80ばあちゃんの戯言

聞いてほしくて

北京国際貿易中心

2009-06-30 08:44:55 | 思い出の北京
1991年の話

 国際貿易中心には、はっきりとした囲いはなかったようであるが、それでも入口らしきところには、衛兵が立っていた。 貿易関係のオフィスやら、展示会などを開ける催し場もあり、高級ホテルも備わっていた。宴会場だとか、ショッピングセンターもあったのである。又、さまざまな国から来ている人たちのための高級マンション南公寓、と北公寓があった。

 敷地内の数箇所の道路に30センチ幅ぐらいで、高さ20センチぐらいの盛り土が道路を横断するように造られていて、これはスピードを出させないための物だそうだった。


 夫の住んでいた南公寓は香港の会社が設計を担当し、広々とした住空間と快適さ
そして、豪華さを実現し、各室を構成するハイクオリティな家具はシンガポールから、多機能的なキッチン設備はイギリスから、又、ランドリーなどの衛生設備はイタリヤから取り寄せたと言うことで、なかなかすばらしいものであった。

 当時のお金で月額42,3万円だったそうな。。

 

 

外国での暮らし

2009-06-29 18:12:37 | 思い出の北京
1994年頃の話                        

 天安門広場に沿って東西に走る大通りがあり、その道幅の広さには驚いたが、いざというときには飛行機が離着陸できる仕組みになっていて、その通りの地下を南北に渡れる秘密の道とともに政府のお偉いさんが、脱出できるように、造られていると言う話だった。

 外国で暮らす日本人は何時でもいざと言う時のためにパスポートを常日頃膚身離さず持っているということも聞いた。その緊張感は大変なものだろう。又、会社から、お一人だけ派遣されてこられて日本語を話す機会もなく過ごしておられる方もあるのではないだろうか。

 明日は私が日本へ帰らなければならないと言う日のお昼過ぎのことだったと思う。良く晴れた日で、確か友諠商店の近くを夫と二人で歩いていたら、お若い、と言っても30代後半ぐらいのお年の方だったと思うが、なんとも懐かしそうなお顔で声をかけられた。

 ”日本の方ですか?” 私が”ええ。”と答えると、

 "どこかこの辺にタバコを売っているところをご存知ありませんか?”と、聞かれた。

 彼の体から、タバコの臭いは全くしなかった。

 多分、何か日本語がしゃべりたかったに違いないと、私は思っている。

 隣に居た夫のしかめっ面にそれ以上言葉が出なかったのだろうと思った。

 多分私は彼のお母さんぐらいの年だと思い、何か温かい言葉を掛けたかったのだが、午後の予定が詰っていることが頭に浮び、いい言葉があまり出てこなかったのである。

今でもなんだか申し訳ないような気がしている。もちろんお顔を覚えているわけではない。お日様を背に受けて立つその方のなんとなく寂しそうなご様子が目に浮んでくるのだ。

 反対に、大きな会社の方々は違った意味で大変なようだった。時々、友諠商店や近くのスーパーマーケットで見かけたグループがあったが、何時も奥さんどうし5,6人で集まって歩いている。なんとなく奥さん達の間の上下関係が気になるグループであった。

 傍を通った時に偶然耳に入った言葉に驚かされた。

 ご主人が上役なら、奥さんが、ご主人の下に働く人の奥さんに、用事を言いつけるのは当然と言った感じだったのだ。

                                                                


とぐろを巻いたうなぎ

2009-06-26 17:43:47 | 思い出の北京
1993年頃の話                        

 これは北京で人に聞いた話だが、中国のうなぎはとぐろを巻いているそうである。

 うなぎありますと看板に書いてあったので、注文すると、やや暫く待たされたそうな。

 いい加減に待ちくたびれた頃、テーブルに恭しく運んでこられたのは、とぐろを

 巻いたうなぎだったとか。




 蒸し器の中で白菜の上にうなぎを乗せ、長いこと蒸すのだそうで、うなぎの脂肪

分が抜けるのだろうか、あっさりとした白身のお魚みたいだったという。



98歳の壺

2009-06-25 15:25:27 | 思い出の北京
1993年頃の話




 今はもうなくなっているかもしれないが、北京に秀水市場と言うところがあった。

 大体簡単な屋台で、衣類を売る店が多かったが、少し中へ入ると、ちゃんとしたお店もあり、中でも、古道具屋さんのお店は楽しかった。

英語のしゃべれるお爺さんがいて、中々応対が上手で、時々ひやかしにいった。

 清の時代の黒っぽい壺で、私と同じ98歳の壺で大変いいものであると言いくるめられて(?)それを買ってしまったが、ついでに台もどうかと言われて猫脚の台も買う羽目になった。

 その壺は、叩くと、金属音がするので、多分鋳物だろうと思うのだが、黒い下地に彫りこみがあり、薄汚れてはいるが、乳白色で、上の筒型の部分には二匹の竜が向き合っている形で描かれている。

 下の方の半球の部分には、福と言う字が何十個か描かれていて、全部書体は違うが福という字であると言うことだった。

 古びた紫色の房がひっそりと首に巻かれていた。

 そう言う中国のものばかりを見ていると、とてもよく見えてしまって買いたくなるのだが、日本へ持って帰ってくると、なんとなく魅力が半減してしまうような気がするのは私だけなのであろうか?

