水曜日のカンパネラの曲が楽しい!
聞いて、僕らは言葉(歌詞)から解放されるのだ。

『エジソン』
歌詞の内容はこんな感じ。
曲が売れてライブも盛況なエジソン。
でも僕は発明をして、発明王になりたいんだけどなあ……。
という内容。
人生がどこかうまくいかない僕たちの隠喩でもある。
『バッキンガム』はもっとぶっ飛んでいる。
バッキンガム宮殿やアルハンブラ宮殿など、世界にはたくさんの宮殿があるが、
東京の世田谷区にも『給田(←町の名)』という宮殿がある。
世田谷・給田は千歳烏山と仙川の間にあって、郵便番号は〒157-0064。
緯度は 35度 39分 44.72秒 139度 35分 24.89秒。
という内容。笑
見事な世界のひっくり返し方である。
これで僕たちは面倒な言葉(意味)から解放される。
かつて楽曲は歌詞が重要だった。
歌詞によって共感し、感情を揺さぶられ、生きる力を与えられた。
だが、水曜日のカンパネラのような楽曲もある。
・歌詞は調味料程度で、メインディッシュはメロディ&リズム。
メロディとリズムに身を委ねて心地よさに浸る。
・歌詞はメロディとリズムの世界に入るための入り口でしかない。
・歌詞は何度も聞いていると、色褪せてしまうが、メロディとリズムはなかなか擦り切れない。
・歌詞は「それは違う」と違和感を抱くこともあるが、メロディとリズムにはそれがない。
さあ、無意味の世界に身を委ねよう!
『エジソン』と『バッキンガム』、どちらにしようか迷いましたが、
今回は『バッキンガム』の動画を貼っておきます。
水曜日のカンパネラ『バッキンガム』(YouTube)
聞いて、僕らは言葉(歌詞)から解放されるのだ。

『エジソン』
歌詞の内容はこんな感じ。
曲が売れてライブも盛況なエジソン。
でも僕は発明をして、発明王になりたいんだけどなあ……。
という内容。
人生がどこかうまくいかない僕たちの隠喩でもある。
『バッキンガム』はもっとぶっ飛んでいる。
バッキンガム宮殿やアルハンブラ宮殿など、世界にはたくさんの宮殿があるが、
東京の世田谷区にも『給田(←町の名)』という宮殿がある。
世田谷・給田は千歳烏山と仙川の間にあって、郵便番号は〒157-0064。
緯度は 35度 39分 44.72秒 139度 35分 24.89秒。
という内容。笑
見事な世界のひっくり返し方である。
これで僕たちは面倒な言葉(意味)から解放される。
かつて楽曲は歌詞が重要だった。
歌詞によって共感し、感情を揺さぶられ、生きる力を与えられた。
だが、水曜日のカンパネラのような楽曲もある。
・歌詞は調味料程度で、メインディッシュはメロディ&リズム。
メロディとリズムに身を委ねて心地よさに浸る。
・歌詞はメロディとリズムの世界に入るための入り口でしかない。
・歌詞は何度も聞いていると、色褪せてしまうが、メロディとリズムはなかなか擦り切れない。
・歌詞は「それは違う」と違和感を抱くこともあるが、メロディとリズムにはそれがない。
さあ、無意味の世界に身を委ねよう!
『エジソン』と『バッキンガム』、どちらにしようか迷いましたが、
今回は『バッキンガム』の動画を貼っておきます。
水曜日のカンパネラ『バッキンガム』(YouTube)
飾り程度どころか、全く歌詞がなかったわけです。
思えば、あのころは昭和50年代でした。
当時の昭和演歌や昭和歌謡曲は、キャンディーズやピンクレディーも含めて、歌詞で共感を呼ぼうとしていましたが、それとはまったく違った文脈から生まれたのが「YMO」であり「ライディーン」だったと思います。
だからこそ、当時の若者(わたしも含めて)の琴線に触れて、支持されたのだと思ってますし、だからこそ、今まで生き残ってきたのではと思っています。
ユキヒロさんの冥福をお祈り申し上げます。
いつもありがとうございます。
そうですね。
水カン(水曜日のカンパネラ)の音楽コンセプトはYMOの系列ですよね。
水カンの曲における歌詞の位置づけは、調味料。
2020-08-15 21:07:49さんの言葉を借りれば「飾り」です。
曲を聴いていただければわかりますが、ヴォーカル(歌詞)は楽器・音色のひとつと捉えてもいいかもしれません。
僕もそうですが、YMOの音では物足りなくなった人々が水カンにたどり着いたのだと思います。
>ヴォーカル(歌詞)は楽器・音色のひとつと捉えてもいいかもしれません。
なんですけど…
このような「ヴォーカル(歌詞)は楽器・音色のひとつ」という路線で大ヒットしていた80年代当時のサザンを、坂本龍一は評価していませんでした。
YMO以前の日本では、歌詞のない音楽は、劇伴的なBGM的な曲か、高尚なクラシック音楽の交響曲や協奏曲や弦楽四重奏曲でした。
劇伴的なBGM的な曲だと「長調は陽気で明るい」になりますし「短調:暗く悲しい」で、それだけでした。
ところが、ライディーンの主旋律(第一主題)は短調なのに悲しくなく、力強くワクワクするものでした、これだけでも画期的でした。
ソナタ形式の中間部の第二主題は、一転して長調でしたが、ひづめの音に模したSEとともに現れるのはパイプオルガンすら連想させる神々しいメロディーでした。
>YMOの音では物足りなくなった人々が水カンにたどり着いたのだと思います。
う~ん、YMOを超えているとはちょっと思えません。申し訳ないんですけど…
>う~ん、YMOを超えているとはちょっと思えません。
それでいいと思います。
楽曲の評価って人それぞれでいいと思っていますし。
水カンを作詞作曲しているケンモチヒデヒミさんは、おそらくYMOを徹底的に聞き込んで研究していると思うんですよね。
その上でケンモチ流にヴァージョンアップしているのが、この曲だと思います。
2020-08-15 21:07:49さんがおっしゃっていた「守・離・破」です。
僕が「バッキンガム」を面白いと思うのは、意味と無意味の間を行き交っている曲だからです。
冒頭の世界の宮殿を連呼しているパートは、無意味な音の連なりに聞こえます。
ところが、曲が進むと「東京都にある 世田谷宮殿」や「千歳烏山 仙川間にある 広大な土地」という意味の世界が出て来る。
これ面白くないですか?
