80ばあちゃんの戯言

聞いてほしくて

失業保険

2010-09-30 05:47:24 | 思い出
 私は生涯一回だけ約4ケ月失業保険を貰っていた事がある。

その時のことをふと思い出した。

私は長男を妊って約4ヶ月で会社を辞めた。

当時、失業保険は一年以内に半年分が支給される事になっていたのだが、妊娠の

ために退社したら、子供が産まれてから一ヶ月後でないと失業保険を請求

できない仕組みで、その支払い期間は一年以内であったから、私の場合は、

約4ケ月分も支給されない勘定であった。

長男は12月の30日に産まれたので、一月の末に失業保険のお役所に行って

どのようにしたらいいのかとお伺いを立てておいた。

失業保険所は間仕切りもない大きな部屋に小さい机が一列に並べられて、係官

がずらりと並んでいる。

その前に一人一人が呼ばれて坐ると仕事が紹介される。

あなたの前の仕事はこれこれだから、こんなところはどうですかというわけだ。

それで仕事が決まらなければ保険金が支払われるのだ。

ともかく大勢の人達がその前に何列も並べられた粗末な椅子に待たされている

のであった。

私は係官の対応を見るともなく見ていたのだが、一人の係官が目についた。

27,8歳の目つきの鋭い痩せぎすの男で、次から次へ、その前に並ぶ人に難癖

をつけては、ほくそえんでいるといった感じで、

”なんて厭な奴なんだろう”と思っていたら、何と、私が呼ばれたのは、その男

であった。

 ”ともかくあんたの場合は来月から請求できるのだから、この書類に必要事項

  を記入して持ってこい。”で終わったから、マア、何の問題もなく終わった

のだが、失業保険所で待たされている間、隣に坐っておられた奥さんが駅まで

歩いている間に声を掛けてきた。
 
 ”あなたの担当者、厭な奴でね、私なんか本当に早く働かなければいけないの

 に、何とかかんとか言いがかりをつけるのよ。1週間もらえなくてもこっちは

 生活がかかっているんだから本当に大変だわ。”と、ぼやいておられたのである。
 
  次の土曜日、私は妹に息子を頼み、いそいそと出かけていったのだが、

 また、運悪くこの前の男に当たってしまった。

 ”書類はちゃんと書かれているが、授乳していない証明書が付いていないから駄目

 だ”とい言われたのである。

 私は一週間前にあなたにお聞きしましたが、その時には、そのことは仰いません

 でしたよ。次回持ってきます。”と言ったら、次回それを持ってきたら支払い開始

 する。”といって反りくり返ってにやりと笑われた気がした。

 ”その授乳していないという証明書は誰に証明してもらえばいいんでしょうか?”

 ”こどもを産んだ産院で貰って来い”

 ”では、何時までに此処へ戻ってくればいいのですか?”

 ”土曜日だから昼までだ”
 
 ”12時までいいんですね?”と、私は念を押した。

 散々待たされていたので、12時まで一時間そこそこしかなかったので、タクシー

 なら何とか間に合うかもしれないと思って、急いでタクシーを拾い、

 産院まで行き、事情を話して証明書を作ってもらい、また、タクシーに飛び

 乗って保険所へ戻ってきた。

  ところが、会場の雰囲気は出かけたときとがらりと変わっていた。

 まだ数人は係官と話し合っていたが、中にはお弁当を広げている係官もあり、多く

 の係官は立ち上がって外へ出ようとしたいるようであった。

 私の担当の係官に、

 

 ”授乳していない証明書を貰ってきました”と言ったら、

 ”もう今日は終わりだから来週持ってこい”と言われた。

 私の脳裏に、この前帰り道、ご一緒したおとなしそうな奥さんのお顔が浮かんだ。

 よし、此処で私が頑張らなければと言う持ち前の変な侠気がむくむくと頭をもち

 あげた。

 ”だって、さっき私が何時まで戻ればいいのですかと伺ったら、12時だと仰った

 ではありませんか。まだ11時半少し前ですよ。それに官庁は12時までは仕事の

 はずではないのですか?”と、ちょっと大きな声を出してしまった。

 外へ出ようとしていた人達が私の方へ一斉に振り向いた。

 ”終わりだ。終わり!”と、彼が怒鳴った。

 私は落着き払って言った。

 ”そうですか。私はここの一番上の方とお話ししたいのでどこへ行ったらお目に

  かかれますか?”