中国の家具

2009-06-24 17:59:57 | 思い出の北京
1993年頃の話

 不思議でしょうがないのは中国の家具である。中国の人は本当に器用だと私は思っている。細工物にしても、どうやって作るのかなと思うほどいろいろ器用なことをやっている。

 それなのに、夫のマンションの洗濯室のま白い家具の引き出しを開けてみて驚いた。鉛筆を奥行きに向かって縦に入れたら落ちそうな穴が左端にあいていた。

 確か月42.3万円と聞いていた一見豪華な夫のマンションでのことである。

日本では、先ず返品ものであろう。

 マンションの説明書には、ランドリーなどの衛生設備はイタリヤから取り寄せたと、書いてあったが、簡単な作り付けの家具までイタリヤから輸入しているとは考えにくいがどうだろう。

  よしんば、イタリヤ製だとしても、中を確かめてみることはなかったのであろうか?

 私はそれ以来、家具売り場に通りかかると、一応どんな風か調べてみた。

微妙に左右の扉が、狂っていたり、扉の細工などが雑にできていたのであった。

 日本で応接セットを作っておられる会社の社長さんが、中国の応接セットを見に行かれて、あまりに雑なので、そこの工場を借りて作り、このように作れと言ったら微妙に小さいサイズの物ができてきた。問いつめたら、 少しでも皮を節約したかったのだと答えたそうだ。人間のサイズというものを考えなかったのだろうか? その辺が理解しがたいのである。

沖縄戦

2009-06-23 17:55:42 | 戦争体験
 今日は64年前に日本軍が沖縄での戦闘を終った日である。そして今なお、爆発の危険性のある不発弾による被害も続いているのだそうな。日本に返還された今日もなお基地問題で悩んでおられるのである。私は、この日になると胸がとても痛む。

 沖縄は日本の中で唯一土地の形が変わってしまうほど、艦砲射撃を受け、日米の白兵戦が行われたところである。

 と言っても、お若い方々には意味が分かりにくいかもしれない。

 艦砲射撃というのは、敵の軍艦から雨、霰のように、大砲の弾をひっきりなしに大量に、打ち込まれることで、 白兵戦と言うのは敵味方入り乱れての戦いである。

 沖縄では、散々艦砲射撃で攻撃した後、生き残っているものが少なくなってから米軍は上陸をし、さらに、防空壕の中へ爆弾を投げ込んだりしたそうである。

 防空壕の中で赤ちゃんが泣くと、同じ防空壕に入っている日本兵から、自分たちが危険だから、泣く子を殺してしまえとか、泣く子と外へ出て行けとまで言われたという話しだった。

 そして、集団自決用の手榴弾を渡されたり、それも無いものは海岸から身投げをするようにとか言われたと、伝え聞いている。

 当時の沖縄で活躍された姫ゆり部隊の女学生と、わたしはほぼ、同じくらいの年齢であったから、余計辛くてならないのであろうけれど、私が経験したいろいろの戦争体験よりも何倍もの大変な経験を沖縄の方々はしてこられたのである。

 私の父は、日本中はおろか、世界中を観光して回った人であったが、沖縄だけは物見遊山では行かれないと言っていたのである。

 何十年もたった今日では沖縄のためにもなる観光もよいとは思うが、きちんと沖縄の方々の戦争でのご苦労を胸に刻み、亡くなった方々へ敬意を表してから、ゆっくりと観光を楽しんで帰ってもらいたいと私は思っているのだが・・・。?

