80ばあちゃんの戯言

聞いてほしくて

世界卓球(2)

2012-03-31 10:12:21 | スポーツ・趣味
世界卓球女子の試合は因縁の韓国との壮絶な試合

で、どちらが勝ってもおかしくない立派な試合振

りであったけれども、最後に石川佳純さんが

世界一の女子カットマンと言われているキム 

キョンアさんにフルセットまで持ち込んだ末

12対14で負けて、3対2で敗退した。

是でメダルへの望みは絶たれたが、私は両国の選

手達にいい試合を見せていただいて有難うと言い

たい。

本当にすばらしい試合であった。

特に最後の試合、キム キョンアさんと石川佳純

選手の追いつ追われつの戦いぶりは見事だった。

最初の一点はキム キョンアさんに入ったが、

その後は終始、石川佳純ちゃんがリードを続ける

展開だったのに、最後の最後で、ジュースの末、

負けてしまったが、球史に残る好ゲームとなった。



今回メダルは逃したが、本当に、選手達の成長

ぶりが,目覚しかった。

特に福原愛さんは、今まで何度やっても勝てな

かったキム キョンア選手に勝てたし、選手全員

勝利を手にしていたことと、負けたお蔭で選手

全員に、この夏のオリンピックに向けてのよりいい

練習ができるのではないかと期待が高まったと思う。




今まで5戦全勝していた女子が敗退しメダルを逃した

が、4勝一敗だった男子が銅メダル以上を決め

今夜7時に又、色のよりよいメダルをかけて戦いを

するそうで、一生懸命に応援しましょうね。


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世界卓球(1)

2012-03-30 09:48:51 | スポーツ・趣味
今回の世界卓球では男女ともに一位で予選通過

することになった。特に女子は全勝である。

何とすばらしいとかと思いながら、深夜の卓球

を余す処なく見てきたが、いよいよ今夜、女子が

準準決勝で宿敵韓国と対戦する。

韓国は延々5時間の死闘をやってきたこともある

相手。

格下ではあるが、油断ができないのである。

特に対日本となるとものすごい精神力を発揮する

ようだ。




今回の日本女子はみんなが強くなっている印象が

ある。

福原愛ちゃんの進境もすごい。ご本人の負けなし

の連勝記録を作られつつある。

いづれも3対0で勝ち進まれている。

何だかこの間の日本選手権で優勝されたことが

自信につながっているのかもしれないが、一味も

二味も違って見える。

石川佳純ちゃんもだんだん燃えてきた。

平野早矢香さん、藤井寛子さん、石垣優香さんも

全員が勝っているのは何よりも嬉しいことである。



この間の3月1日発表の世界ランキングでは

 石川佳純 6位、 福原愛  11位

 平野早矢香 13位、藤井寛子 32位

 石垣優香  45位 であるが、この世界卓球

の後ではみんなぐっとランキングをあげてくるこ

と間違いなしだと確信している。



時間は今夜7時 テレビ東京(7チャンネル)で

放映される。

みなさん ご一緒に応援しましょうよ。


男子もやりますよ。


では日本チームの勝利を祈りつつ・・・。チャオ

おしゃれ心(5)

2012-03-27 07:13:10 | 思い出
最近では、どんな色をどんな季節に着る

かと言うことが論じられるようなことは

ないが、以前は真冬に白いものを着ると

言うのは寒そうなので考えられないとさ

れていたようである。

でも、私は白は寒そうでも、オフホワイト

の服なら、多分すてきだろうと考えていた。



その頃は茅ヶ崎の団地住まいだったのだが、

時々ビニールクロスと呼ばれた布地の

”おしゃか”と言うのだろうか、所々に

製品に疵ができて売り物にならないような

物を二、三メートルの長さに切って、団地

の広場で茣蓙(ござ)を敷いた上に広げて

売っていたのである。

私は何時もどんな物があるかと気をつけて

見ていて、黒だとかこげ茶色の裏地がしっ

かりして軽そうな仕上げのものを選んで

買うことにしていた。

本当に安くて100円だとか 150円だと

かと言う信じられないお値段で、子供達の

半ズボンがいくつもできてしまう。

二人の息子は運動好きの子だから、泥々にな

るのが常だったのだが、その布地で縫った物

はちょっと濡らしたタオルで拭くだけですぐ

綺麗になり時々お洗濯をしてやればよくて、

着心地も良いと息子達が喜んでいたからである。

或る時、そのお店でオフホワイトのビニール

クロスの反物を拡げていたおじさんに声を掛

けられた。

多分顔を覚えていたらしく、

”奥さん今度は何を作るんだい?”と聞いて

きたのである。

 ”これで、ロングコートと、できれば、お対

 のスカートを作りたいの。”と言うと、

おじさんは急に嬉しそうな顔をして、

”じゃあ、うんとおまけしてやるから持って

きな”

