私が工場へ動員されたのは二回で、第一回めは1944年の
森永の鶴見工場行きで、二年生だった。
この事は以前にもチラッと触れた事があったが、そのとき
のいろいろな事を少し詳しく書いてみたいと思う。
当時、私の女学校では一学年約300人が6クラスに分かれていたの
だが、学校の方針で、私たち生徒にできるだけ公平に動員の
作業をさせたいと言う事で、1組と4組を12月18日から翌年の1月31日
まで、2組と5組を2月一杯、3組と6組を3月一杯と言う風に順番に、
動員先へ送り出す事に決めたようであった。
私は1組だったので、最初に動員されたのだが、朝8時に工場へ出勤
すると、年のころは、50代後半かと思われる半分白髪の湯元主任
(男性)さんの朝礼での訓示があって、それからバケツに入ったお湯
が数箇所に置かれる。
暖房もない部屋のなかでの手作業なので、みんな手がかじかんで
作業がやりにくいので、最初にバケツの中のお湯で手を温めてから
作業が始まるのであった。
私たちの仕事は”元気食””航空耐寒食”の包装に関する仕事で、
下級生の私たちにはそれを入れる入れ物を作る仕事であって、
どんなものが”元気食”なのか、”航空耐寒食”なのか見たことも
なかった。
一日中立ってする作業だったので、なれていない私たちには大変な仕事
に思えたが、湯元主任は、女性は立っているのが一番健康によいと言わ
れたのである。
その頃すでにアッツ島の日本軍が玉砕した後で、サイパン島の兵隊
さんたちのために、一袋でも多くの食料を送らなければならないので、
頑張ってくださいと訓示された記憶がある。
(つづく)
森永の鶴見工場行きで、二年生だった。
この事は以前にもチラッと触れた事があったが、そのとき
のいろいろな事を少し詳しく書いてみたいと思う。
当時、私の女学校では一学年約300人が6クラスに分かれていたの
だが、学校の方針で、私たち生徒にできるだけ公平に動員の
作業をさせたいと言う事で、1組と4組を12月18日から翌年の1月31日
まで、2組と5組を2月一杯、3組と6組を3月一杯と言う風に順番に、
動員先へ送り出す事に決めたようであった。
私は1組だったので、最初に動員されたのだが、朝8時に工場へ出勤
すると、年のころは、50代後半かと思われる半分白髪の湯元主任
(男性)さんの朝礼での訓示があって、それからバケツに入ったお湯
が数箇所に置かれる。
暖房もない部屋のなかでの手作業なので、みんな手がかじかんで
作業がやりにくいので、最初にバケツの中のお湯で手を温めてから
作業が始まるのであった。
私たちの仕事は”元気食””航空耐寒食”の包装に関する仕事で、
下級生の私たちにはそれを入れる入れ物を作る仕事であって、
どんなものが”元気食”なのか、”航空耐寒食”なのか見たことも
なかった。
一日中立ってする作業だったので、なれていない私たちには大変な仕事
に思えたが、湯元主任は、女性は立っているのが一番健康によいと言わ
れたのである。
その頃すでにアッツ島の日本軍が玉砕した後で、サイパン島の兵隊
さんたちのために、一袋でも多くの食料を送らなければならないので、
頑張ってくださいと訓示された記憶がある。
(つづく)
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