご親戚のお子達は一流高校から東大、早稲田、慶応に入っている

ので、うちの子は本当に駄目なんですよと言われたのである。

 


それから数ヶ月して、夜中に電話がなった。 そのお宅からの電話で、

 ”○○がバイクで怪我をして死ぬかもしれない”と言う話しであった。

 眠い目をこすりながら、いろいろ聞いてみたが、どうも余りよくわか

らない。

 とにかく病院へ入院していると言う事だったし、聞いているとそうすぐにも

 死にそうなことにも思えなかったのだが、

 ”お母さん。とにかく落ち着いてください。お医者さんはどうおっしゃって

  いるのですか? おかあさんがしっかりされないとこれからどんな展開に

  なっていくのかわかりませんから、しっかりしてください。 私は、明日

 必ず病院へ行きますから”と言うと、

 ”お医者さんはこれからどうなるかわからないと言っているので、

  もう心配で心配でしようがないから占いさんに見てもらったら、

  一応大丈夫だと言われた。”と言うのであった。

 ”お医者さんはいつでも最悪の状態もありうると言う事を想定して

 ものを仰るのですからご心配は要りませんよ。”と言ってっ電話をきったが、

 私なりにいろいろ想像してなかなか眠れなくなってしまった。

 翌日いろいろと考えてお見舞いの品を持って茅ヶ崎から横浜の病院まで出か

けていったが、部屋番号を聞いてあたふたと廊下を歩いていくと、なんだか

聞いたことのあるような男の子たちの話し声や笑い声が部屋の中から聞こえて

きたのである。

 なんと夕べ今にも死にそうだと言われたご本人がどっかとベッドに座り、友達と二人

で大口を開けて談笑しながらパンをかじっていたのである。

 私は自分の目を疑ったが、

 ”まあ、よかった。たいしたことないようで。夕べお母さんから、あなたが

死にそうだと言う電話をいただいてびっくりして飛んできたのよ。”

 彼は全く普段と同じように友達とおしゃべりを楽しんでいた。ただ足のくる

ぶし辺りを骨折して、ギブスがついていたが・・・。


 この親子さんからは時々びっくりさせられたものだったが、ご主人が亡くなら

 れた後には、お母さんからあれほど聞かされていた東大の話しは全くなくな

った。

 

塾の先生(4)

