自転車に乗ろう♪

自転車のこと、ロードレースのこと、庭のこと、日々の暮らしのことなど。    HN:Emmy(えむえむ)

アメリカ大使館に抗議のコメントを!

2013年12月27日 | 社会、読書
安倍総理の靖国参拝について
アメリカ大使館が「失望した」と声明を出したことで、
売国メディア達と中韓が大喜びしている。

ここは日本国民として「不快感と失望感」を
是非アメリカ政府に伝えるべきだと思う。
黙っていては絶対に伝わらない。

アメリカ大使館のfacebookにコメントできるので、私も書き込んできた。

何千何万と抗議コメントが殺到すれば、
日本人にとって靖国神社がどれほど大切なものなのか、
少しは理解できるかもしれないし
安倍政権と日本政府の立場をよくすることにもつながるだろう。

できることを頑張ろう!
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安倍総理、靖国神社に参拝!

2013年12月26日 | 社会、読書
第二次安倍政権発足から一年目となる今日
安倍総理が靖国神社に参拝した。

昼前にそのニュースを聞いて、よかった! と思った。

安倍さん、一年間よく我慢したと思う。

一年間、靖国神社参拝を見合わせて、
その間に特定アジア(中韓朝)以外のアジア諸国やロシア等との外交関係を
着実に大きく進展させた。

中韓への首脳会談の呼びかけもたびたび行ったが
「強く出れば日本が下手に出るはず」との過去の経験にしがみつき
安倍政権と日本国民を甘く見続けて、
中韓は日本との関係改善への努力を怠った。

一年間の働きかけにも応じなかったのだから
総理の靖国神社参拝によって
これ以上日本と中韓との関係が悪化するはずはない。
既に最低なのだから。

そもそも靖国神社を参拝することは、純粋に日本国民の問題であり
他国がどうこう言える筋合いの事ではない。
参拝後記者会見での安倍総理の発言は
冷静で真摯で誠実な内容であり、頼もしく感じた。

マスコミは、予想通り、
「中韓を刺激するのはよくない」と主張し
テレビ各局は北京やソウルでの街頭インタビューまで流した。
各国の反応というのなら、
例えばインドやASEAN諸国も取材して、放映しろよ(怒)!
また、アメリカが否定的な反応だったと、実に嬉しそうだった。

本当に「偏向」している。

今回の靖国参拝によって、
安倍総理が周辺国の干渉に負けない強い意志と信念を持つリーダーであることが
はっきりと示されたと思う。
覚醒している日本国民は安倍総理への信頼感を強めた。
国際的(特定アジアを除く)にも安倍政権の日本への信頼感と評価を高めたはずだ。
靖国参拝を外交カードとして無力化することにも繋がるし
安倍総理の靖国参拝の意義は大きい。


ついでに、「戦犯戦犯」と言われることについて。

昭和27年(1952年)4月28日に主権を回復してすぐ
「戦犯とされた者を即時に釈放すべしという国民運動が発生し、
4千万人の日本国民の署名が集まった」
という事実と、そのことを受けて、国会において
「1952年6月9日「戦犯在所者の釈放等に関する決議」、
1952年12月9日「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」、
そして1953年8月3日、「戦犯」とされた者を赦免し、名誉を回復させる
「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が
社会党を含めて圧倒的多数で可決された。」
という事実を、
私たち日本国民は皆、きちんと知っておく必要がある。

つまり、当時を生きた私達の父母や祖父母は
戦時と戦後の占領期間を体験した上で
「戦犯とは、国のために働き戦勝国によるリンチにあった人々で、決して犯罪者ではないのだ」と
はっきりと認識していたのである。

当時を知らない私達は
戦後教育と偏向メディアによって
「あの戦争では指導者が加害者で国民は被害者だった」
と思い込まされてきた。
しかしそれは
国のために命をかけて戦って下さった祖先、
銃後で厳しい状況を生き抜いて下さった祖先への
「冒涜」だと私は思っている。