麦粒腫

2009-06-23 08:08:09 | 最近のできごと
 この間麦粒腫ができそうになった。俗に言う物貰いである。私は目のたちが悪いのか、こどもの頃からよく、ものもらいができたのである。

 小学校3年生の時には、横浜の病院で手術した経験がある。手術と言うと大げさだが、メスが入ったことは間違いない。

 以来何回も出来る。どうも寝不足が続くとなるらしい。 要するにB足りんである。

 何回もやっていると、前兆が分かる。 瞼のふちが異様に痒くなるのである。そこでビタミンBか総合ビタミンを摂ると、飲んでいる間はあまりものもらいができない。

 でも、一番効果的なのは瞼のふちを痒みが取れるまで、麺棒の綿を引っ張って、針先ぐらいの細さに尖らせたものを、熱湯にほんの0点1秒つけたものをちょっと指先でもう一度細く尖らせてつけると良い。 温度が高いほど効くが、火傷をしないように注意しないといけないので、小さいお子さんには薦められない。

瞼のふちにも長くはつけない。ほんの0,1秒くらいのものである。瞼のふちが瞬間熱くて火傷しそうだと思うぐらいでも火傷はしないのである。でも、それをすると痒みが全くなくなる。これを何回も痒みのある部分に繰り返す。若し痒みが残っているようならば、なくなる迄やらなければならない。それで、このときの物貰いにはならないこと請け合い。

 私の考えでは多分75度ぐらいがいいと思うが、75度につけたら、すぐ冷め過ぎてしまうので、沸騰したら火を止めて、3秒ぐらいおいた熱湯につけて、ちょっと指先でもう一度細く直してあてるぐらいが丁度良いと思う。(お湯の量にもよるので適当に)

 でも麺棒の先を,更に細くしたものは一回瞼のふちにつけると温度が低くなりすぎるので、小鍋にお湯を少々沸かして、いったん火を止め、冷めたら又火をつける方が良いと思う。

 あくまでもべたっとつけないで、針先のように細くなったものをほんの0.1秒瞼のふちの痒いところにつけるだけである。 火傷しないようにご注意。


 

エレベーターガール

2009-06-22 06:34:06 | 思い出の北京
1994年頃の話 

 雪がちらちらと舞いだした北京でのことである。

 中国人一家に招かれて夫と出かけたのであるが、 多分北京の郊外であったと思う。

 でこぼこ道をやや暫くタクシーに揺られていくと、建築中のマンション群の真ん中で下ろされた。

 こんな広いところで、お店らしい物もないようなのに、住民はどうやって暮らしているのだろうと思いながら、一階のエレベーターの前で待っていると、スーッと
扉が開いた。

 その瞬間夫も私も、仰天して固まってしまったのである。
 エレベーターガール(いや、おばさんかも)は、狭いエレベーターの中で、椅子に坐って、毛布やお布団をしっかり体に巻きつけていた。その布団の裾はエレベーター中を占領していて端の方に2,3箇所片足が入りそうな空間が開いていただけであった。

 エレベーターは、わりと小型で、間口150センチ、奥行きも多分同じくらいで、高さは約2メートル少々と言った感じであった。

 エレベーターおばさんは、殆ど表情のない顔つきで、

 ”どうぞ”と言ってくれたが、どうぞと言われても、一人で満員と言った感じで、思わず夫と顔を見合わせてしまった。

 かのエレベーターおばさんは少しも慌てる様子もなく、ゆっくりと、布団の裾をほんの少し引っ張って、少しばかりのスペースを作ってくれた。

 私たちは布団を踏まないように、壁に背中をこすり付けるよな感じで、少しづつエレベーターに入って行った。

 おばさんはあまりにも無愛想であった。ゆっくりと上っていくエレベーターの中で、私は、何とか、話しかける糸口を見つけようと思ったのだが、あまりにも驚いた為か、言葉が出てこなかった。

 11階まで行きたかったが、10階までしかエレベーターがないので、此処で降りて、階段を上れと言われて、まだ、建築中で、セメントの塊やらごみが落ちている階段を上がっていくと、ご主人が出迎えてくれた。

 彼は家中を案内してくれたが、2DKと言った感じで、バス、トイレつきだったが、トイレの扉は中国式で真ん中の半分だけ隠れるサイズのものだった。

 日本に留学しておられた家人は、 扉を日本式に変えるつもりだと言っておられた。

驚いたのはベランダで、ご主人について外に出てみると、ベランダの部屋側半分が真っ白いタイルの水槽になっていて、真っ赤な金魚がすいすい泳いでいた。

 真冬の北京では始終氷点下だと言うのに、11階の寒いところで、しかも金魚が冬眠もしないですいすい泳いでいるということにもびっくりした。
 
 ご主人が自分で作られたというそのタイルの流線型の水槽の見事さ、白いタイルと赤い金魚と緑の水草の取り合わせの美しさ、見事なものであった。勿論温度調節もご自分で工夫してつけられたのだろうが、そのすばらしさに私たちは感動した。

油餅

2009-06-21 07:42:48 | 思い出の北京
1994年の話

 北京で一度はどうしても食べたいと思いながら中々食べられなかったのが、油餅である。

 こどもの頃、母の読んでいた婦人雑誌に載っていた油餅の記事を時々思い出していたのだが、それは確か大連での屋台の食べ物だったと思うが、何せ70年も昔のことなので、記憶が間違っているかもしれない。