  彼の顔は一瞬ひきつって、あわててどこかへ飛んでいった。

 やや暫くして、年配の人が出てこられて、

 
 ”所長は今日はおりませんので、私が伺います”と言われて、結局桜木町の他の

 事務所まで連れて行かれて、1週間分の1万5千円也を払ってもらって帰ってきた。

 
 
 次の土曜日、例の奥さんが帰りに私の側まで来られて嬉しそうに礼を言われた。

 ”あなたのお蔭で、助かったわ。あいつ、今日はおとなしかった。”

 二人で顔を見合わせて笑ってしまった。

昭和20年の思い出を語る会(26)

2010-09-29 05:25:43 | 戦争体験
Tさんのお話

 私は保土ヶ谷で焼け出されました。

母が半身不随でベッドにおりましたので、姉が母を背負って、私がバケツで水を

撒いて火を消しながら逃げ出したわけです。

前の桜並木も殆ど残って200メートル先はもう火が無いんです。 その辺りの

知人のお宅に一週間ほどお世話になり父の郷里の山北へ行くことになりました。

母が精神的に動揺しておりまして、私も姉達も横濱育ちですから、どうしても

残りたいと主張したのですが、病人の安全のためにもということでして。

汽車では無理なのでトラックを借りきって帰りました。

そして小田原高女へ移りました。 

その小田原高女に恩給局がそっくり疎開していて、そのお偉い部長さんの秘書

みたいな仕事をしていました。 それが勤労動員だったわけです。

ですから、そこでお偉方と一緒に玉音放送を聞きました。

ですけれど敗けるとは思っていないですから理解が出来なくて、唯、有り難く

首をたれながら伺った・・・・・・・・。

終わってから、同級生で中国から帰られた方に

 〔負けたのね〕と話しかけられ、半信半疑で帰宅して、父から事実を知ら

されました。 恩給局のお偉方は何も言わずに”解散”といって終わり。

父はかねてより

 〔国敗れて山河あり〕と申しておりました。あの頃金属類の供出があり

ましたが、父は物によっては否定的でしたので、非国民だと思ったりしまし

たが、矢張り父は私と異なる次元で、深くこの戦争について考えていた事を

知りました。

 それからの私は、唯々、第一高女へ帰りたい一心でした。

 〔以上原文のまま〕

 (つづく)

昭和20年の思い出を語る会(25)

2010-09-28 15:55:43 | 戦争体験
疎開   (以下原文のまま)

 私達は昭和18年300名で入学し6クラスありましたが、卒業する時は

5クラスですから、250名ぐらいになっていたかと思われます。

その50名の方の多くは疎開したまま地方に留まられました。

また、お戻りになった方もいらっしゃいますが、疎開先で体験なさった昭和

20年はどんな風でしたか?

  

