笑顔の江川

薬害エイズを考える山の手の会のご案内
薬害被害者、がん患者の支援活動
尊敬する勝海舟や田中正造のコメント

人の出会いが笑顔を創るーがん哲学外来本郷通カフェ

2018-01-31 22:25:22 | 日記
今日はがん哲学外来本郷通カフェに参加しました。ここの名前は矢内原忠雄記念本郷通カフェー東京大学の総長であった矢内原忠雄が悩める学生のために本郷通にカフェを開き学生の相手をしたことを順天堂大学医学部教授の樋野興夫先生が本郷3丁目の訪問看護師さんと共にがん患者さんのために本郷通にがん哲学外来本郷通カフェを開きました。がん告知を受けた悩めるがん患者さんがカフェに集まったほかのがん患者さんとの対話の中から悩みを共有しながら心のゆとりが出来て笑顔を創りだしました。これががん哲学外来メディカルカフェです。がん哲学外来メディカルカフェは今、全国に140か所くらいあります。がん哲学外来メディカルカフェ:http://www.gantetsugaku.org/
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今年も始まりました薬害エイズを考える山の手の会

2018-01-30 22:43:13 | 日記
今日は飯田橋の東京ボランティア市民活動センターの会議室で今年最初の薬害エイズを考える山の手の会の例会を行いました。今日は少し早めに終わらせて近場でお食事をしながら語り合いました。HPVワクチン被害の話も出れば政治の話も消費税の話も、また歴史の話も出てきました。なんでもざっくばらんに語り合うのが山の手の会。継続は力なりー今年も活動を続けます。
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がん教育について考えるシンポジウムー文京区モデル

2018-01-29 22:16:10 | 日記
今日は文京シビックホールで行われた文京区教育委員会主催の公開シンポジウム「がん教育について考える」に参加しました。文京区では順天堂大学や都立駒込病院があることから区内の学校に出向いてがん教育を行っています。シンポジストとして区内の小学校の校長先生ががん教育についての取り組みを紹介しました。また順天堂大学医学部教授の樋野興夫先生や都立駒込病院の院長の鳶巣賢一先生ががん教育について具体的な事例を紹介しながらお話しされました。がん知識がないままにいきなりがん告知されると恐ろしさばかりが先に立ちますが、小さい頃からがん教育を受けることによって心の備えもできて、がんになった後の生き方も変わってくると思います。樋野先生が語られる「病気になっても病人にならない」生き方が備わってくるのでしょう。
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地域に根ざした渋沢栄一記念王子がん哲学外来メディカルカフェを進めて

2018-01-28 19:57:57 | 日記
今日は渋沢栄一記念王子がん哲学外来メディカルカフェ。寒さのせいか参加者のいつもより少なくスタッフの分かち合いになりました。王子の地域でのがん患者さんをはじめ家族の分かち合いの居場所づくりを進めていくためにざっくばらんな意見交換を行いました。良いアイデアも生まれ益々地域に根差した会にしていこうと話し合いました。人のつながりの大切さを感じたメディカルカフェでした。

次回の渋沢栄一記念王子がん哲学外来メディカルカフ:2月25日(日)13:30~15:30
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渋沢栄一と渋沢喜作

2018-01-27 20:50:35 | 日記
今日は夕方に平塚のほうで仕事があり東海道線の中からブログを書くことになりました。
今日は渋沢栄一と渋沢喜作についてお話ししたいと思います。渋沢栄一についてはご存知の方も多いと思いますが、日本資本主義の父と呼ばれ明治期に銀行をはじめ500社以上の会社設立に関わった実業家として知られています。渋沢喜作は渋沢栄一と同じ埼玉県深谷の出身で上野戦争で新政府軍と戦った彰義隊の頭取です。この二人は若い頃地元の深谷で尊王攘夷運動に関わり高崎城乗っ取りや横浜異人館襲撃を企てますが、未遂に終わり京都へ逃げます。京都で一橋家の用人に声を掛けられ奉公することになります。その主人である一橋慶喜が第15代将軍となり幕府を困らせようとした二人が幕臣となってしまいます。ここから二人の人生は変わっていきます。それは渋沢栄一がフランスからのパリ万博の招待状が徳川幕府に届き、将軍の名代として徳川慶喜の弟徳川昭武がフランスに行くことになり、その随行員として渋沢栄一が行くことになったのです。慶応3年1867年から慶応4年1868年4月まで渋沢栄一はフランスをはじめヨーロッパに滞在して西欧文明の様々なことを学ぶことになり、幕末の騒乱期は日本に居ないことになります。一方の渋沢喜作は正に騒乱期を幕臣として体験して彰義隊を組織してその頭取となります。上野戦争で新政府軍に敗れると戊辰戦争最後の砦である函館五稜郭まで榎本武揚の下で参戦します。戊辰戦争が終わると実業界に転じ事業を始めますがなかなかうまくいきませんでした。一方の渋沢栄一はヨーロッパの体験から日本で数々の新しい事業を起こし、実業界をはじめ教育界、社会福祉事業と幅広く活躍するようになります。渋沢栄一と渋沢喜作ー同年代で同出身で人生の途中まで一緒しながら一つの出来事をきっかけに、その後の人生が大きく変わっていきます。どんな人生でも様々な出会いがあり、それによって大きく変わったりもします。そのすべてはその人の生き方にあります。
東海道線の車窓から歴史上の人物の生き方を考えました。
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