一人でも多くの人が
一日でも早く事実に気付いて欲しい。


-----ウイキペディアより抜粋
1952年6月9日「戦犯在所者の釈放等に関する決議」、1952年12月9日「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」、そして1953年8月3日、「戦犯」とされた者を赦免し、名誉を回復させる「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が社会党を含めて圧倒的多数で可決された。この議決は前年(1952年)に、戦犯とされた者を即時に釈放すべしという国民運動が発生し、4千万人の日本国民の署名が集まった事に起因する[9]。そして「恩給改正法」では受刑者本人の恩給支給期間に拘禁期間を通算すると規定され、1955年には「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」がされた。そうしてサンフランシスコ講和条約第11条の手続きにもとづき関係11か国の同意を得たうえで減刑による出所が順次、行われることになる。なお、日本政府はこの法について、刑の執行からの解放を意味すると解し、いわゆるA級戦争犯罪人として極東国際軍事裁判所において有罪判決を受けた者のうち「赦免」された者はいないが、減刑された者は10名(いずれも終身禁錮の判決を受けた者である。)であり、いずれも昭和33年4月7日付けで、同日までにそれぞれ服役した期間を刑期とする刑に減刑されたものとし、この法律に基づく「赦免」及び「刑の軽減」が判決の効力に及ぼす影響について定めた法令等は存在しないという見解を示している[10]。

A級戦犯として起訴されて死刑・終身刑・有期刑などの有罪判決を受けた人、裁判が途中で終了した人、不起訴になった人の大部分は、戦前に戦前の公職を務めたことに対して勲一等旭日大綬章を叙勲され、その叙勲は取り消されてはいない。
-----
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長男は同窓会

2013年12月21日 | 家族
中学のクラス会に出席するために長男が帰ってきた。

8:26のメールで
「12:05に小諸に着くんだけど、小諸迄来てくれる???」

例によって青春18切符を使い、
横須賀線、横浜線を乗り継ぎ、
八王子から中央線、小淵沢から小海線で小諸のルートだ。

夫と一緒に
資源ゴミのウィークエンドリサイクルに寄って、小諸駅まで迎えに行った。
11:50に駅に着き、15分間停車場ガーデンを散策。
小海線は定刻に到着し長男がやってきた。

家への途中にあるオラホでお昼ご飯を食べることにした。


レストランからの素晴らしい景色。晴天で気持ちがいい♪

ハンバーグランチを食べて、物産館で買い物をして
14:00帰宅。
長男のクラス会は18:45に駅集合だそうで
昨夜はほぼ徹夜で始発に乗った長男は、コタツで4時間仮眠。
布団の用意はしてあったのだけれど・・・。


次男はセンター試験の予行演習模試(?)で、
朝9:00前に会場のN大学まで車で送った。
18:00近くなって電車で帰ってきたのと入れ替わるように長男が出かけていった。


夜中の0時を過ぎても連絡がないのでメール。
「何時頃に帰ってくる?先に休むよ?」
0:39に返信があり、
「未だ終わらなそう。鍵は持っているから大丈夫。」
「了解です。気をつけて帰っておいで。おやすみなさい~」

結局、長男が帰宅したのは夜中の2時だったそうだ。
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告別式の日

2013年12月14日 | 家族
昨夜は通夜から戻って、
酒の回った夫が上機嫌で大演説をしたあげくに絡んできた。
いつものことなのに、何故か我慢ができなくなり
「いい加減にしてっ!」
と怒鳴って泣いて、怒りをぶちまけた。
夫も言い返してきたが、私の勢いに圧倒されて、折れた。

言いたいことをわめき切って、スッキリした。

この間、隣で次男がティッシュ10枚分くらい泣いていた。
30分ほどで口論が収まり
ところで何で泣いているの? と聞いた。

「怖かった・・・
お母さんがお父さんを怒鳴るなんて初めて見た・・・
お父さん泣くし・・・凄く怖かった・・・
ショックだった・・・」

え~~っ、そうなの?(笑)

確かに過去20年間、夫を怒鳴ったことなど無かった。
そもそも、私はそれほど腹を立てない気質なので。
まあ、次に怒鳴るのは20年後だろう(笑)。

そんなこんながあり、夜中の2時過ぎに就寝。


今朝は8時過ぎに起きて台所に立った。
キノコのバター炒め(シメジ、シイタケ、エノキ、マイタケ)をボール一杯。
キャベツをゆでて刻んで、缶詰のホタテと和える。
こちらもボール一杯。
今日も外食で繊維質が不足するから、皆で朝ご飯に食べよう。