Oさんのお話し

 長野県湯田中へ母方の祖母と疎開しました。志賀高原の麓の町です。

父の生家が中山晋平の出生地、現中野市新野にありまして、その縁故で遠縁

の家の離れを借りました。

隣に温泉の協同浴場がありましていつも綺麗なお湯があふれていました。

 知人宅から調達される食料であまり不自由な思いはしませんでしたが、

その度に衣類が持っていかれました。

道の両側の立派な温泉宿は、東京足立区からの集団疎開の児童で埋まっていまし

た。

皆、おなかを空かしていて、私共の庭にはいって、くるみや柿のみを拾っていま

した。

祖母がお芋のふかしたのをあげたりしていました。

 女学校は中野の町まで、長野電鉄の電車で15分程、疎開による転入生で各学

年1クラス分はふえていました。

 学校工場で柳こうりに軍隊色の布をかぶせふちかがりの仕事をしました。

開墾作業、学校田の田植え、稲刈り、勤労奉仕と殆ど勉強はしませんでした。

 長野市は空襲も受けていますが、山ふところの町でしたから、爆撃はされませ

んでしたが敵機の通り道らしく爆音におびえ、灯火管制はきびしくひっそりして

いました。

”ああ、東京が焼けた”、”横濱が焼けた”という具合で、東京が焼けたときは

山を越えた夜空が真っ赤に見えました。

”横濱が焼けた。もちろん我が家も”という情報に、祖母は愕然として、一晩で

髪がまっ白になったかに思えました。

恥ずかしい話しですが、8月15日の玉音放送はすっかり忘れて友達と川遊び

に行き戻ってきたらもう放送は終わっていました。新型爆弾の広島、長崎の後

少し静かでしたので、申し訳ないけれどのんびりした雰囲気だったのです。

 終戦後疎開生は次々と都会へ帰っていきました。私も無性に帰りたかった。

第一高女に戻りたい気持ちでいっぱいでした。ところがもともと心臓が弱かった

祖母がすっかり弱ってようやく春が来たというとき53才で亡くなってしまい

ました。

途方にくれて結局父の生家で暮らすことになりました。

すでに父は新京で病死(郵政官吏でした)。

帰国していた横濱生まれの母は弟をかかえ父の両親を見る境遇にありました。

引き揚げの叔父一家を迎えて一時は家族12人、田畑の仕事、水くみ、たきぎ

とりと馴れない手伝いは重労働でした。

でも今になれば地方の年中行事なども含め、楽しい思い出になっています。

重荷を負った母を残して、私は横濱へ帰る事が出来なくなりました。

  (つづく)

大関魁皇博之(4)

2010-09-26 17:43:43 | スポーツ・趣味
2010年3月場所で幕内通算在位がちょうど100場所を迎え、この場所も

8勝7敗と勝ち越した。

2010年3月30日、幕内在位100場所達成及び、幕内通算勝利数を更新

した功績を称え、日本政府は内閣総理大臣顕彰を魁皇に授与することを決定し

同年4月26日、総理大臣官邸で顕彰式が行なわれた。

2010年5月場所で十両以上の関取在位場所数が史上単独一位である111

場所となった。さらに同年5月場所千秋楽にて、琴欧州を左四つ右上手を引いて

寄り切り、大相撲史上二人目となる通算1000勝を達成した。

2010年7月場所前、大関琴光喜ガ解雇されたため、大関以上の地位で日本人

力士は魁皇ただ一人となった。しかし11日目から怪我のために途中休場、休場

中の7月場所14日目の7月24日に38歳の誕生日を迎えた。 翌9月場所は

13回目の大関角番となる。

初土俵以来20年以上にわたる現役生活、また、2000年9月場所に大関昇進

して以来、10年に渡り関脇に一度も陥落することなく大関の座を守り続けている。

また、2007年9月場所の番付で35歳の大関とな戦後最高齢記録を更新、

2010年3月場所には昭和以降の最高齢大関在位記録をも更新した。

〔従来は1932年10月場所能代潟の37歳6ケ月)。昭和以降の最高齢大関以上

在位記録〔36代横綱羽黒山ガ引退した1953年9月場所の38歳10ケ月〕にも

迫っている。

1999年に結婚、子供はいない。5歳年上の妻・充子は元タレントだが、タレント

になる以前は女子プロレスラーであった。そのためか女子プロレス関係者の中にも

ファンを有する。


 通算成績 (2010年7月場所終了) 注 :〔9月場所の8勝7敗が以下に加わります〕

   通算出場 : 1661回  〔歴代3位)

   幕内出場 : 1374回  〔歴代3位)

   通算成績 : 1006賞70敗158休〔通算勝ち星:歴代2位)

   幕内在位 : 102場所〔歴代一位)

   大関在位 :  60場所 〔歴代2位)

   非大関三役在位 : 32場所〔歴代2位)〔関脇21場所、小結11場所)

   対横綱戦勝利 : 36勝〔歴代2位タイ)〔曙 6勝、貴乃花12勝、

            若乃花2勝、武蔵丸7勝、朝青龍8勝、白鵬1勝)

            うち関脇以下で22勝しており、これは安芸乃島と並んで

            歴代一位タイである。

  
   各段優勝   幕内最高優勝5回〔2000年5月場所、2001年3月場所、

          2001年7月場所、2003年7月場所、2004年9月場所)