と言ってくれて、その布地をどんどん拡げて

見せてくれた。

オフホワイトの美しい布地の真ん中に地図を

描いた様な黒い疵が、ずっと続いていた。

ちょうど真ん中に疵があって、その両側で

身頃が取れるのではないかと思って、それ

を買うことにしたが、おじさんは私が、そんな

におまけしなくてもと言うのに、どんどん布

を引き出しておまけしてくれたのである。

お蔭でゆとりを持って、コートとスカート

に袋物を作ることができた。

友達にほめられ、家具ではなく洋服の

デザイナーになればよかったと言われ

”そこまでは無理、無理”と言って

しまった。〈笑い)

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家具と私(41)

2012-03-26 09:06:47 | 家具
 久しぶりに昔やっていた家具の仕事の話で

ある。

 山形の家具会社の副社長さんと新宿の

Kデパートでお会いすることになって、私は

家具売り場でお待ちしていた。

お約束した時刻に中年の身なりのきちんとし

た紳士が颯爽と現われた。

お話してみると、トテモ頭の良い方であると

すぐわかった。 中々近代的というと、すごく

古い言葉だが、ともかく新しい時代を背負って

立てる方のようだと、私には期待が膨らんだの

だが、それから程なくして、忽然と姿を消され

たのでびっくりした。



その会社を始められた社長は戦後まもなく山形

で、卓袱台を作って東京の青空市場で売り出さ

れたそうで、それが良く売れたので東京に営業

所を作られたのが、当たって、新庄に大きな工

場を建てられるまでになられたが、残念なこと

に娘さんがお一人で跡継ぎがなく、娘さんに

婿さんをとられたのだが、欲に眼がくらんだ親

戚が寄ってたかって娘婿の副社長を追い出した

と言う訳らしい。

本当にいやーな気がしたが、それからが大変だ

った。東京の営業所長の上に支店長だかなんだ

かお偉いさんがこられて、それまで好意的だっ

た、所長さんの態度ががらりと変わった。

私に話していたことを、その方が入室された

途端、180度変わったことを平然と言われる

ようになったのである。

(つづく)






両親の思い出(4)

2012-03-25 06:38:01 | 教育
両親の言葉で今も心に刻んで、私の戒め

となっている言葉はたくさんある。

その中でも、

 ”己の欲するところ人に施せ。

 欲せざるところを人に施すな”

 ”右の頬を打たれたら、左の頬を出せ”

 ”他人(ひと)を妬むな。人の喜びを己

 の喜びとせよ、”

 ”他人が悲しんでいる時に、悲しんで

  あげられる人は多いが、他人が嬉しい

  時に喜んであげられる人間は少ない。

  他人の喜びを喜びとできるになれ。” 

 まだまだいろいろあるが、どれも同じよ

 うな意味を持っていたりするのだが、

 私は特に他人が喜んでいる時に喜んで

 あげられる人間になれと言う言葉が好き

 である。

 ところが、是が一番難しいのではないかと

 思う。

 


私が学校から帰ってくると、今日はどんな事

があったかとは母に聞かれるのが常であった

が、たまたまテストがあったと言うと、何点

だったかと聞かれるので、百点だったと言う

と、母は、では何人が百点だったかと聞き、

次いで○○さんは何点?

では△△さんはどうかなどと聞くのである。

私は、子供心に、自分の子が百点だったら、

それでいいではないかと、心の中で反発し、

自分が親になった暁には、絶対そんな質問は

するまいと心に誓ったものである。



子供は6歳でも大人の約60%ぐらいの知能

はあると言われているようだが、ましてや

小学生ともなれば親を批判する能力は持って

いるのだ。





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両親の思い出(3)