そしていきなり「給食」や「田園」という言葉が出て来て、給食の「給」+田園の「田」=「給田」になるという展開!
「宮殿」が「給田」になるだけでもすごいのに、さらにひねっています。
ここまで来ると、頭がゴチャゴチャになってきます。
これらを考えると、坂本龍一さんのサザンの歌詞をめぐる音楽論など吹き飛んでしまいますよね。
などと熱く解説してしまいましたが、冒頭で書いたとおり楽曲の評価は人それぞれ。
僕ももちろんYMOを評価しリスペクトしますが、僕は今のいろいろなものを貪欲に楽しみたいと思っているんです。
また、戦後の日本映画にありがちだった表現ですが、富士山を背景において、右から左へ東海道新幹線を走らせることで「主人公が関西に旅に行く」という暗喩にすることもありました。これも日本人でないとピンときません。
YMOのものすごさは、それらの「日本人にしか通じない日本的表現のリテラシー」をスコーンと突き抜けたことなんですね。
もちろん、いまどきのネトウヨさんのように「日本スゴい」の文脈ではありません(というか、ネトウヨさんって、反原発スタンスの坂本龍一を、電気楽団で名前を売ったのに、原発に感謝するどころか原発に刃向かう売国奴、みたいに叩いていますからね)。
アメリカのラップミュージックは、社会の不公正や格差への怒りや問題提起が色濃いのですが、日本のラッパーはそういう要素を歌詞に盛り込むことを見事に避けます。
水曜日のカンパネラさんも、そういう意味では「ナンセンスなリリックではあっても基本的には日本型」だと思います。面白いとは思いますが、YMOの超弩級の「突き抜け」とは、比べられないと思います。
このあたりも感受性の違いなので、なんとも言えないんですけどね。
>YMOのものすごさは、それらの「日本人にしか通じない日本的表現のリテラシー」をスコーンと突き抜けたことなんですね。
もちろん、そこは評価しますし、日本の音楽史で記録されるべき偉大なことだと思っています。
超弩級の「突き抜け」も確かにありました。
だから、後のクリエイターはYMOをもとに「守・離・破」をしている。
僕がこの曲を推すのは、ブログとコメントで書いたことに尽きます。
言葉で伝えるのって本当に難しいですよね……。
敢えて理解してもらうためにさらに言葉を紡げば、これですかね。
>アメリカのラップミュージックは、社会の不公正や格差への怒りや問題提起が色濃い。
僕はこのブログで「社会の不公正や格差への怒りや問題提起」を頻繁に書いていますが、一方で疲れ果てているんです。
特にネトウヨさんの言動にはうんざり……。
だから、せめて音楽の世界では、それを忘れたいのです。
それは「無意味」な世界。
もっと抽象的に言えば「言葉の解体」。
俗っぽく言えば「ダジャレ」「言葉遊び」。
僕の曲の判断基準は、今の自分が聴いて楽しいかどうかです。
YMOは当時の僕はワクワクしましたが、今はそうでもないんです。
リズムや音色はどんどん新しいものが出て来ていますし。
もちろん、2020-08-15 21:07:49さんが「今でもYMOを聴くとワクワクするぜ!」とおっしゃるのなら、ああ、そうなんだ、思うだけです。
誰でも自分の好きなものを否定されるとムッと来ますが、決してYMOを否定しているわけではありません。
僕もすごいと思っていますし、以前書いたように水カンはYMOの系列のグループで、影響を受けていると思います。
>このあたりも感受性の違いなので
おっしゃるとおり「音楽史的評価」と「個人的な評価」をごちゃ混ぜにするのは、あまり意味のある議論ではありませんよね。
>それは「無意味」な世界。
>もっと抽象的に言えば「言葉の解体」。
>俗っぽく言えば「ダジャレ」「言葉遊び」。
ちょっとしつこくて申し訳ないです(苦笑)。
ただ、わたしが思い出すのは、Eテレで10年以上前に放映した番組、坂本龍一が講師を務めた「音楽の学校」です。
個人的には、クラシック音楽を聴くことが割と好きなのですが、あの番組ではクラシックばかりではなく、ジャズやロックの名曲も取り上げ「なぜ聴き手の心を揺さぶるのか」を、精緻に分析していました。
坂本龍一ならば、水曜日のカンパネラを分析するかもしれませんよ。
>かつて楽曲は歌詞が重要だった。
このあたりは同意です。
大御所演歌歌手が「しっとりと歌い上げる」歌詞が共感を呼ばなくなったので、紅白歌合戦の演歌の大御所が居場所を失い、カオスになっているのではないかと、個人的には思っています。
次の日曜日、12日夜11時テレビ朝日系の『関ジャニ熱闘SHOW』は「坂本龍一特集」だそうです。
現在のミュージシャンが坂本さんに質問して、坂本さんのすごい所を語り合うという内容です。
僕は毎週、この番組を見て音楽を学んでいますが、もしよかったらぜひ!
