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平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

お洒落な恋愛映画「ラブ・アクチュアリー」~クリスマスの日くらい、愛について考えてみるのもいいかも

2014年12月24日 | 洋画
 クリスマスと言えば『ラブ・アクチュアリー』

 描かれるのは、クリスマスイヴの街にあふれる、さまざまな愛。

・英国首相の秘書への恋
・作家の恋
・恋に悩む子供を応援する父親
・毒舌なロックミュージシャン
・アメリカでは、女性は性に奔放で英国人はモテモテだから、という理由でアメリカにいく青年
・ポルノ女優とシャイな男優
・もらえると思っていたプレゼントが違っていて、夫の浮気を知る妻
・親友の結婚相手を好きになってしまった画家

 ネタバレになりますが、
 親友の結婚相手を好きになってしまった画家は、自分の気持ちにけじめをつけるために、クリスマスイヴ、親友夫婦の家に行き、ドア口で彼女に告白をする。
 自分の思いをボードに書いて、紙芝居みたいに一枚一枚めくって。
 口で言わずに、ボードに書いたのは、家の中には親友の夫がいるからだ。
 その告白はこんな感じ。

①『来年には僕にきっとこういう恋人が出来る』
②セクシーな女性の写真を見せる
③『重荷に思わず、クリスマスだから聞き流してほしい』
④『本心を打ち明けるのが、クリスマスだから』
⑤『僕の心は君のもの』
⑥『君がこういう姿になり果てる日まで』
⑦ミイラの写真を見せる
⑧『メリークリスマス!』

 『重荷に思わず、クリスマスだから聞き流してほしい』という所が泣けるな~
 セクシーな女性の写真やミイラの写真を使う所なんかは、最高のユーモア!
 ユーモアで告白するから、重くならない。

 この作品には、喜びや悲しみなど、さまざまな愛の形が綴られている。

 ちょっとクリスマス商法に乗せられている気もしますが、
 クリスマスの日くらい、<人と人の繋がり>や<愛>について考えてみるのもいいかもしれません。


 『ラブ・アクチュアリー』の過去記事はこちら

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レ・ミゼラブル ②~貧しき人々・悲惨な人々

2012年12月31日 | 洋画
 映画版の『レ・ミゼラブル』。
 原作を知っている人は楽しめたと思うけれど、知らない人にはどう見えたんだろう?
 あの膨大な内容を2時間半で描くこと自体が無謀なのだが、ダイジェスト感は否めない。
 ただ、映画版(ミュージカル版)ならではの解釈も描かれている。
 それは<貧しき人々><悲惨な人々>。
 『レ・ミゼラブル』は『ああ無情』と訳されることが多いが、直訳すると<貧しき人々><悲惨な人々>である。
 映画版では、まさに<貧しき人々><悲惨な人々>が描かれている。
 それは
・飢えている妹の子供のためにパンを盗んで獄に繋がれたジャン・バルジャン(ヒュー・ジャックマン)。
・父親のいない子を産んだだけで迫害され、コゼットのために体を売り、髪や歯を売るファンテーヌ(アン・ハサウェイ)。
・そんな貧しい人たちのために立ち上がるマリウスやアンジョルラス。
 ジャン・バルジャンの<愛の行為>に目を奪われがちだが、この作品の底流には<貧しき人々>を作り出す19世紀フランス社会への怒りがある。
 バルジャンは罪人として獄に繋がれたが、彼は悪人なのだろうか? 貧困が彼を追い込み、仕方なくパンを盗むという行為をさせたのではないかと問うている。

 ところで『レ・ミゼラブル』の状況は、別に19世紀フランス社会に限ったことではない。
 現在の日本だって。
 非正規雇用、ネットカフェ難民、年越し派遣村……。
 格差がもっと進めば、19世紀フランスの『レ・ミゼラブル』がこの国にも現れるかもしれない。
 安倍さん、自民党政権は、国民に<自助・自立>を求める政権で、弱者を切り捨てる政策をしようとしているようですけど、頼みますよ、憲法25条で<生存権>は認められているんです。
 <非正規雇用>というシステムを作ったのは、小泉氏の自民党政権ですから、それがもっと極端にならないか心配。