             最高位が大関以下の力士の中では優勝制度導入後史上一位


          幕下優勝 : 一回〔1991年7月場所)

          三段目優勝 ; 一回 〔1990年7月場所)


          三賞:金星  

           三賞15回〔歴代3位)

            殊勲賞10回〔歴代一位タイ)

            敢闘賞5階 

           金星 6個

              曙2個、貴乃花3個、若乃花1個
        




   (以上wikipedia 調べより)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  
   魁皇関が角番を脱出され、次の福岡場所でも活躍してくださるようで

   ほっとしております。日本の国技のお相撲が世界中の方から愛されている

   事はすばらしいと思いますが、柔道では金が取れているのに国技のお相撲が

   大関以上はお一人もいなくなったらさびしい過ぎますものね。

   

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 昨日は

大関魁皇博之(3)

2010-09-25 19:05:45 | スポーツ・趣味
2007年9月場所4日目の安馬〈後に日馬富士〉戦で、幕内通算706勝

を達成した。

この記録は67代横綱武蔵丸の706勝に並ぶもので、大関以下の力士とし

ては一番、現役の力士としては、もちろんダントツの記録である。

しかし、その二日後、右大腿の負傷を悪化させまたしても途中休場となった。

翌11月場所は2006年同様に再起をかける場所となったが、14日目で

勝ち越して11度目の角番を脱出、引退の危機から免れた。

勝ち越しが決まった瞬間には、観客はその日の結びの一番よりも大きな声援

を魁皇に送った。

2008年8月のモンゴル巡業では当時の横綱・朝青龍や、横綱白鵬など

モンゴル出身の力士以上の大人気ぶりだった。

2008年11月場所前、大関琴欧洲との稽古で右足を痛め、休場が濃厚

だったが、強行出場した。しかし三日目には若の里との取り組み中に左腕まで

痛めてしまい途中休場となった。

2009年一月場所は千代大海と並んで一位タイとなる、12度目の大関角番と

なった。進退を賭けて場所入りし、12日目に前頭三枚目・豪風を破って、

角番脱出、同時に引退の危機も乗り越えた。その後3連敗したため場所を

8勝7敗で終えた。その場所直後に虫垂炎で緊急入院、手術はせず薬で治療

したが協会の公式行事は休場した。

2009年11月場所で幕内在位98場所となり、関脇・高見山の97場所を

超える大相撲史上第一位の記録を達成した。

同場所三日目に把瑠都を破って史上三人目の通算800勝を果たし、九重親方

〔58代横綱千代の富士)は〔私の幕内807勝を超えて欲しい〕とエールを

送った。

さらに同場所10日目琴欧洲を押し倒しての勝利で幕内805勝を達成、

55代横綱・北の湖の804勝を超えて幕内勝利数が単独第二位の記録となった。

この年は2005年以降では最多となる年間48勝を記録した〔2005年が

39勝、2006年が40勝、2007年が44勝、2008年が43勝〕。

なおこの年はすべての場所で8勝7敗という記録も達成した。

2010年1月場所豪栄道に勝ち、19年ぶりに横綱千代の富士の持つ幕内通算

白星807勝に並んだが、この一番は魁皇得意の左四つ右上手だった。

そして三日目には、奇しくも九重親方の愛弟子で且つ長年共に大関として支え

あった千代大海戦が幕の内通算54回目の取り組みとなり、史上2位の記録で

あったが、〔対戦成績は魁皇の34勝20杯。幕内対戦の史上一位は武蔵丸対

貴ノ浪の58回〕この一番で千代大海は現役最後の相撲となり、翌4日目に

引退を表明した。

また13日目には2006年3月場所以来横綱白鵬を破り、白鵬戦での連敗を

17で止めて(日馬富士戦の連敗も止めている。)さらに14日目には稀勢の里

を上手投げで破って勝ち越し、そして千秋楽でも垣添を送り倒しで勝利、8場所

ぶりの9勝6敗で終えた。

 〔以上wikipedeia調べより)


(つづく)





大関魁皇博之(2)