2010-07-24 09:15:02 | 思い出
 6年生の卒業が近づいていた頃、お隣の奥さんが、お願いがある

と言われたので、どうぞと言うと、ご自分のお子さんと、その同級生

の勉強を見てくれないかと言うことだったが、私は家具の仕事をやり

たいと思っていたので、鄭重にお断りしたのだが、人数が少なすぎる

と思われたのか、さらに人数を増やしてきたのである。

一年生のお嬢ちゃんと、二年生の坊ちゃん3人とお嬢ちゃん一人に、

5年生の男女一人づつだった。

仕方なく、1年だけと言う約束で受けてしまった。

私は子供さんたちに合わせて問題を作っていったが、子供さんたちが

勉強の楽しさを感じてもらえるようにしたいと言う事を何時も念頭に

置いていたのだが、私の家事以外は殆ど、塾の事で手一杯になって

しまった。

それでも、週三回の子供さんたちとのふれあいは楽しかった。

算数はまづ最初に四則計算「一年生は足し算引き算のみ)から始めて

ストップウオッチで各人のタイムをとり、毎回、自分のタイムと競わ

せることにしていたのだが、その後の声かけにも何時も注意を払って

いた。

何時も同じではいけないし、通り一遍の声の掛け方はするまいと思って

いたのである。 他のお子さんとの兼ね合いもあり、随分と気を使って

いたが、子供たちは楽しくやってくれていた。

四則計算が早くなれば応用問題にも有利だと考えていたのであるが、

子供さんたちはどんどん早くなっていった。

応用問題はできるだけ図を描いて考えるように指導していたのだが、

これが結構考える力になっていったように思っている。

 算数の後には数の遊びをやって、数と戯れるのが好きになるようにと

思っていろいろ工夫していたのだが、例えば、三桁の数字を、それぞれ

考えさせる。

その数字を裏返しと言うか一の位の数字を百の位に書き、真ん中はそのままで

次に、百の位の数字を一の位に書いて、最初に書いた数字から引かせるのである。

 後の数字のほうが大きくなれば、反対にして引かせる。


  私が出た答えの一の位の数字を聞いて三桁の答えの数字を当てるのである。

  種を明かせば、真ん中は何時も必ず9であり、一の位の数字と百の位の

  数字を足せば9になるのである。

  352 - 253 = 99  

  468 - 864  →    864- 468 =396

  何回もやったところで、種明かしをして、明日学校でお友達とやってご覧と

  言うと、子供たちは喜び勇んで、次の日学校でやってくる。

  暗算の勉強にも多少はなるし、楽しみにもなりお友達との交流もうまくいく

  と考えていた。

   国語は書き取りも必ずやっていたのだが、特に気を使ったのはアクセント

  と朗読で、何度も読んでしっかりと内容を把握して、さらに声を出す事で、

  文章が身体の中に入っていくと思っていたが、特に一年生のお子さんは

  表現力があって楽しかった。

  可愛いお子さんで、何でもよくできて、朗読も上手で、将来はどんな

  お仕事をするのだろうかと私の夢が広がった。

  時には男の子、女の子の顔型クッキー「泣いたり、笑ったり、怒ったり
 
  ウインクしたり)やケーキを焼いてお誕生会をやったり、クリスマスの

  会もやったが、リースはいろいろの綺麗な紙で包んだキャンデーを

  取り付けて玄関に下げ、帰りにはそれぞれ好きなものをいくつかとって

  いけるようにしたりしていたのだが、子供さんたちはとっても喜んでいた。

  期末試験でいい成績を取ってきて、成績簿が1から4まであがったお子

  さんがいたが、なんと、その翌週、その親御さんから月謝の値下げ要求

  がされたのにはびっくりした。

  月謝は当時3千円で、それ以上は掛からないようにしていたし、他の

  ところでは5千円と諸費用がかかていたようであったのだが・・・。


                (つづく)



塾の先生(3)

2010-07-22 10:03:55 | 思い出
 二学期になると、だんだん彼の学習の成果が現れはじめました。

 国語もいろいろ漢字を覚えたり、読解力も出てきましたが、

算数では、分数の足し算、引き算、掛け算と割り算まで何でもできる

ようになりましたし応用問題も少しづつ解くことができるように

なったのです。

高校生や中学生になっていた息子たちが、

 ”分数ってなかなかできない子もあるんだよ。○○ちゃん 

  すげえなあ!。”

と驚いていたのです。

 私は、期末の試験が楽しみになってきました。

ところが、或る日彼が返してもらった答案を持ってきたのですが、

以前よりぐっと成績が上がったと彼は喜んででいましたが、私が

見たら、できるはずのものが全く出来ていなかったのです。

 ”どうしたの、この間、こんな問題一緒にやったでしょう?

  あの時殆ど出来ていたのに何で学校へ行ったら出来なくなるの?

  おかしいでしょう?”

と、思わず私は畳み掛けて質問してしまった。

 ”荒武先生の前だと、安心するんだよね。だけど学校だとなんだか

  緊張しちゃって間違えちゃったんだ。”

(つづく)

塾の先生(2)

2010-07-20 11:24:44 | 思い出
 翌年の6月頃、私の4歳児のクラスにいた坊ちゃんとお母さんに

出会った。

何だかご縁があると言うのか、この親子には買い物途中でひょっこり

会うことが多かったが、何時も決まって、お母さんの口から出るのは

 ”先生聞いてくださいよ。 この子ったらどうしようもない馬鹿で

  本当に困っちゃいます。”だった。 

  ”お母さん。お子さんの前で馬鹿馬鹿言わないでください。

   子供さんの前で毎日、馬鹿馬鹿言っていれば簡単に馬鹿にする事

  ができると言うくらいですから、それだけはやおやめください。

  ○○チャンはIQも人並みですし、馬鹿ではないですよ。”