 さて、話を映画『レ・ミゼラブル』に戻すと、<貧しき人々>は決して暗く描かれていない。
 バリケードの少年・ガブローシュは元気でたくましいし、あの悪党ティナルディエ夫妻でさえ、ユーモラスに描かれている。
 ラスト、マリウスとコゼットの結婚式から追い出されるティナルディエ夫妻は、金持ちから金品をスリまくり、どんなことをしても生きてやると宣言する。
 自分たちは貧しいんだから金持ちから盗み取るのは当たり前、どんな手段を使っても生き抜くのは当たり前と考えているようだ。
 この夫妻の生き様は、マリウスたちが特権階級と闘おうとしたのと同じ。
 ただ手段が違うだけ。
 マリウスたちは<革命>によって闘おうとしたが、夫妻は<盗み>や<脅迫>によって特権階級と闘っている。
 そんな彼らは何としたたかで、たくましいことか!

 というわけで<貧しき人々><悲惨な人々>という視点からもとらえ直すことが出来る映画版『レ・ミゼラブル』。
 ネタバレになるので詳しく書かないが、だから映画版はあのラストになる。
 <貧しき人々>は繋がり合うことが出来るのだ。


 レビュー『レ・ミゼラブル ①~愛の人ジャン・バルジャン』はこちら


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レ・ミゼラブル ①~愛の人ジャン・バルジャン

2012年12月30日 | 洋画
 ジャン・バルジャン(ヒュー・ジャックマン)の愛には、さまざまなものがある。
 まずはミリエル司教によって教えられた<無償の愛>。
 自分を無にして、与え続ける愛。
 バルジャンはモントルイユで工場を経営し、マドレーヌ市長になって、人々を幸せにしようとする。
 貧困に苦しんできただけに、『お金が人を幸せにもする』という発想はいかにもバルジャンらしい。
 そんなバルジャンが大きな<無償の愛>の行為をする時がある。
 別の人間がジャン・バルジャンとして捕まり、裁判を受けることを知った時の行動だ。
 彼は裁判の場に行き、「その人はジャン・バルジャンじゃない。自分がバルジャンだ」と叫ぶ。
 この名乗りをしなければ、バルジャンは一生マドレーヌ市長として、警察に追われることなく、穏やかに過ごせたのに。
 しかし、彼はそんな保身を否定する。
 自分の幸せのために無実の他人が犠牲になることが許せない。
 まさに<無償の愛>だ。

 しかし、バルジャンの<無償の愛>はコゼットの存在によって変わってくる。
 <父親の愛>に変わる。
 コゼットと暮らすことに大きな喜びを感じるバルジャン。
 自分だけにしか頼る者がいないコゼットにバルジャンは愛を与え続ける。
 そして幼いコゼットにとって、バルジャンはすべてである。
 与えれば与えただけ、笑顔を返してくれる存在、日に日に成長して美しくなっていく存在でもある。
 今まで独りで生きてきた彼にとって、そんな存在を得たことは衝撃であっただろう。 
 コゼットによって、バルジャンは孤独を癒され、希望を与えられ、逆に救われていたのかもしれない。

 しかし、そんな存在が奪われる時が来る。
 恋人マリウスの登場だ。
 彼の登場でコゼットはバルジャンがすべてではなくなる。
 今まで自分にしか向けられていなかったコゼットの愛が別の人間に向けられることになる。
 ここでバルジャンは人生の第二の選択を迫られる。
 革命のためにバリケードに立てこもるマリウス。
 市民が呼応して立ち上がる気配はなく、軍隊は派遣され、革命は失敗で、このままではマリウスは死ぬしかない。
 コゼットを失いたくないバルジャンにとっては好都合な状況だ。
 しかし、彼はマリウスを助けにいく。
 自分を無にして、コゼットとマリウスの幸せのために行動する。

 このようにジャン・バルジャンの人生は<愛>で貫かれている。
 その愛は、法の人ジャベール(ラッセル・クロウ)の厳格な心をも打ち砕いてしまう。
 愛は強し。
 しかし、愛の人ジャン・バルジャンが、コゼットを奪われたくないといったエゴに苦しみ、激しく葛藤したことも忘れてはならない。
 愛を貫くことは困難な作業なのである。
 だからこそ、ジャン・バルジャンの生涯は人の胸を打つ。


