80ばあちゃんの戯言

聞いてほしくて

パーテイ(1)魔法瓶

2009-04-30 06:37:17 | 思い出の北京
  1991年のこと
北京へ行った時、必ず一度は北京事務所の中国人の方たちをお招きしようと思ってお土産を用意して行ったのだが、夫が独りで住んでいたマンションには、器も魔法瓶も何もなかったので、まず、魔法瓶が欲しいと思って夫と専門店まで買いに行ったのである。

 その晩、念のため一度使っておいた方がいいかと思って熱湯をついだら、なんと魔法瓶の下から、ジャアジャアとお湯がこぼれ出したのである。いくらジャアだって、これではひどすぎる。北京にいると日本では考えられないことが次々起こってくるのだ。パーテイの日だったらパニックになっていたかもしれない。子供の時の戦争の御蔭で、こまごまと注意深く備えをするように育ててくれた両親の教育が今更のようにありがたく思い出された。

 ”明日換えてくるわ。”と夫に言うと
、”明日はどうしても一緒に行ってやれないけれど、一人で大丈夫か?”と、心配した。
 ”大丈夫よ。任せて。” と言うと、
 ”遠いぞ。”と言う。
 ”バスで行きますよ。覚えているから行かれるわ。”

 私はむしろ一人で行くことの方が嬉しかったのだ。せっかく一生懸命勉強してきた(???)中国語をためせるいいチャンスではないか。腕(?)がむずむずする。

 翌日魔法瓶一個を大事に抱えてバスに乗った。
 お目当ての店に行くと一人の女性客がいた。
 
 ”水が漏れるので、換えてください”と言うと女店員は何も言わずに、魔法瓶を分解し始めた。なんと魔法瓶の内側の瓶の上につくべきゴムパッキングが、そのガラス瓶の横についていたのである。先客のご婦人と顔を見合わせて笑い転げてしまった。
 
 勿論真新しい魔法瓶がすぐ出てきた。 女店員はついに一言も発せずに新品と交換してくれたのである。
 日本だったら、まずレシートとか何とか言われるのに決まっている。そうそう、そう言えば,レシートなんてもらっていなかったっけ。おおらかと言えばおおらか、気楽といえば気楽な国である。私はますます北京が大好きになった。



学徒動員(2)トンネル内での出来事

2009-04-29 07:39:21 | 戦争体験
 その日は海軍航空技術省支廠に通勤することになった第一日目であった。
朝5時頃から警戒警報が発令された。
 
 私たちは、警戒警報の時は任務に就け、空襲警報がなったら、家で待機せよと言われていた。

 その日はすぐには空襲警報が出なかったので、途中で空襲警報になって、防空壕を探してうろうろするよりは早く支廠に着いておく方がいいかと考えて、6時半に家を出て、黄金町駅に向かった。

 電車はまだ走っていたので、どこまで行かれるかなと思って乗っていたら、

”空襲になりました。次の杉田で降りて防空壕に避難してください”とアナウンスがあった。

 杉田は自分の通った小学校の近くの駅ではあったけれど、防空壕ができるようになってから降りたことがなかったので、右へ行ったものか左へ行ったものかわからず、まごまごしていたら、
”電車がとりあえず行けるところまで行きますので早く乗ってください”というアナウンスがあったので、慌てて乗り込んだが、結局金沢文庫で降ろされてしまったのである。

 支廠は金沢文庫から金沢八景までの長い間口と釜利谷の山の方までの奥行きを持った広大な工場群であったので、金沢文庫の駅前と、金沢八景に入口があって、それぞれに番兵が立っていた。

 私の部署は金沢八景の入口から入ってやや暫く歩いていったところだったが、その日は文庫側から入って斜めに行こうと思ったのである。

 門を入ると、駆け足で行けと言われたので、駆けていったが、疲れて歩き出したら、工場の入口の番兵から”駆け足”と号令が掛かり、仕方なく駆けたのだが、また歩くと、再度駆け足の号令。栄養失調の私には辛くてとても長い道のりだった。

 その日も一日空襲だった。

 次の日母にどうしても行ってくれるなと泣きつかれた。行かなければ、憲兵に捕まって大変なことになると心の中では思いながら、それでも、またここから逃げなければいけない時には、母の体調がよくなかったので、私がいなければ困るだろうと思い、また、どうせ死ぬなら、家族一緒でという思いもあったので、家を出ることができなかったのである。