2012-03-24 15:13:53 | 教育
庭仕事が好きだった父は屏風ヶ浦に引越し

た後、子供たちが大きくなったら楽しめる

ようにと言って、富有柿と次郎柿を合わせ

て5本、大きな丹波栗を一本、二十世紀梨

一本に、林檎の紅玉を一本植えてくれた。




それ以前から植えられていた大きな本柚子、

竹薮とかその前に無花果とかがあったが、

それらは毎年たくさん取れて、私たちを楽し

ませてくれたが、父の植えてくれた果物は

なかなか実がならず、私が5年生になった

年に、二十世紀梨がやっと一個なった。

皆で一口づついただいたがなんとも、みず

みずしくて、おいしかったのだが、その後

父の転勤で大阪へ行くことになって、留守

宅を伯父に頼んで、他人に貸したら、戦争中

のことで、梨や林檎の木は切られて畑にされ

てしまった。

でも、柿や栗、無花果,筍は残っていて、楽し

ませてくれたので、父のお蔭か、私も実の

なる木が好きで、25年前横浜に引越して

から、いろいろの実ものを育てて楽しむよう

になったが、庭木の手入れが私のストレッチ

になっているようである。

だが、何時までできることやら、この間から

いつもなら終わっている枇杷の実の剪定を

しているのだが、中々はかどらない。

まあ、いいか!

両親の思い出(2)

2012-03-23 18:05:29 | 戦争体験
今日は両親と言っても母の話である。

母は、運動能力はどうだったのか聞いた

ことはないが、他の事は何でもできる人

で、女学校時代は休み時間には友達に

勉強を教えてあげていたらしく、母が

50歳になるやならずで寝たきりに

なってしまったときには、23年間の

寝たきり生活にも関わらず、お世話に

なったと言う友達のお見舞いがずっと

続いたものであった。

 だが、子供たちにとってはちょっと

困ったこともあったのである。

学校で作文とか、俳句を作ってくる

宿題が出ると、母に遊びに行っておい

でと、言われるのだが、母は、その間

に作文をものし、あるいは俳句を作って

待っていて、家に帰ると、これを書いて

おいたから学校へ写して持っていくよう

にと言われるのである。

だから、学校へ行って先生やみんなに

褒められるのだが、自分では褒められれ

ば、褒められるほど、嫌でたまらなくなる。

時には、すばらしい詩だからと言うことで、

音楽の先生が曲をつけられて、学校中で

歌ったこともあった。

私は長いこと、母の作品ですと言うこと

も許されず、辛い思いを持ち続けていた。

後年、クラス会で、隣に坐った男性から

”あなたの作った歌を今も覚えているよ。”

と言って歌われた時には、本当に穴が

あったら入りたいとはこのことだと思った

ものである。 勿論、

”実はあれは母の作品で、私は嫌でたまら

 なかったのよ。”と言うことができた。



驚いたことに、母の思い出を妹と話して

いたときに、私が、

”お母さんに何時も作文や俳句の宿題を

 書いて、持って行かせられたお蔭で自分で

 物を書く自信がないのよ。”と、嘆いたら、

妹が、

 ”あら、お姉さんもそうだったの。私もよ”

 と言ったのにはびっくりした。

今もって残念な次第。




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両親の思い出(1)

2012-03-22 08:42:09 | 教育
私は長女で両親にとってはじめてのこども

であったから、本当に一生懸命育ててもら

い、私もおとなしい方の子供だったし、

あまりいたずらも喧嘩もせず、叱られた

記憶がない。

しかし、すぐ下の弟は”跡継ぎ”だと言う

ことで、父の期待は大きかったらしく、

小学校の高学年の時には、鉄兜が弟に

飛んでいったこともあった。勿論父として

はぶつけるつもりはなかったらしく、たまたま

母が留守で、私がなんとかしなければ

と部屋の戸を開けたとたんに、私の足元に

転がってきたのだから、まあ、弟が傷を

負ったと言うことはなかったのだが、

次女、三女になると、世の中も世知辛くなり

更に下の弟になると、太平洋戦争が始まっ

ていたり、戦後のどさくさの中、母も仕事に

就いたりして、あまり教育のことを良く考え

ている時間はなかったのだろうと思う。

私の良く覚えている父は毎日の通勤時に、

本を二、三冊も持って歩いていた。

”児童心理”

”こどもに聞かせるいい話365話”と言った

本が多かった。

 或る年の秋大嵐がやってきて、父は屏風ヶ浦

と上大岡の間のトンネルの電車の中で一夜を

過ごした事があったが、その時、車掌さんが

雨の中を、電車の外へ何度も出たりして

ずぶ濡れになっていたらしい。父が見かねて

自分の服を脱いで着せてあげたそうで、爾来

父の顔を見ると、その時のお礼を言われるとか、

或る時、私もその車掌さんの勤務中の社内で

父と一緒に乗っていたら、父のことを”先生”

と、呼んでいたので、家に帰ってから、父に

”あの車掌さん。お父さんのことを何で先生

と呼んでいたのかしら?”