※追記
 ジャン・バルジャンの成長したコゼットへの愛は<男としての愛>と解釈する評論家もいる。
 確かに。

 この作品についてはもうひとつのレビューを書きました。
 『レ・ミゼラブル ②~貧しき人々・悲惨な人々』はこちら

コメント (8)
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ラブ・アクチュアリー~クリスマスだから聞き流してほしい。僕の心は君のもの

2012年12月25日 | 洋画
 別に浮かれているつもりはないけれど、クリスマスの夜には「ラブ・アクチュアリー」を見る。
 そこで描かれるさまざまな愛の物語。
 ぼくが好きなのはこのシーンだ。

 親友の妻に恋をしてしまった男。
 親友の妻であるため、一歩を踏み出してはいけないと思っている男は、彼女に冷たくあたる。心を開かない。
 彼女はそのことが気になっていて、自分のことが嫌いなのかとか、彼はゲイなのかとか思ってしまう。
 原因を明らかにして、彼と心を通わせたい、友達になりたいと思う。
 だが、ある時、彼女は、男が撮影した自分の結婚式のビデオを見てしまう。
 そこにいたのは、彼女! 彼女しか映っていない!
 これで彼女は理解する。
「彼は自分のことが好きなのだ」「親友の妻だから距離を置いているのだ」
 男はそれをあわてて否定するが、気まずいふたり。

 そしてクリスマスの夜、男は彼女の家のドア口にやってきて、告白し、けじめをつける。
 自分のきもちをボードに書いて、紙芝居みたいに一枚一枚めくって。
 それはこんな感じ。

①『来年にはきっとこういう恋人が出来る』
②セクシーな女性の写真
③『重荷に思わず、クリスマスだから聞き流してほしい』
④『本心を打ち明けるのが、クリスマスだから』
⑤『僕の心は君のもの』
⑥『君がこういう姿になり果てる日まで』
⑦ミイラの写真
⑧『メリークリスマス!』

 何というお洒落な告白だろう。
 自分の気持ちをしっかり表現し、同時に彼女への決別も語っている。
 しかも、セクシーな女性やミイラの写真も駆使して。
 こんな告白がうれしかったのだろうか、彼女は、雪の中せなかを向けて歩いていく彼の所に走っていき、キスをする。
 見ていない方のためにフォローしておくと、このキスは彼の気持ちを受け入れたというキスではない。友だちとしての、彼の誠実さに対する感謝のキスだ。
 キスをすると、彼女は夫のいる家の中に走っていく。
 キスを受けて、男はうれしそうにつぶやく。
「これでいい。これで満足だ」

 この告白のシーン、時間にしたら3分くらいかと思うが、映画史の十指に入る告白シーンだと思う。
 この他にも『ラブ・アクチュアリー』には、クリスマスでのさまざまな愛の形が描かれる。
 それは笑いあり、涙あり、感動ありで、心温まる料理をフルコースで食べているような感じだ。
 世界には愛があふれている!!


 昨年書いた『ラブ・アクチュアリー』の記事はこちら

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ソルト~その見事なキャラクター造型!

2012年09月16日 | 洋画
 イブリン・ソルト(アンジェリーナ・ジョリー)はプロフェッショナルなスパイである。
 銃や爆薬を的確に使いこなし、消火器などあらゆる日常にあるあらゆる物を武器にする。
 毒にも精通。
 変装も得意。
 最愛の夫が目の前で殺されて身を引き裂かれそうにつらいのに、目的遂行のために表情を変えない。
 見事なキャラクター造型である。

 こんな描写もあった。
 CIAに追われて逃げ込んだ少女の部屋。
 ソルトはバッグから自分の愛犬を取りだし、「この子を当分世話してくれない? これはエサ代」と愛犬のことを頼む。
 CIAに追われて必死な時にこれである。
 普通なら、愛犬のことなど考えずに逃げることに専心する。
 またソルトは少女とこんな会話を。
 少女「あたし、算数が嫌いなの」
 ソルト「わたしも嫌いよ」
 この余裕。
 もちろん追われているソルトの神経は張りつめ、肉体は危機を感じて急いでいるのだが、こんな会話が出来る所が逆にすごい。
 彼女の頭の中はクールで、整理され、愛犬のことを含めた目の前の問題・課題をひとつひとつ解決しているのだ。