 その日の空襲では、京浜急行の富岡のトンネル内に避難していた電車があった。
そのトンネルの両側の入口に同時に爆弾が落ちて、その爆風で、電車内の大勢の乗客が、飛ばされて、トンネルに貼りついたままの形で亡くなった。

 後日友達から聞かされた話だが、もし、私がその日出かけていたら、もしかしたら、京浜急行の富岡のトンネル内で起こった大惨事に巻き込まれていたかもしれなかったのである。


機銃掃射

2009-04-28 08:06:46 | 戦争体験
空襲で焼け出された後、父の親友のご好意で、日の出町の山の上の防空壕に住まわせていただいたことがあった。防空壕と言っても、ちゃんと大工さんが建てた新築の家のような、防空壕としてはしっかりとした立派なもので、13の階段を下りて行くと畳が4枚か敷いてあった。その上に家があって土間と6畳とがあってさらに簡単な炊事場があり、トイレは外の少し離れたところにあった。その上の6畳の方には親友の親類の方とそのお父様が住んでおられて、昼間は息子さんは仕事に出られるので、おじいさんの面倒を見て欲しいと言うことと、空襲の時は下の防空壕に一緒に入るということで住まわせていただいたのである。

 今では考えられないであろうが、焼けた後人々がみんなどこかへ行ってしまって、当時日之出町の山の上にはその家一軒だけがあった。 多分その両隣の山の上にも一軒づつしか家はなかったようで、何か配給物があるときには、向こうの山の方から、”おーい、練炭の配給が○○であるから、取りに行ってください。聞こえたか?”と連絡が入ると、”ありがとうございました。”と返事して少し歩いていって、反対の山の方へ向かって同じことを叫ぶのである。
 
 たまたま外出の時に空襲にあい、近くの防空壕を見つけて入ったりすると、高射砲の陣地がすぐ近くにあったので、地響きがして、頭の上から土がぱらぱらと落ち、白い人骨らしきものの破片がいくつか転がっていた。
 
 ある時空襲になり、みんなで防空壕に入っていたら、一番下の弟が”おしっこ”と言い出した。 頭の上では高射砲がうなっていたので、すぐ近くに敵機が来ていることは間違いなかった。もう少し待てないかと言ったが、小さい子のことで、もう我慢ができないと言って泣くので、私が抱っこして、外へ出た。一、二歩行きかけたところで、敵機の銃撃を受けた。びっくりして、13階段を転げ落ちるようにして防空壕に入り難をのがれたのだったが、階段を踏み外すこともなく、二人ともどこも階段にぶつかりもしていなかったので、今でも神様が守ってくださったとしか思えない。 空襲が終わってから、外へ出てみると、私の足跡から約1メートル20センチぐらいしか離れていないところに弾痕の一つがあったのである。
今でも、その時敵の飛行士と目が合ったような気がしてならない。
 
 後でわかったことだが、その飛行機は黄金町の駅にいた人々を銃撃し、多くの死者を出して、さらに日の出町の山の上に向かって高度を上げてきたP51戦闘機であった。P51は小型で小回りのきく飛行機だったのである。

学徒動員 (1)

2009-04-27 09:35:31 | 戦争体験
学徒動員というと、神宮外苑で、文科系の大学生、専門学校生が行進し、女子学生が大勢スタンドで旗を振ってお見送りをしている風景が、何度かテレビで放映されているので、思い出される方も多いだろうが、実際には小学生から戦争への狩りたては始められていたのである。 私の弟は6年生の時、民間の航空学校を受験した。受かれば、即、海軍か陸軍に配属されると言うことであったらしい。

 中学校には少年飛行隊員募集の大きなビラが貼られていた。
 
 私は女学校の2年生の12月18日から翌年の1月末まで森永工場で、戦地の兵隊さんに送るための元気食、航空耐寒食の包装関係の仕事をさせられていたのである。その後は学校へ戻って、看護婦さん用の毛糸のパンツを編まされたり、軍人の肩章作りをさせられたりした。
 
 3年生で横浜の大空襲にあった後、6月末から、海軍航空技術省支廠に学徒動員された。男子工員が、応召されて使う人がなくなった作業台を使って、女子学生に作業の手ほどきをしようとしたらしい。それも、男女の背の高さを全く考慮せず、大人の人にあった高さで、台に万力で取り付けた鉄の円柱を削らされたのだ。どう考えたって、背の低い者がやれば、円柱の表面を平らに削ることは至難の業である。どうしても、手前が削れるだけで平らには削れないのであるのは道理だと、私はいつも思っていたが、それを言うこともならず、いつも叱られていたのである。
 確か3時頃に5分くらいの休憩があったが、みんな疲れて、テーブルにもたれて寝てしまう。休憩が終わった後、顔に寝皺などがあって、”女の癖に”と叱られていた。