と、聞いて見たら、

 ”多分、嵐の時にお父さんが、上着を貸し

たのだが、その時にお父さんが持っていた

本を見て、先生と勘違いをしていたようだ”と、

父はさもおかしそうに笑っていた。

(つづく)


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跡継ぎ

2012-03-21 09:14:38 | 教育
私は1930年〈昭和5年)安藤家の長女と

して生まれました。

次々に4人生まれて一番下の弟は1941年の

4月生まれですが、考えてみれば、私の両親は

昭和恐慌〈昭和5から6年)と言われた昭和5

年に、私を、次の昭和6年に弟を、昭和8年に

次女を、日中事変が起こった次の年、昭和13

年に三女を、更に新しい戦争にエスカレートし

そうな不穏な空気の中で末弟を産んだわけです

から、

”産めよ。増やせよ。”の国策に沿っていた

とは言え、大変な時代を過ごしたといえると

思います。

当時の人たちの考えは、家の跡継ぎをしっ

かり教育して残すと言うだけでなく、自分達

の老後を看取ってくれる者を自分たちの責任

で育てていたのです。

是は何処のお宅でもそうで、家々には子供さ

んが溢れていて、賑やかだったものです。



最近では経済的に安定していないから、環境

が悪いからとか、保育所もないからだとか、

政府の援助が足りないなどと、いろいろ御託

を並べて子供さんをおつくりにならない方々

も増えていますが、私にはどうもいい傾向だ

とはとっても思えないのです。 

他人様の苦労して育てたお子さんにご自分の

介護を頼むおつもりだろうかと思うからです。

経済的に子供を育てられないと仰る方に一言

申し上げたいのですが、人類がこの世に現わ

れて以来、この世が何の心配もない楽園で

あった時がどのくらいあったとお思いでしょ

うか?

 NHKテレビ”新世代が解くニッポンの

 ジレンマ”

と言う番組で、お若い世代の代表とも言える

ようなご立派な方々の中で、

”俺達は貧乏の中で生まれて貧乏で死んでいく”

とか、

”労働は遊びから始まった”

何て言うおかしな発言がありましたが、高学歴

の方々が、いろいろな学問から何も学んでいない

ような発言に驚いておりますが、私の想像では、

人類の始まった頃は、多分、食うや食わずで

あっただろうと思われますし、それだからこそ、

生活を改善すべく、農業等、いろいろな産業が

次々と起こってきたのだと思います。

食うや食わずの時代では、食べ物を得ると言う

ことは必死であって、そのための労働が遊びで

あったはずはないと思います。

それでも食べられない日もあった。

だからこそ、人間は進化の一つとして

”オートファジー”の機能を体内に作ってきた

のではないのでしょうか?

それはさておき、苦しい時代にあっても、自分

の家の事は自分で責任を取ると言う考えがあっ

たのだと思います。

ですから、近ごろ時々話題になる孤独死の中に、

家には何も食料が残っていず、飢餓で亡くなっ

ているが、生活保護は受けていなかったという

方々もあるのです。

いろいろな見方はあるのでしょうが、私は、

その方々のお考えの中に、人に迷惑をかけない

で生きていきたいと言う高邁な精神を見てあげ

たいと思います。

だからと言って、生活保護を受けてはいけない

と言うつもりは毛頭ありませんが・・・。

ただ、あまりにも、人々が政府に頼りすぎては

いないかと言うことです。

何かあれば、自分の権利を主張するが、義務は

かってに疎かにするとは思いませんか?

できないと思うからできないのです。

知恵を働かせていけば何とか改善策は見つかる

のではないでしょうか?