起きた人から順次食べて、支度をして
12:00スタート
今日は昨日確認したルートで行ったので、スイスイと会場に着いた。

13:00から告別式。読経とお焼香。
棺にたくさんの花を入れて母にさようならを言った。
15:00マイクロバスで火葬場へ行き
16:00過ぎに火葬場を出て葬儀場に戻り
18:00前から精進落としの会食。
席が近くの姪達と色々話しができて楽しかった。

20:00にお開きになって、長女の車で実家に戻った。
次男がすぐに帰る長女に同乗して今夜は長女の所に泊まることになった。
長女達が出発するタイミングで弟が次姉の車で戻ってきた。
弟とその長女も今夜は実家に泊まる。

葬儀が滞りなく終わってほっとした。
弟は喪主として全てを取り仕切り、本当に大変だったと思う。
お疲れ様でした。
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お通夜の日

2013年12月13日 | 家族
昨夜は次姉と弟が来ていて、葬儀の段取りや納骨のことなど確認した。
亡父の時と同様に、家族葬となる。

今朝は、10:00を待って食材の買い出しに行った。
今日の昼食と明日の朝食昼食の分だ。
駅前のトーキューで買い物をしていると
「5%引きの券があるから持って行く。」と長男から電話があり
間もなく本当にやって来た。
何と堅実な(笑)。
試食のミカンが美味しかったので2袋。
他にも米やうどんやキノコ類など。
かなりの量になり、長男が自転車に積んでくれたので助かった。

帰宅して一息入れたところに、長姉が来た。
毎日、母のところに通って、マッサージや食事の介護を続けてくれた長姉。
感謝の気持ちを伝えた。

11:00に葬儀社の人が二人、母の旅支度を整えるためにやってきた。
長姉と私が立ち会った。
それは映画「おくりびと」の世界だった。
女性のかたは、こちらの希望を聞きながら、化粧を施したくれた。
男性のかたは、白繻子の着物を着せ、足袋と脚絆と手袋(?)を着けさせた。
足袋や脚絆のひもを結ぶのは長姉と私で
「長い旅の途中で解けることのないように」固結びでしっかりと結んだ。
手に数珠を持たせ、首に「頭陀(ずだ)袋」を掛けた。
小さなポシェットで、中には紙に書いた六文銭が入っているそうだ。
作業は15分ほどで終わった。

長姉が帰り、昼食にきつねうどんを作って
弟と長男と3人で食べた。
14:00に長女が車で到着した。
都内を抜けるの時間が掛かったそうだ。
昼食がまだだったので、きつねうどんを作って食べさせた。
(これを見越して、長女の分も揚げを煮ておいた。)

15:30葬儀社の人が母を迎えに来た。
弟と長女、長男と4人で見送った。

通夜は18:00からで、葬儀場までは30分みておけばいいだろう。
16:30に長女の車で藤沢駅そばの葬儀場に向かった。
ナビの言うとおりにしたらかなり混んだ道を行くことになり
17:15に到着。ちょっとひやひやした。

通夜には母が長くお世話になった特別養護老人ホームの方が4人来て下さった。
母の担当だった若い女の子が泣きっぱなしで
「一所懸命に母の世話をしてきてくれたんだなあ、
母の為にこんなに悲しんでくれるんだなあ。」
と思ったら、私も涙が止まらなかった。

それから会食。
会うのは亡父の葬儀以来の甥や姪も来ていて、懐かしかった。

15:00まで仕事を抜けられない夫と16:00まで学校だった次男は
17:30過ぎの新幹線に乗り、東京着19:12。
藤沢駅に20:22着なので、
長女の車で長男と私も同乗して駅まで迎えに行った。

20:30過ぎに会場に戻って宴会の続き。
次男とは小学生の時以来というメンバーが多く、
変貌ぶり?成長ぶり?がひとしきり話題をさらっていた(笑)。

23:00過ぎにお開きとなって、鎌倉の実家に帰った。
弟は義兄と二人で会場に泊まり、
今夜は我々家族5人だけが実家に泊まる。
2階の八畳間に布団を5枚敷きつめた。
長女が自分のシーツ、タオルケット、毛布、枕を持参してくれたので
寝具が足りて暖かく眠ることができた。