 私は一度だけ、海軍少尉殿から、魚雷の図面を見せられて、その図面の読み方を教えられたのである。 戦争がもっと続いていれば、私も、人殺しの何かの器械に携わったいたのかもしれないと思いうとぞっとする。

 その翌日は朝からずっと空襲が続いていて、私たちは、防空壕へ逃げろと言われ、釜利谷の山の下に掘られた防空壕兼工場に案内された。そこにはびっくりするほどいろいろと器械が置かれていたのである。
 それでも、そこは学徒用の場所ではなかったということで、午後からは、また、元の工場に戻された。飛行機が頭の上に来て高射砲がうなり、機銃掃射の音がし始めると、工場の外にあった土管の中へ逃げ込むのであった。工場の屋根に何か落ちて大きな音をたてている中を走るのだ。一応防空壕と言われてはいたが、もし近くに爆弾が落ちれば、爆風で完全にやられただろうと私は思っている。

 その日アメリカ軍飛行機から、降伏を促すようなビラが一斉に撒かれたのであるが、すぐ、兵隊たちがそのビラを集めに来て持っていった。
 
 終日空襲に追われた日であった。

 翌日の午後面会人が来ているというので行ってみると弟が待っていた。
”母の体が弱いし、小さい赤ちゃんがいるのでので、配給のものを取りに行かれないから、家から通勤するようにしてもらいたい。”というのであった。

 その翌日は朝5時から警戒警報が鳴り、それでも、私は通勤したのだが、母にひどく心配され、もう行ってくれるなと泣かれて、翌日から工場へ行けなくなったが、心の中は複雑だったのである。
 
 何故かといえば、工場をさぼれば、国賊とみなされて憲兵に捕まって大変なことになると言う噂を聞いていたからだ。
 母に言うこともならず、”忠ならんと欲すれば、孝ならず。孝ならんと欲すれば忠ならず”と嘆いたと言う楠正行を思い出していた。 つづく

横浜大空襲(4) 父を尋ねて

2009-04-26 08:22:37 | 思い出
 5月31日。朝早くから、中学校2年生の弟と私(女学校3年生)と、父の安否を訪ねて浦島が丘小学校まで出かけることになったが、伯母たちのご好意で、女学校4年生の従姉も一緒に来てくれることになって、水筒やら、少量の食べ物を持って出かけた。
 焼け跡の熱のせいか暑い日であった。焼けて何処も彼処も乾燥しきっているのだったのだろうか、土埃りがすぐに舞い上がった。
 何十キロ歩かなければいけないくかもしれないと思いながら、埃っぽい道を父を思いながら、殆どわき目も振らずにもくもくと歩いていった記憶がある。
 ところどころに市電の焼けこげた車体が立ち往生していた。焼けた車もあったのだが、当時はまだ荷馬車が車道を走っていたので、その馬が焼け死んでいたのも目にしていた。
 父の部隊は浦島が丘小学校から消えていた。一時は途方にくれたが、尋ね尋ねてやっと子安小学校で再開することができた。
 そこで、父が、大麦の少し入った大きなおにぎり一個づつと、冷凍のサツマイモやみかんを持ってきてくれた。民間では手に入らないようなものばかりであった。第一冷凍品なんていうものがあることすら知らなかったのだ。どれもびっくりするほどおいしかったが、とりわけ記憶に残ったのは冷凍サツマイモだった。確か太白と言う種類だったのだと思うが、中身が白くて、なめらかで上品な甘みがあった。しばらく口にしていなかったアイスクリームを思い出したのである。これは余談だが、アイスクリームとも違ったおいしさがあって、どうしてもまた、食べてみたいとずっと思っていたのだが、今もってお目に掛かれないでいる。
 父の部下の軍曹さんたちがトラックで中央市場まで行くので、そこまで乗って行ったらどうですかと言ってくれたので、大喜びで乗せてもらった。