注)オートファジーとは、固体が飢餓状態に置

かれて栄養が枯渇しアミノ酸の供給が絶たれる

ことは、細胞にとっては生死に関わる重大な

ダメージになり得る。

しかし、オートファジーが働くことによって、

細胞は一時的にこのダメージを回避することが

可能だと考えられている。

オートファジーが起きると細胞内に常に存在し

ている蛋白質(ハウスキーピング蛋白)の一部

が分解されてペプチドやアミノ酸が生成され、

それが細胞の生命活動にとってより重要性の高

い蛋白質を合成する材料に当てられると考えら

れている。

この機構は動物の個体レベルにおいても観察さ

れ、例えば、マウスを一晩絶食させることで、

肝細胞でオートファジーが起きることが知られ

ている。

ただしオートファジーによる栄養飢餓の回避は

あくまで一時的なものであり、飢餓状態が長く

続いた場合には対処することができない。

この場合オートファジーが過度に進行する事で、

細胞が自分自身を食べつくしてしまい、細胞が

死に到ると考えられている。

〈以上wikipedia 調べ)


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卒業されたみなさんへ

2012-03-20 08:51:35 | 教育
全国の今年学校をご卒業になる皆さん、

おめでとうございます。

皆さんの前途にはいろいろ楽しい事や

艱難辛苦が待ち受けていることかと

思います。

楽しいことはいいけれど、苦しいことは

どうもとおっしゃるかと思いますが、

私は苦しいことを乗り切れた時の方が

達成感があるような気がします。

わが国には”艱難汝を玉にす”という

諺があります。

この私にも本当にもうこれまでかと

思った事が何度もありました。

でも、不思議と、その日、その日を

一生懸命に過ごしていると、突然

解決策ができてきたり、物事が好転し

たりすることもありました。

人間諦めないで解決策を探ることです。

その考える方向が正しければきっと

神様が助けてくださると思うのです。

といっても、私はどの仏教でも新興宗教

も全く信じる気持ちはありませんが、私

の心の中には、自分自身に対して恥ずか

しいことをできるだけしないという鉄則

があります。 私も人間ですから、知ら

ないうちに間違っていることがあると

思いますが、自分から人を傷つけようと

思ったことはないつもりです。

いいようにと思って結果悪いことをして

しまっている事がないとは、言えません

が・・・。

今の世の中、悪いことばかりと思って

おられる方もあると思いますが、私は、

万事、いい面と悪いことと、両方を考え

ます。きちんと、悪い方のことも考えて

おかないと”想定外”なんてことになり

ますので、最悪と最善は必ず頭に浮かべ、

その上で、最善のために努力をするのです。

何事もやった方がいいか、悪いか良く考え

ますが、それが、よほど家族や世間さまに

ご迷惑をかけるようなことにならないよう

な事であれば、勇気を持ってやることにして

います。 もし、それが失敗しても、やらない

よりは、やっておけば、失敗の反省から、もう

一段上に上がることができると思えるからです。

又、何事も一生懸命考えることで、自分の能力

以上のことができる可能性が出てくると私は信

じているのです。

人間の頭の中は人によってそう変わるものでは

ないと、私は信じている一人ですが、その方が

能力を発揮できるためにはそのことについて、

とことん考えると言う集中力を養っておくこと

です。

学校の成績のよくないものが、かえって世の中で

成功すると言う話は、学校の成績があまり良く

なかった人々の好んでする話ですが、私は、そう

言うことは時にはあるとは思いますが、それは、

成績がよい者は成功しないと言うことではなく、

時に、自分は偉いと勘違いする人がいるからだと

思うのです。

又、全部がそうだとはいえないと思っていますし、

第一、教科書で学ぶ範囲の物は世の中の物事の

ごく一部に過ぎません。時には深く考えている

からこそ正解が出せないことだってあると思います

し、学校の成績が多少悪くても外の分野で優れた人

は多いのです。学校の成績はたいした問題ではない

のだと思いますが、他人と比べて自分の優位性を

思ってにんまりするのではなく、周りの

人から学ぶ気持ちを持ち続けていけば、きっと、

多くのことを学べるすばらしい人生が歩めると

思っているのです。

学校の成績云々よりはもっと大事なことを見失って

はいけないのです。自分が頭がよいと思い込んで

しまうと、脳の中で、いろいろな考えを止めて

しまうような気がします。だから、おかしな発言

をする学者がたまにおられるのではないので

しょうか。

あくまでも謙虚に、それでも、何事にも自信と勇気

を持って、我慢強く行動してください。

いい方に考えていけば、今ほど、すばらしい時代は

ないのです。

科学がどんどん発展しているからです。今日は不可能

だと思っていて、どこかで誰かが研究して解決策を考

えて明日には、180度違う解決策が飛び出したりして

いるのです。

光の方向を向いて堅実に歩いていけば、きっと

すばらしい世の中ができますよ。

私はあなた方に期待しています。

頑張ってくださいね。m(__)m

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