2010-09-24 07:44:06 | スポーツ・趣味
1993年夏場所、20歳での新入幕を果たす。新入幕場所は大きく負け越して

十両陥落。同年九州場所に再入幕後には日の出の勢いで番付を上げ、1994年

春場所には曙を下し初金星、初の三賞受賞〈殊勲賞〉。翌夏場所には早くも

新三役となる。

1995年の初場所の新関脇場所からは実に13場所連続で関脇に在位

〈史上最長)し、その後も度々三役に上がり有力な大関候補として期待を寄せら

れるものの、足踏みする時期が長く続いた。

それでも大関昇進までに二度の優勝同点、4度の準優勝、史上3位の15回の

三賞受賞等を記録し、強豪力士の一人として曙、貴乃花全盛の90年代の土俵に

あった。

小結で迎えた2000年夏場所、14勝一敗で念願の初優勝を果たし、これが足

がかりとなって名古屋場所後についに大関昇進。大関とりでは武双山や千代大会

に遅れをとったが、大関昇進後は豪快な相撲で地力の高さを見せつけ、大関とし

て4度の優勝を経験、横綱候補の一番手だった時期もあった。しかし怪我の多さ

や精神的な脆さもあり、休場して綱取りのチャンスを無駄にしてしまうことも多

かった。

32歳となる2004年には円熟期を迎え、全場所で二桁勝利を記録。九月場所

には5回目の優勝を遂げる。4度目の綱取りとなる翌11月場所では、2003

年3月場所から続く日本人横綱不在に終止符を打って欲しいという期待が高まっ

た。

しかし12日目に3敗を喫して優勝争いから脱落。 それでも「千秋楽で横綱

朝青龍を破っての準優勝なら横綱昇進の可能性がある」との発言が押尾川審判

部長からあり、千秋楽への期待が高まった。千秋楽では万全の相撲で下し、横綱

昇進決定かと思われたが、結局昇進は見送られた。

翌2005年1月場所から2006年3月場所までは途中休場により翌場所

大関角番・角番脱出の繰り返しが続き、大関の地位を辛うじて維持すると言う

状況だった。

特に9回目の角番となった2006年3月場所では序盤から本来の相撲がとれず

負けが先行すると引退を示唆して、師匠の友綱親方と相談し負け越したら引退する

決意を固めた。しかし7敗してから踏ん張り。千秋楽に朝青龍と優勝争いをしてい

た白鵬を寄り切って勝ち越しを決めた。2006年5月場所以降は引退の危機を迎

えたのも一度や二度の事ではない。

(つづく)

 (以上wikipedia 調べより)





大関魁皇博之(1)

2010-09-23 09:16:30 | スポーツ・趣味
 ”満身創痍”という言葉、大関魁皇の取り組みの前にアナウンサーがよく

使う四字熟語である。

その魁皇関が、13回目の角番を迎えて昨日の時点で6勝5敗、把瑠都や

日馬富士を破っての事である。

後、二勝して欲しくて毎日応援しているのだが、もし今回勝ち越したら、引退と

いう噂を聞いてなんだか複雑な心境になった。

 ちょっとwikipedia で調べてみたので、ご用とお急ぎでない方御覧ください。



1988年三月場所で初土俵を踏み、同期に64代横綱 ”曙”、65代 横綱

”貴乃花”、66代横綱 ”若乃花”、和歌乃山,力桜等有望な新弟子がいて

花の六三組と称されていたそうである。


本名、古賀博之、愛称キンタ、生年月日 1972年7月24日(38歳)

出身 福岡県直方市、  身長185センチ、体重173キロ、

友綱部屋所属、得意技は左四つ、寄り、上手投げ、小手投げで、

番付は現在西大関、最高位は東大関である。

生涯戦暦 1,012勝675敗158休、135場所(昨日現在)

幕内戦歴 844勝556敗141休(103場所(昨日現在)