 それから、横浜駅まで歩いていくと、駅前の広場に出た。
 
 駅を背にして見た横浜の風景は当時は数少なかったビルの焼けた残骸と、焼け跡のところどころひょろひょろと立っている焼けぼっくいがずっと続いていた。良く見ると、なんと、その奥の方に垣間見られたのは海であった。それほどみんな焼けてしまっていたのだ。美しかった横浜がこんなになってしまったのかと言う思いで呆然としていたら、”おーい。花園橋まで行く奴はいないか?乗せて行ってやるぞ!”と大声で叫んでいる小父さんたちがいた。困った時は助け合いと言う気持ちがとても嬉しかった。地獄で仏とはこんなことかと思って、心から感謝しながら乗せていただいたのである。
 今思えば、本牧の大里町から子安までの往復は栄養失調の私たちにはそう楽ではなかったはずであるが、それよりも、優しい人々の心に触れられてありがたかった思いの方が忘れられずにいるのである。

横浜大空襲(3)伯母の機転

2009-04-25 14:00:10 | 戦争体験
伯母は、もし空襲があったら、関東学院の山へ逃げるからと口癖のように言っていた。
 ところが、伯母は其の日の風向きを考えて急遽、反対方向である川の方へ逃げようと判断したらしい。
 京浜急行の黄金町の駅の近くを流れる汚いどぶ川に浮んでいた筏の上に小学生の従妹と私の妹をのせ、上から毛布をかぶせ、伯母と其の長女の二人で胸まで川につかりながら、どぶのような水を毛布の上から掛けたり、自分たちも防空頭巾の上から泥水をかぶって助かったのだった。 汚い川に入るのをためらった人々は両岸の火の熱さで亡くなったとか。猛火の中では風が渦巻いていたらしい。右から風が吹くと、いっぺんに数十人の人が倒れ、反対の風が吹けば、また数十人が一辺に倒れて亡くなると言った有様だったそうだ。川の両岸には、黒焦げの人の山ができたそうで、痛ましい限りである。
 伯母たちはなくなった人々をあるときは跨いだりしながら近くの学校へ逃げ延びたとか。 関東学院の方へ逃げた方たちは殆ど全滅だったと聞かされて、伯母の機転がなったらと思うとぞっとしたのである。

横浜大空襲(2)防空壕

2009-04-20 10:07:23 | 戦争体験
ご近所の家の防空壕は殆ど全滅でした。ある家では防空壕に直撃弾を受けて跡形もなく焼けてしまい、別の所では中が蒸し焼きになっていたのです。我が家の防空壕だけは父の考えが効を奏して何とか無事でした。
 防空壕は岩さんと言う祖父の家にいつも出入りしていた植木屋さんにお願いして作ってもらっていたのですが、海岸の近くでしたので、少し掘れば海水が出て、いつも中がじめじめしていました。其の頃のことですから中は全部木でできていました。
 L字型で、出入り口が2箇所あり、木製の戸がついていました。片方の戸は約70度以上の傾斜に作られていてもう一方の戸は、地面より約10センチぐらい高く地面と平行に平らにできていたのです。
 壕の中には畳が一枚敷いてあり、小さい箪笥がはめ込みになっていて、その横には棚ができていました。床の下には物入れがつくられていましたが、箱に入れて文房具を入れておくと、すぐ湿ってしまい時々干さなければいけないくらいでした。 
 両方の入り口の下の階段の角には大きなお釜とバケツが一ヶずつ置かれていて、いつも満々と水がたたえられていました。

 横浜には5月29日の前に空襲が何回かありましたが、4月の末のある夜、高島町方面が焼かれてたことがあったのです。
 その時、父は屋根に上がり状況を双眼鏡で見ていましたが、私と弟に防空壕の傾斜している方の戸を封鎖してしまうように命じて部隊へ出かけて行ったのです。

 父の考えでは、戸の上に古畳をのせ、其の上に土を30センチかぶせておけば、
おそらく大丈夫だろうし、さらに畳を燃えにくい状態にしておくために、毎日水を掛けて中迄水が浸透するようにしておくといいかもしれないということでした。
 
 毎日水を掛けた畳はずしりと重くて、しかも裏側の藁が弱っていたのです。
傾斜している戸の上に乗せようとしてひっぱると、藁が切れてしまい持ち手がなくなるのです。二人で両端を持って掛け声を掛けながら少しづつ上げていきました。女学校3年生の私と中学2年生の弟、しかも栄養失調気味の二人には過酷な仕事でした。
 どうやら畳を載せ、其の上に土を30センチ盛ったのですが、これが又中々大変で、少しづつ盛った土を叩いて固めながらまた、のせていくのですが、何時間もかかってやっと封鎖することができたのです。でも、後で考えれば、もしこのことをしていないで、当日にやったなら、私たちは完全に焼け死んでいたと思いますし、戸をそのままにして逃げていたのなら、防空壕は焼けてしまっていたでしょう。
ご近所に家を守って逃げない焼死された方々もあったのです。
で、5月29日には平面の方の戸だけでしたので、かねてから近くに用意してあった物を使って、割と時間をとらずに封鎖が出来て逃げられたと言うわけです。