 というわけで『ソルト』はストーリーの意外性もそうだが、キャラクター造型が見事。
 ハリウッドのアクション映画はこれだから面白い。


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ネバーランド~母親が革のノートに託した思い

2012年09月11日 | 洋画
 『ピーターパン』ってこんなふうにして誕生したんですね。
 それは劇作家のジェームズ・バリ(ジョニー・デップ)が、デイヴィズ一家の子供たちと関わる中で得たインスピレーション。
 子供たちを喜ばせるために彼は書いた。
 それは批評家の評価などを気にすることのない純粋な<遊び(PLAY)>。

 この作品で印象的なのは<革のノート>だ。
 バリは、早く大人になりたがっている三男のピーター(フレディ・ハイモア)にこれを渡す。
 ピーターは、父親が亡くなって支えを必要としている一家を支えるために、母・シルヴィア(ケイト・ウィンスレット)を助けるために、一刻も早く自立したいと考えているのだが、バリはそんなに焦る必要はないと語る。
 子供らしい想像力いっぱいの物語をピーターに書いてほしくて、<革のノート>を渡す。

 バリの影響を受けて物語を書き始めるピーター。
 しかし、悲しい出来事が起こる。
 母・シルヴィアが病に倒れたのだ。
 ピーターはノートを破り捨てる。
「自分がこんなことにうつつを抜かしていたからお母さんが病気になったんだ。やっぱり自分は早く大人にならなくてはならないんだ」と考える。

 そして母・シルヴィアの死。
 悲しみに沈むピーターにバリは例の<革のノート>を渡す。
 以前破り捨てたノートだったが、ページの所が貼り合わせてあって元どおりになっている。
 元どおりにしたのは誰か?
 それは母・シルヴィアだった。
 シルヴィアは、ピーターにまだ想像力で遊べる子供でいてほしくて、病床の中、ノートを修復したのだ。
 バリはピーターに語る。
「このすべてのページにお母さんはいるんだよ」

 上手な小道具の使い方ですね。
 そして物には<人の思い>が込められている。<愛情>が込められている。
 ピーターは大人になっても、このノートを見るたびに母親のことを思い出すだろう。

 このように『ネバーランド』は心温まる物語である。
 その他にも、戯曲『ピーターパン』が上演されるエピソードなどは実にエキサイティング。
 バリ役のジョニー・デップの抑えた演技もいい。


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ラブ・アクチュアリー~お洒落な会話でいっぱいの佳作!

2011年12月28日 | 洋画
 クリスマスは「ラブ・アクチュアリー」を観る。
 この作品には、愛とお洒落な会話が溢れている。

 たとえば、首相と秘書。
 首相は新任の秘書のことが気になっていて、こう尋ねる。
 「君は誰と住んでいる? 恋人? 夫? 子供三人?」
 「両親と住んでいますわ。恋人とは別れました。私のことを太ってると言ったから」
 「その男を首相の権限で、狙撃手を使って暗殺してやろうか」(笑)

 恋に悩む首相はサッチャー元首相の肖像画に尋ねる。
 「どうしたらいいんでしょう?」
 そして、何も答えない肖像画のサッチャーに対して、こうつぶやく。
 「鉄の女には無理か」(笑)

 気になっている秘書が首脳会談でやってきたアメリカ大統領に誘惑された時には、記者会見でこうアメリカに怒りをぶちまける。
 「われわれはアメリカには屈しない。英国は小国だが、偉大な国だ。われわれには偉大なものがある。シェークスピア、チャーチル、ビートルズ、ショーン・コネリー、ハリー・ポッター、それにベッカムの右足」(笑)

 何というユーモアだろう!