「歌詞を重視する曲」も僕にとっては重要です。
言葉に疲れた時は「歌詞のない曲」「無意味な曲」を聴きたい。
自分の心がもやもやしていて言葉を探している時は「歌詞のある曲」を聴きたい。
泣きたい時や励まされたい時は、それを歌った歌詞の歌を聴きたい。
ゼロか100か、って、つまらないと思っています。
今年の紅白では石川さゆりさんが「天城越え」を歌いましたが、すごかった。
演歌はあまり好きではありませんが、やはり一流には聴くべき所があります。
僕もクラシックが好きです。
特にチャイコフスキー。
以前、紹介した水曜10時日テレの『リバーサルオーケストラ』ではチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲が重要な曲になりそうなのですが、よかったら見てみて下さい。
でも、たぶん見ないですよね?笑
>特にチャイコフスキー。
昭和日本の音楽教科書では、モーツァルトとベートーベンの間に、巨大な断絶があることを教えなかったんですね。
それは「フランス革命」なんです。平成令和の義務教育の音楽の時間にどう教えているかは知りませんが、昭和時代の音楽の授業で、こんな大事なことをはっきり教えなかったのは、ちょっと問題ではなかったかと、個人的には考えています。
モーツァルトはフランス革命前の人で、ベートーベンは革命後の人なんですね。
年齢でいえば10歳か15歳くらいの違いなんですが、その時間差が途方もなく大きいんです。
モーツァルトの楽曲は貴族向けで、ベートーベンは庶民向けなんです。
モーツァルトの曲は、小さなサロンで軽やかに余興的に演奏して、貴族のパトロンやスポンサーのご機嫌を取るための曲でしたが、革命後のベートーベンの曲は大ホールに庶民を大勢集めて「入場料を取って聴かせる」コンサート形式になり、庶民に受けるために大音量を劇的に響かせる重厚な作曲になりました。
もちろんチャイコフスキーも19世紀の人ですから、フランス革命後の人です。日本では「チャイコ節」と揶揄する人もいるくらいに劇的でロマンチックです。演歌に似ていると揶揄する人もいるくらいです。
ただ、モーツァルトの曲も、貴族に媚びるだけの薄っぺらいものであれば、今まで生き残ってはいなかったでしょう。
モーツァルトの楽曲には「貴族に媚びるだけではない何か」があるのは確かなんですが、それが何なのか、未だに誰もきちんと分析できていないと思います。
わたしたちのような凡人に尻尾をつかませない、それがおそらくモーツァルトが「天才」である理由なんでしょう。
ちなみに、アインシュタインはこのようなことを言ったそうです。
「相対性理論なんてものは、ただの自然法則だ。もしわたしが見つけなくても、いつかは誰かが見つける。でもモーツァルトの曲はモーツァルトでなければ書けない。どちらが優れているのかは、誰が見ても明らかだ」
関ジャニ熱闘SHOWは、録画予約を仕掛けておきます。
僕もチャイコフスキーに行く前はベートヴェンファンだったので、この件は把握していますが、学校ではこういうことを教えませんよね。
貴族の庇護からの独立。
印刷技術が普及して楽譜を出版できるようになったのも大きいようですね。
ブルジョワが登場して市民がお金を払って演奏会に行くようにもなった。
ベートヴェンはまさに市民社会の申し子で、芸術は歴史と連動しているんですよね。
ベートヴェンに比べると、僕にとってバッハ、モーツァルトは退屈です。
アインシュタインのような境地にはまだたどり着いていません。
ゲーテはベートヴェンの5番を聴いて、悪魔のようだと言ったそうですが、当時の人にとっては衝撃だったんでしょうね。
7番の同じ旋律の繰り返し(トランス)は『のだめ』でも紹介されましたが、9番の第4楽章の「喜びの歌」が、レからラの童謡並みの「5度音程」で作られているのも画期的ですね。
僕はオタクなので、こういう話をすると止まらなくなってしまいます。