焼け跡に戻ってきて、戸を開けた時には、中から熱風が出てきました。お釜やバケツには口切いっぱい水が入っていたはずなのに、水は1滴もなく、普段はあれ程、じめじめしていたのに,嘘のようにすべてが乾燥してからからでした。

其の時学校で袷の羽織の縫い方を習っていたのですが、お袖だけ縫い終って防空壕に入れていたので、それだけが焼け残りました。(つづく)

横浜大空襲(1)

2009-04-19 07:42:42 | 戦争体験
1945年5月29日。(1)
 その日は快晴でした。朝早くから警戒警報が鳴り、常置将校(応召されたが、時々交代で家に帰る)だった父は、すぐ、軍服やゲートルを身につけて部隊へ戻りました。弟はその日は学校へ行ったのですが、先生がバス停に待っておられて今日は危ないから、すぐ帰宅せよと言われて帰ってきたのです。
 私にはなんとなく、そろそろ横浜に大空襲がありそうだと言う予感がありました。
 ラジオのニュースでは、敵B29. 500機の大編隊が太平洋上にあり、目下北上中と放送されたのですが、すぐ後に、B29の編隊は進路を変え、西に向かう模様と言うアナウンスがあり、今日は名古屋か関西方面かなと思っているうちに空襲警報に変わり、もう、その時すでに頭の上で、B29の轟音が鳴り響いていたのです。
 大音響とともに地響きがして、その後バリバリッと言う音に変わりました。お隣の木の塀が、メラメラと燃え、一瞬のうちに柱だけになっていました。
 一軒おいた隣に伯母たちが住んでいたのですが、”フミちゃん逃げなさい!”という伯母の叫び声が聞こえました。
 いざとなったらこうするようにと父に言われたとおりに、弟と一緒に防空壕を封鎖し逃げたのです。一番下の弟は、まだ小さかったので、母が背負い、私は父が背負うことになっていた大きいリュックと、水筒を持ち、4人で家を出て行くと、伯母と従姉が出てきたので一緒に海岸の方へ逃げていったのです。
途中、あちこちのお宅の前に必ず備えることになっていた防火用水の水を防空頭巾の上からかぶりながら走っていったのですが、道の両横にはもうすでに火がちょろちょろ燃え始めていました。
 振り返ると、天空高く数え切れないほどの多数の焼夷弾だばらばらと落ちてくるのが見えました。海岸には多くの人々が逃げてきていて、引き潮だったのですが、そこを右へ行こうか左へ行こうかと右往左往していたのです。その時なんと思ったのか、ある女学生が真っ赤なかい巻きを引っ掛けて沖の方へ歩いていったのです。
赤はもっとも目につきやすい危険な色とされていました。私の隣にいた消防団員のおじさんが、”そんなもの捨てて、こっちへ逃げて来い”と叫びました。
 そうこうしているうちに一緒にいたはずの伯母の姿が見えなくなりました。従姉が泣き叫んでいたので、私は夢中で伯母の姿を探しました。運良く伯母が現れて事なきを得ましたが、一時はどうなることかと思いました。
 そのうち敵機は引き上げていったので、私たちは家のあったところへ戻りました。家は焼け終わってただくすぶっていましたが、物置に積んであった練炭の山が赤々と燃えていました。机のあったところには辞書が焼けて、そのままありました。そばにあった黒く焼け焦げた棒切れで、そっと表紙をめくってみると、字が光って読めるのです。なんとも悲しくてたまりませんでした。何とか持って行きたいと思ったくらいです。(その頃には本や文房具は中々手に入りませんでした)(つづく)