 下ネタのユーモアもある。
 破天荒でメチャクチャな老ロックシンガーがインタビューを受ける。
 「今までで最高のSEXの相手は?」
 「ブリトニー・スピアーズ」
 「本当ですか?」
 「ウソだよ。最低だった」(笑)

 こんなのも。
 「この曲がNO.1になったら、TVで素っ裸になって歌ってやる。下見するかい?」
 と言って、ズボンのファスナーを下ろすロックシンガー。
 すると司会はズボンの中のモノを見てつぶやく。
 「NO.1にはなれない」(笑)

 会社社長と女性社員はこんなお洒落な会話をする。
 「君はここに勤めてどれくらいになる?」
 「2年と7ヶ月、3日と3時間ですわ」(笑)
 「私のことを好きになったのは?」
 「2年と7ヶ月、3日と1時間半ですわ」(笑)

 そして作家と家政婦。
 作家がタイプライターで打ち出した原稿が、家政婦の不注意で風で飛んで湖の中へ。
 家政婦は冬の寒い中、湖に飛び込んで原稿を拾う。
 その時に家政婦は言う。
 「駄作だったら許さないわ」(笑)

 ふたりの恋が深まってからはこんな会話。
 毎日夕方家政婦を駅まで車で送っている作家は車の中でこう言う。
 「君を送る時が一日で一番楽しい」
 すると家政婦
 「あなたに送られて別れる時が一番悲しいわ」

 作家が家政婦にプロポーズした時は
 「返事を聞かせてほしい」
 「……もちろんYESよ。簡単な質問だわ」
 一見、普通のやりとりだが、<簡単な質問だわ>をつけ加えることでお洒落になっている。

 このように「ラブ・アクチュアリー」にはお洒落な会話がいっぱい詰まっている。
 リチャード・カーチスの脚本は本当に上手い。

 この作品では音楽の使い方も上手かった。
 亡くなった妻を弔う教会で、夫は妻の好きだった曲を流す。
 それはベイシティ・ローラーズの「バイバイ、ベイビー」。
 聖歌とかでなく、まさかここでベイシティ・ローラーズを持ってくるとは!
 おまけに教会にはスクリーンが設置されていて、生前の妻の写真が「バイバイ、ベイビー」の曲をバックに次々と映されていく。
 このシーンは泣ける。

 というわけで、「ラブ・アクチュアリー」は一年に一度は観たい、特にクリスマスにふさわしいお洒落な作品です。


 以前に書いた「ラブ・アクチュアリー」の過去記事はこちら。





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007 死ぬのは奴らだ~優雅で甘いロジャー・ムーアのボンド

2011年07月26日 | 洋画
 ロジャー・ムーアのジェイムス・ボンドって、僕は好きなんですよね。
 甘くて優雅で。
 この作品「死ぬのは奴らだ」は、ロジャー・ムーアがボンドを務めた第1作。
 アクションやストーリー的にはイマイチだが、ロジャー・ムーアのボンドの魅力は溢れている。

 たとえば簡単にダマされる所。
 ニューオリンズの敵の酒場でボンドは二度捕まる。
 1回目は壁が回転して、2回目は床が下に下りて。
 2回目はさすがに警戒したが、ボンドより敵の方が数倍上手なのだ。

 省エネも特徴。
 周囲に飢えたワニがいる沼の小島からボンドはどう脱出するか?
 何とワニの背中をピョンピョン跳んでいって対岸に脱出する。
 ワニを銃で撃ったり、水中で格闘することもない。
 バスルームで毒ヘビが迫っても、アルコール入りのひげ剃りスプレーにライターで火をつけて殺すだけ。
 省エネである。
 派手なアクションがない分、優雅であるとも言える。

 毎回登場するQの秘密兵器も今回は強力な磁石の腕時計のみ。
 ハイテク自動車などは登場しない。
 そして、この腕時計、あまり役には立たない。
 サメとの戦いでは少し役に立ったが、先程のワニのシーンでは、手こぎボートを協力磁石で引きつけようとして失敗(ボートはロープで繋がれていたため)。一番役に立ったのは女性の服のファスナーを下ろす時(笑)。

