1597年2月5日に長崎の西坂の丘で26人のキリシタンが十字架にはりつけられ処刑されました。豊臣秀吉のキリシタン弾圧政策によるもので彼らはなんら悪いことをしたわけではありません。しかし彼らは最後まで強い信仰心を持ち、むしろキリストのために殉教することを望みました。この信仰心が、その後、江戸時代に続いたキリシタン禁教の時代にも親から子、子から孫へつ引き継がれ250年もの禁教の時代を耐え忍びながら続けられました。処刑された26人は1862年にローマ教皇ピオ9世によって聖人に列せられました。そして1865年に長崎の大浦に天主堂が建てられ、外国人司祭の前に信仰を守り続けたキリシタンが名乗って出ました。
「ここにおいでになる全ての人々よ、私の言うことをお聴きください。私はルソンの者ではなく、れっきとした日本人であってイエズス会のイルマンである。私は何の罪も犯さなかったが、ただ我が主イエス・キリストの教えを説いたから死ぬのである。私はこの理由で死ぬことを喜び、これは神が私に授け給うた大いなる御恵だと思う。今、この時を前にしてあなた達を欺こうとは思わない。人間の救いのためにキリシタンの道以外に他はないと断言し、説明する。キリシタンの教えが敵及び自分に害を加えた人々を赦すように教えている故、私は国王(秀吉)とこの私の死刑に拘わった全ての人々を赦す。王に対して憎しみはなく、むしろ彼と全ての日本人がキリスト信者になることを切望する」<日本26聖人・聖パウロ三木の最後の説教>(ルイス・フロイス「殉教記録」より)