シンゴニューム

2009-04-16 15:25:07 | 思い出の北京
1991年1月半ばのころのこと。

 初めて北京へ行って夫の住む国際貿易中心の南公寓(マンション)に着いた時、
(日本円で確か45万円ぐらいと聞いたように思うが)、中々しゃれた、どっちかと言えば豪華な部屋であったけれど、花らしい物が一つもなかったのが、なんともわびしくて私にはとても辛く感じられたのである。
 私の仕事の関係でどうしても夫と一緒に行ってやれなかったので、仕方がなかったのだが、それにしても花一つないのはさびしいと夫に言ったら、冬の北京で花なんて買えるわけがないと笑ったのである。
 その日の午後友諠商店へ行って花を探したのだが、看板に花とあった所に花らしいものはなく、隅の方にバケツに無造作に入れられたイネ科(?)の雑草を乾燥させた様なものに薄くピンク、青、白、黄色などに色付けしたものがほんの申し訳程度におかれていたのである。日本円に換算すると、確か一万二千円ぐらいだと言うので、高いというと、日本から輸入しているのだから高いのだと言われてしまった。
 そんなものでも、ないよりはましかと思って買ってしまったのだが・・・。
 
 玄関の正面のちょっとしゃれた棚に飾ったら、何とか、家が明るくなったような気がしたが、それでも、何とか生きた植物が欲しいと言う気持ちがぬぐいきれなかった。
 
 数日後、夫が会社へ行った後で、一人で、花探しの旅(?)に出ようと考えた。
夫の住んでいた国際貿易中心と言う地区は、貿易センター、ホテル、マンション、展覧会場の建物などがあり、近代的な美しいビル群で、衛兵が入り口には立っていたが、不思議なことに裏側には囲いもなく、出入り自由であって、何のための衛兵だろうかと首を傾げたくなった。
 その裏の方は寂れた街並みが続いていて、そんな所へは多分夫も行っていないだろうと思って、そちらへ行くことにしたのである。人通りも殆どなく、無駄足は百も承知と思って行ったのだが、すぐ花と云う看板を見つけた。でも、ガラス戸が閉まっていた。そのガラス戸は所謂すりガラスというのだろうか、白っぽくて、中が全く見えないのであった。
 日本の花やさんで戸が閉まっていれば、閉店中であり、オープンしているときにはガラス戸は勿論開けっ放しで、道路にも所狭しと花々が並べられているのだが・・・。
エイッ。あたって砕けろと、戸をノックすると、三人の男女が顔を出した。
恐る恐る、"花を買いたいのですが・・・。”というと、どうぞと云うので、入ろうとすると、すぐ目の前に高さ1メートルぐらいの台があって、その上にシンゴニュームの鉢が3個置かれていたのである。それがその店の花のすべてであった。
何号鉢と言うのだろうか、確か直径12センチぐらいの小ぶりの鉢で、生育状況はお世辞にもよいとは云えない代物であったが、ここでは貴重品だと思ってありがたく
買わせていただいた。 

 夫も唯一の植物だから大事に水遣りをしていてくれたらしい。何日も出張の時には水遣りについて相談の電話があった。
 有難いことにそのシンゴニュームはすごく丈夫で二週間も留守の時でも、鉢皿に水さえ入れておけば、夫の帰りを元気に待っていてくれたのである。
 残念ながら、夫は他界してしまったが、シンゴニュームは約20年たった今日でも
元気で、私と同居してくれている。

絵本袋

2009-04-15 17:36:15 | 教育
約40年も前のことである。
私は幼稚園の先生として、4歳児を受け持っていた。
6月の長雨の続いた後の、気持ちよく晴れあがった朝のことであった。
園児たちは、エプロンをつける時間も惜しいような感じでお庭に飛び出していって、お砂遊びに夢中になっていた。
 ところが、一人だけ椅子に坐って外に出ようとしないお子さんがいたのである。私は不思議に思って近づいて行き声を掛けた。
”ねえ、お外へ出て、みんなと一緒にお砂遊びをしましょうよ。”
”僕、行かなーい。” 良く見ると、彼はひざの上に絵本袋を載せて、いかにも大事そうにそれを撫でていたのである。
"夕べ、お母さんが寝ないで、僕のためにこれを作ってくれたんだって”
”あら、よかったわね。可愛い刺繍がついているじゃない。お母さんにありがとうって言えたの?”といいながら、私は胸がいっぱいになって両手で彼を抱きしめたのである。
 幼稚園の方から、絵本袋を手作りしていただくようにお母さん方にお願いをしていたのであるが、彼のお母さんはご商売をして居られたので、中々暇ができなかったのだろう。他のお子さんたちが、絵本袋を持ってきて、可愛い刺繍やアップリケを自慢げにみせあったりしていたので、私はとても気になっていた。

 "お母さんありがとう。彼はとっても喜んでいますよ。ご苦労様”と、私は心のなかで叫んだのである。
 もしかしたら、親子の情ってこんなことから育つのではなかろうか?