 優雅と言えば、ラストでこんなシーンがあった。
 例によってボンドガールの女性(ジェーン・シーモア)とベッドイン。場所は寝台列車の個室。
 そこへ敵が襲って来る。
 列車のベッドは折りたたみ式で、寝ていた女性は折りたたまれたベッドと列車の壁に挟まれる。
 その間にボンドは敵を撃退。
 折りたたみベッドに挟まれていた女性は「どうして折りたたまれたベッドから、もっと早く助けなかったよ?」と文句を言うばかりで、敵が襲ってきたことに気づいていない。
 これはなかなか優雅だ。
 何しろ女性は敵が襲ってきたことを知らず、怖い思いをしなかったのだから。

 というわけで、僕は、甘くて省エネで優雅なロジャー・ムーアのジェイムス・ボンドが大好きなのである。
 ショーン・コネリーから始まって、ボンドは様々な役者さんが演じてきたが、比べてみるのも面白いかもしれない。


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江~姫たちの戦国~第21回「豊臣の妻」

2011年06月07日 | 洋画
 茶々(宮沢りえ)を許すことが出来ない江(上野樹里)。
 そんな江に様々な人が語りかける。

 京極龍子(鈴木砂羽)は「いた仕方ありません」
 秀勝(AKIRA)は「心安らかに」
 初(水川あさみ)は「男と女は解せぬもの」

 彼らは、どうにもならないことなら、それを現実として受けとめて心穏やかに生きろと暗に諭している。
 怒りや憎しみに囚われて大事なもの、つまり姉の茶々を失うなと語っている。
 そして、これらの発言のベースにあるのは、<現実の肯定>である。
 現実を否定すればするほど、人は怒りや憎しみを募らせ、どんどん袋小路に追いやられていく。

 北政所(大竹しのぶ)はこう語る。
 今回のことで嫉妬する自分に「おのれの小ささ、醜さを感じた。しかし、それも女心、それも私、大事にせねばな」。
 これも<現実の肯定>。
 北政所は、嫉妬する自分、小さくて醜い自分、それらをすべて肯定した。
 この結果、彼女は「役目の異なる豊臣の妻」という結論を見出した。
 怒りや嫉妬に囚われていては、この結論にたどり着かなかったであろう。

 そして江。
 北政所たちとの話を通して、こんな結論を見出した。

 「うらみや憎しみをひとりの赤子がぬぐい去ってくれた」

 江は理解したのだ。
 姉がひとつの命を宿したことは素晴らしいことだ、と。
 憎しみをぶつけるより、いっしょに喜ぶことの方が幸せなのだ、と。

 怒りや憎しみに囚われてしまうと大事なものが見えなくなる。
 現実を肯定することによって見えてくるものがある。

 今回はそんなお話。
 ドラマとしては相変わらず薄味ですけどね。
 江が「うらみや憎しみをひとりの赤子がぬぐい去ってくれた」という結論に至る過程の描写も今ひとつ説得力がない。
 あるいは、このドラマ、何かが足りない。
 何かひとつ調味料が加わることで、変わってくる気もするのだが。
 それは秀忠(向井理さん)の登場なのかもしれない。


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おかしな二人~居場所は必ず見つかる

2011年05月22日 | 洋画
 善意でやっているのにすべてが裏目に出てしまう人っていますよね。
 この作品のフェリックス(ジャック・レモン)がそう。
 清潔好きで家事が得意で、やりくり上手。何でもキチンとしてなければ気が済まない。
 でも彼の妻はそれを息苦しく感じて、離婚を言い出す。
 同居することになった友人のオスカー(ウォルター・マッソー)もフェリックスがキチンとしているのに我慢が出来なくなる。
 「俺は床にほこりが落ちているのが落ち着くんだ! ジャンクフードが好きなんだ! 放っておいてくれ!」

 こうしてフェリックスはどこにも居場所がなくなる。
 まわりから自分を否定され、拒否されて、自殺を考える。
 人が一番つらいことって、世界に自分の居場所がどこにもないことなんでしょうね。
 それが自分が誠心誠意、相手のことを思ってやったことなら、尚更。

 さて、こんな状況を脚本ニール・サイモンはどう救うか?
 ネタバレになるので詳しくは書きませんが、こんなフェリックスに居場所が見つかる。
 フェリックスを受け入れてくれる人が出て来る。

 自分の居場所。
 それが見つからなくて苦しんでいる方にはぜひ見て欲しい作品だ。
 生きていれば、いずれ居場所は見つかる。いいことが必ずある。


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