  それから暫く彼に対する愚痴が続くのだったが、その日はちょっと

  違っていた。

 ”先生、何とか子のこの勉強を見てやってくださいませんか。塾では

 とても駄目なんです。6年生ですからね。何とかがんばってもらわな

 いと。”と言ったのである。

 ちょうどその頃、私は家具を売り出そうとしていたのでそれはとても

 辛い言葉であったが、これは放って置けないと判断し、家に一度来て

 もらう事にしたのである。

 翌日、親子でやって来たのだが、子供さんに質問をしようとしたら、

 彼の方から

 ”先生11-2はどうやってやるのですか?”と言う質問が来た。

 私は一瞬聞き違いかと思ったが、彼はまじめそうな顔をしていたし、

 お母さんも何も言わずで、私はどう考えたらいいのかただもう

 びっくりしてしまっていた。

  これが6年生の質問か、私をおちょくっているわけではないのかと

 思ったりもしたが、何はともあれ、このまま放って置けない気がした

 のである。

 ともかく私が教えるしかないと思ってしまった。

 それからお母さんとお話しして、毎日私のところにできるだけ来るように

 と言ったら、

  ”この子はちょっと心臓に心配があるので、この夏休みには手術をしな

 ければいけないかもしれません。”といわれたので、

  ”身体の事が一番大切ですから、そんな時には何時でも仰ってくだ

  さいね。 後は時間がないから、毎日できるだけ頑張りましょう。”

 と言う事で、にわかに塾の先生をやる羽目になってしまったのである。

 とりあえず、算数と国語を見ることにして、毎日時間を計りながら

 4則計算をはじめにやらせて見たが、毎日毎日、彼はやってきて、午前中、

 3時間以上も頑張ったが、少しづつ向上していった。


 夏休みが終わりに近づいてきた頃、彼の心臓の手術はどうなっているのか

 と心配になり、お母さんに電話したら、

 ”だって荒武先生が毎日来いと言われるので行かれません。”

 ”エエーッ? いつでも行って下さいとお話しておいたではあり

 ませんか?心臓の手術をしないといけなかったのではないのですか?

 私はびっくりした。あれほど身体の方が大事だからいつでも休んで

 行ってくれとお話ししておいたのに、もし何かあったらどうなるのか

 と、びっくりもしあきれもしたのである。

 (つづく)



 





 

塾の先生(1)

2010-07-19 01:31:24 | 思い出
 ある年の暮れ、お隣の奥さんがちょっとお願いがあると言われて

家に来られたのであるが、彼女のお友達が緊急入院されてしまっ

たので、6年生の女の子さんの勉強を見てあげて欲しいのだと

言う事で、人手も借りたいような年末の大忙しの時に、お断り

したいと思ったが、ご病人さんがとてもお子さんの勉強を心配して

居られるので、少しでも安心させてあげたいのでと重ねて頼まれて

やむなく引き受ける羽目になったのであったが、お子さんに逢って

みると、おとなしいが、とても頭がよくしっかりしておられて、

その上とても可愛いお嬢さんであった。

入院はたった一週間や二週間ぐらいの事だと言うのに、どうし

てそんなに心配されるのかなあ。これだけしっかりしておられる

お子さんなら自習だけでも大丈夫だろうにと思ったほどであったが、

お母さんのご心配は年末に配られる成績表にあったらしい。

何でも、その前の学期に同じクラスで試験が同点だったお子さんが

相手は成績表で5を取り、そのお子さんは4だったそうであった。

私はなんとなくやりきれない思いに駆られながら、それでも、お引

き受けした以上は一生懸命勉強を見てあげようと思っていた。

算数、国語、理科、社会だけだったが、何とかお嬢さんはいい成績

が取れたらしかった。

私が見ていなくても大丈夫だったろうにと思ってしまったが、退院

後も教育相談は時々あるようになった。

 でも、ご相談があると言われてこられても、何時もその奥様が

決められた事がそのまま決定につながり、どんなアドバイスをした

ところで、彼女は頑として聞いては、くれなかったのである。

 何のために私の貴重な時間を使って下さるのかなあと恨めしかった

ものだ。

 中学に入ったらピアノをやめさせたいと思うと言うご相談があった

時にも、私は反対した。

そのお嬢さんのピアノはとてもお上手であったし、お嬢さんもお好きだと

聞いていたので、もっと続けさせてあげたかったので、私が保育科時代に

父や母が入院して精神的にも苦しかった時代にピアノの練習がどんなに

私を精神的に慰めてくれたかとおなお話をして、キットいつかお役に立て

ますよと言ったがそんなことをすれば成績が落ちてしまうから、いい高校

には入れないと言うお話で終わった。
 
外国には”All work and no play makes Jack a dull boy 。”

「がり勉ばかりじゃ 鈍くなる。”と言う諺がありますよとい言ってみたが、

何の効果もなかった。



 

私がとても心配したのは、下に坊ちゃんがおられたことで、同じように

がんじがらめにされたらどんな男の子が育つかと言う事だった。

ご主人様は本当に温厚そうというのだろうか奥様には頭があがらないと言う

もっぱらの噂があった。