今日までずっと、ずだ袋とはトートバッグのような物だと思っていた。
調べてみて、本来の意味と母に持たせた事の意味が分かった。

---頭陀袋(ウィキより)------

“頭陀”(ずだ)とは、梵語のDhūta(ドゥータ、意味:払い落とす、棄捨)の漢訳音写であり、仏教の僧侶が行う修行(頭陀行、乞食の行)のことである。したがって、頭陀袋とは、本来この頭陀行を行う僧侶が、携行用に用いた袋のことであった。

別名として三衣袋(さんえぶくろ)、衣嚢(えのう)、打包(だほう)ともいわれる。これらは、もと比丘が山野を行脚する時に、僧伽梨(そうぎゃり)・鬱多羅僧(うったらそう)・安陀会(あんだえ)という3つの衣(三衣)が塵や埃、土で汚れないように入れたものである。したがって本来の用途はこれらの僧衣を入れるための袋であった。

しかし時代を経ると、これらの衣だけでなく行乞で供養してもらった物などや仏具なども入れるようになった。したがって、今日、運搬用で雑多な物を入れる袋を“ズタ袋”などというのはここに由来する。

また後世になって、仏式葬儀の際、死者の首から提げる袋も“頭陀袋”というようになった。これは、これから仏教修行の旅に出るという意味合いであり、白い布製の頭陀袋の中には、紙に描いた六文銭を入れる。
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母が逝きました

2013年12月12日 | 家族
日付が今日に変わった0時0分に携帯が鳴った。
義兄からだった。

「今し方、11時58分におかあさん、亡くなりました、」

覚悟はしていた。
とうとうその時が来たんだな、と思った。

義兄に礼を言って電話を切って、すぐに長男に電話したが、出ない。
(母を長男が住んでいる家に連れて帰ることになっている。)
続いて夫に電話したら、すぐに繋がって
母が亡くなったこと、今後の行動予定は明日決めることを伝えた。

こたつにいた次男が寄ってきたので
「おばあちゃん、鎌倉のおばあちゃん、亡くなったって。」
「うん」
少しの間、二人で黙り込んだ。

ぼーっとしてても進まない、そうだ髪を洗っておかなくちゃと
気を取り直して、入浴。
ゆっくりと湯につかりながら、これからやることを頭の中で整理した。
明日はいくつかの予定があるので、
それらを済ませてから夜に鎌倉に行こうと決めた。

1:15に長男から電話が入ったので、状況を話して
今からお葬式関係で大変だけれど、現地をよろしくと頼んだ。

---------------------------
朝になって、長女に電話。
通夜と葬儀の日程が決まっていないこと、決まり次第連絡すること
私は今夜遅くに鎌倉に行くことを伝えた。
次男にも同じく状況を説明して登校させた。

次男の喪服は中学校の時の制服をとってある。
しかしボタンが「高」でなく「中」なので、ボタンだけは付け替えて欲しいと言う。
うわぁ面倒くさっ。
ひらめいて長女の彼の喪服を借りることにした。

洗濯機を回してから、買い物に出かける。
次男のワイシャツと黒ネクタイ、売り場に並んでいた数珠と白のハンカチを買った。
ツ○ヤでは今夜からの次男用に弁当系を多めに買う。
輪徳さんで修理を頼んであった次男のビアンキを受け取り帰宅。
(修理代1000円)

1ヶ月前に母の容態が悪化したとき作った荷造りメモを見ながら
手早く荷造りを済ませた。
朝一番で鎌倉に行っている弟から
通夜が13日(金)で告別式が14日(土)に決まった旨電話で知らせてきた。
長女と次男にメールで知らせる。
長女は今日の午後と明日、仕事を休むことにしていた。
現地での足として、長女には車で来て貰うことにした。

15:00前に夫が帰宅。
16:30過ぎの新幹線で一緒に東京フォーラムへ。
前から5列目でコンサートを聴いた。
終演後、夫は明日の仕事のために帰宅し
私は鎌倉へと向かった。

22:45 鎌倉の家に到着。

母は彫刻のようにほっそりとした端正な、そして穏やかなお顔で
永い眠りについていた。
満89歳だった。
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