幕内優勝5回、幕下優勝1回、三段目優勝1回

殊勲賞10回、敢闘賞5回、金星6個(曙 二個、貴乃花3個、若乃花 一個。

初土俵1988年3月場所、入幕1993年5月場所

趣味ラジコン

市立直方第二中学校時代に柔道をしていたところその巨体から、顧問の教師に

相撲を勧められる。 その魁皇のためにわざわざ柔道・相撲部を作った。

その顧問の教師と相撲をとったところ。教師は片手で持ち上げられ非常に驚いた

という。その相撲部屋時代には他の部員たちが飲んだスチール缶の空き缶を片手

で潰して片付けていた。入幕前水道の蛇口が固くて回らないのを無理して回そう

としたところ、怪力のあまりに壊してしまったことがある。

入門前は元大関北天佑の大ファンで、二人とも(怪力大関)と言われている。


中学校卒業後に友綱部屋に入門し、1988年3月場所で初土俵を踏んで

1992年初場所で新十両、四股名を“魁皇”とする。


  
  (つづく)



 

昭和20年の思い出を語る会(24)

2010-09-20 15:53:53 | 戦争体験
被災しないのに家をなくした話

 ____空襲にも会わないのに家がなくなってしまったという奇妙な事が

あったのです。

建物の強制疎開というのがありました。

 

Yさんのお話

 逗子に住んでいました。

 空襲の生々しさも、人間が木炭になったのも何も知らないで呑気な話しの

 ようですが・・・・・・・・・・。

 私の家は駅から右へ276歩、つまり駅のすぐそばの商店街、商人です。

 父は自分の店が大層ご自慢でした。

 総檜造り、樋が銅製で、此の樋は供出させられて、雨が降るとジャージャー

 と音がうるさくて大迷惑でしたけれど・・・。

 百畳敷きの格天井、一枚板のガラス戸が8枚並んで、其の8枚のガラス戸が

 難物だったのです。

 終戦間際、駅を守るために駅周辺の家屋は建物疎開、私の家もそれにひっか

 かって立ち退きです。

 軍のやることはスピーディで、あっという間にみんな取り壊わされて私の家

 だけが残っている。

 その一枚板のガラス戸を大勢の兵隊さんがハンマーでガンガンやるのですが

 どうしても壊れない。従って家も潰れない。

 母はその通達があった時、いち早く数件先の薬局に交渉に出かけました。

 其の家はご主人が召集されていたのですが、建物疎開にはひっかかって

 いませんでした。

 (奥さん、ご主人は出征なさっているし、お子さんは小さいし、ここも建物

 疎開まであるようになりました。間もなく爆弾も落とされるでしょう。)

 とか何とか言って其の家を田舎へ疎開させてしまった。

 空いたその家に引っ越すことに決めた対応の素早さ。

  8月15日の朝早く、7時頃だったでしょうかキャタピラーをつけた軍の

 タンクがガッガッガッと7台も8台も来て、家の前に並んで太いロープをつ

 けて柱にゆわくんです。

 柱という柱は全部鋸がはいっていました。

 それで其のタンクが一斉にジワジワッと動いて家を引っ張るんです。

 ”ドシャーン”

 一気に家が潰れて物凄い埃、その埃が天高く舞い上がって何も見えない。

 5分だか30分だったのか、その埃が徐々に徐々に静まってくる。それを

 道の向こう側でジッと見つめていたのは父と私です。

 大体私の家は空襲警報が鳴ると父はこれも大自慢の防空壕の一番奥で、

 おひつなんか抱えちゃって

 「美代子,恐ろしいのぉ」

 なんていってる。

 母は防空壕の入り口で、”火たたき”っていいましたか、はたきの

 親分みたいの、あれを防火用水に漬けてしっかり持って、片膝立てて

 ハッタと空を睨んでいる、B29ぐらい叩き落としてやろうという

 気構えです。

 まあ、そんな両親に育てられた私ですが・・・・・。

 家は潰れました。

 父と私は呆然と立ちつくしていました。

 母は引越しした家で夢中で片付けていて、家が壊されるもヘッタクレも

 なくて、ひたすらこれからの生活の準備。

 本当にゆっくりと埃が治まってくると、あの日は実に天気が良かった。

 真っ青な空がだんだん見えてきて、もう秋の気配の白い雲がぽっかり

 浮かんでいて一本だけ残った大きな夾竹桃に毒々しいまで真っ赤な花が

 いっぱい咲いていました。

 8月15日、昭和20年です。二時間後の正午、玉音放送、終戦です。

 青い空と白い雲と夾竹桃の赤い花が私の終戦。まだ終わっていません。

  それから10年ぐらい経って広島に行きました。

 ”もう草も木も生えない”といわれた広島に白い夾竹桃の花がいっぱい

 咲いていました。

(以上原文のまま)