 母は、露天で売られているものは不衛生だと言う理由で一切買ってくれないし、ましてや、当時は戦争している相手の国の食品であったから、口に出来るようになるなんて思ってもみなかったのだが、約50もたってから、食べられる可能性が出てくるなんて、夢のようだと思った。

 しかし、今度は夫が駄目出しをしたのである。

 ”不衛生な。俺はくわない。”
 
 それで毎回先送りになっていた。

 でも、最後の北京行きになった時、私は固い決意で夫と対峙したのである。

 ”油で揚げてあるから大丈夫よ。”

 ”しょうがないなあ。一人で行って来い。俺は食わんから。”

と、しぶしぶ承知した。それでも、
 
 ”おい。入れ物は持っていけよ。”と、アドバイスしてくれた。
 
  万歳! 万歳! 万歳!

  油餅は北京の人たちが朝食に食べる物である。 

 朝早く行かなければならない。持っていくタッパーやバッグを選び、目覚ましをかけて寝る。

 起きたのは5時半。目覚ましより早く起きてしまった。夫に送られて勇躍家を出た。

 早朝の北京は薄靄に包まれていた。

 よく見るともうもうと砂煙を上げている一角がある。なんだろうとよく目を凝らしてみると、その砂煙の中に、テーブルや椅子が置かれ、悠然と食事をしている男がいる。そのすぐ手の届きそうな所で、 店員らしき男が箒を片手に掃除中であった。

 "うへーっ!”

目が点になった。日本では想像もつかない光景である。

 そこいらには、角ごとにと言いたいくらい油餅の屋台が多くある。一生に一度のことだから、どうせならおいしい店で買いたい。

 ”すみません、何処のお店の油餅が一番おいしいですか?”

逢う人ごとに聞いてみた。

 ”二つ目の角の店で買え。”と、みんな同じ答えだった。

なるほど、そこは大勢人だかりがしていた。

 ”栄養豊富である”と、誰かが、教えてくれた。

 目の前で揚げてもらった出来立ての油餅を2個入れたタッパーを、しっかり手に持って飛ぶように家に帰った。

 夫の鼻先に、まだ温かくて、いい匂いのしている油餅をつきつけた。

 ”どう? おいしそうでしょう?”と誘惑してみたが、夫はパスした。

直径4,5センチ、長さ30センチもあろうかと思われる油餅を二個一度に平らげた。

  まあ、言ってみれば大きなドーナッツといった感じでおいしかった。

 中国の人たちは豆乳をつけて食べるのだそうであるが、私は素でいただいたが、大満足であった。

バス内での出来事

2009-06-19 19:10:12 | 最近のできごと
バス内での出来事

 近頃バスに乳母車ごと乗せられるようになった。

 其れはいいことなのだが、今日乗り合わせた若いお母さんには、全くはらはらさせられた。

 可愛い男の子さんを片手で抱き、片手で、乳母車を折りたたんで持っていたのであるが、まだほんの片言しかしゃべれないごく小さい赤ちゃんを椅子に一人で坐らせて、それから乳母車を前の荷物置きのようなところのパイプの手すりに引っ掛けたのである。

 それからご自分が坐って、赤ちゃんを抱いてあげるのだろうと思って見ていたら、ご自分はその前に立ったまま、携帯電話を取り出して右手でメールを打っているご様子。

 車が走り出して左手で乳母車が滑り落ちそうになるのを、時々直したりしてい
る。

 赤ちゃんを手で抑えてあげなければ、急停車した時に赤ちゃんは間違いなくすっ飛んで、前方に頭をぶつけるんではないかと思ってひやひやした。

 余計なことかもしれないが、万が一急停車でもしたらと思うといてもたってもい
られない思いで、注意しようかとすると、お母さんの左手が赤ちゃんの腕にそっと触れるのである。
 
 まあ大丈夫かなと思っていると、手が離れる。その繰り返しであった。

 この間は多分50代ぐらいのおばあちゃんが赤ちゃんを抱いて座席に坐っておられ、その隣に赤ちゃんのママが荷物を膝に坐って居られたのだが、おばあちゃんの抱いている赤ちゃんの傍に金属の柱が立っているのに赤ちゃんの抱き方がまことに無防備と言うか、見ている私からすれば、何時赤ちゃんの頭が柱にぶつかるかと心配になるような抱き方であった。

 携帯や自分達のおしゃべりにばかり夢中にならずにもっと急停車した時に赤ちゃんに事故が起こらないように気を配ってあげた方がいいのではないかと思ったのですが、全くの老婆心とお笑いでしょうか?