 (つづく)  
 
 
 

早起きは三文の徳

2010-09-19 12:23:50 | 最近のできごと
 子供の頃読んだ童話に"一打ち七つ”というのがありました。

ある時蝿だったかと思いますが、叩いたら、いっぺんに七匹も取れたので、


 ”一打ち七つ”と書いた旗をつくり旅に出たと言うのです。

先日庭で畑仕事をしていたら、左腕に蚊がたくさん止まっていました。

それとばかりに右手で打ってみたら、一度に9匹も取れました。

二匹も上を行っているのだから凄いなあと思わず一人で笑ってしまいました。

今年は特に蚊の数が多いのでしょうか? ほんの少し涼しくなった夕方

ちょっとの間に畑仕事をしようかと思って庭に出ると、直ぐ眼鏡の中に蚊が

入ってくるのです。他のところなら叩きやすいのですが、眼鏡の内側に

入られると叩きようがありません。

皆さんどうしておられるのかとお友達に聞いてみましたら、蚊取り線香を

たいたり、虫よけのスプレーを掛けたりしておられるようでしたが、私は

どうもスプレーは好きでないのです。蚊に悪いものは人間にも悪いだろうと

思うからです。だんだんスプレーをする回数が増えれば地面に少しづつでも

たまっていくのではないかと思ってしまうのです。

ある朝、たまたま早く起きたので、庭に出てみましたら、蚊の数が夕方

のそれとは断然違うのでびっくりしました。

友達が蚊が多くてとこぼされていたので、朝早くだと違うわよと言って見た

のですが、

 "そんな事ない。”と一蹴されてしまいましたが、朝早いと全くいないと

言うわけではないのですが、時間によって蚊の数は凄く違います。

今は日が短くなって日の出の時間が遅くなりましたが、5時代ですと、蚊は

本当に少なく、6時半頃まではまあまあ、7時を過ぎますと結構増えてきます。

 今朝は早起きしたお蔭で眼鏡の間に蚊が入った事もなく仕事がはかどりました。

 それと一番暑い昼下がりには蚊は少ないように思いますね。

 人間様と蚊の生き様って似ているのかも知れませんね。? 「笑い)

昭和20年の思い出を語る会(23)

2010-09-18 08:00:39 | 戦争体験
Yさんのお話

 20年の暮れも押しつまった頃のことです。

 母の体調が悪くて買出しを頼まれました。

 行先きは馴染みのお百姓さんです。

 戦後お手伝いさんも去って、私を頭に5人の子供を抱えた両親の苦労をいや

 という程見ていましたので、私と弟は張り切って自転車で出かけました。

 母の力になれる、食糧も手に入るといそいそとして・・・・。
 
 ところが訪ねた先のお百姓さんの仕打ちは意に反して冷たく、いろいろお

 願いしても

 「今日は何もないよ」

 とけんもほろろです、母がお願いしてあった筈なのに。

 仕方なく農家の庭先を出ると、冬至近い頃ですから暮れ始めていました。

 すると思いがけず

 「子供をよこすなんて話しにならないよ」

 背後から嘲笑する人々の声が響いたからたまりません。

 癇性の弟は蒼白になり唇を震わせながら

 「姉さん聞いた?」

 と問いかけてきました。

 あんな大声なんですもの聞こえない筈がありません。でも2才しか違わなくても

 姉は姉。弟が可愛想で

 「何も」

 と答えるのがやっとでした。

 弟も私の心を察したのか、もう一言も言わず二人して涙をこらえながら自転車を

 走らせました。

 足元の大地には闇が漂っていましたが、西空には美しい茜に染まっていました。

 今でも美しい夕焼けを見る度に、あの時の切なさを思い出して胸がしめつけら

 れます。

 (以上原文のまま」

 (つづく)