笑顔の江川

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渋沢栄一の徳川慶喜に対する評価

2021-05-31 21:55:33 | 日記
「慶喜公のご性格については敬慕にたえないのは、維新のときに大政奉還を立派に覚悟されたこと。そして自身が京都(朝廷)からのお召しによって参内しようとしたとき、部下たちが鳥羽伏見で戦端をひらいたため、錦旗に発砲したというので「朝敵」の名をとられたときも、いっさい弁解もせず、負け惜しみもいわずにすぐさま江戸へ帰って謹慎恭順をあらわされたことです。
 あのとき、そもそも公が自分のために弁解される気持であったならば、公には他意がなかったとしても、その下にいる者は何とか理窟をいう気になって、天下は乱たかもしれません。当時、公は世間から『徳川の家を潰しに入った』とか、『命を惜しむ』とかさまざまな悪評を受けられたのを一切かえりみず、何のいい訳もされなかったばかりか、今日に至ってもこのことについては何もいわれません。これは実にその人格の高いところで、私の敬慕にたえないところです」(「渋沢栄一自伝」より)

徳川慶喜の評価は人によって様々です。あだ名も「剛情公」であったり「二心殿」であったりいろいろありました。渋沢栄一にとって徳川慶喜は尊王攘夷運動で幕府から追われ京で一橋家に救われた恩義は大きいでしょう。人はその人物との関係性で評価は変わってくるものです。
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人は艱難に身を置いて鍛えられていくー天璋院篤姫

2021-05-30 19:54:52 | 日記
最後の大奥を統べる天璋院篤姫は艱難の連続でした。天璋院篤姫はその場から逃げることなく自身の身をそこに置いて事に当たりました。江戸城明け渡しにおいても大奥を閉じ里である薩摩に帰ることなく徳川家存続に奔走し徳川宗家の跡継ぎをしっかりと育て上げ成長を見守ってこの世を去りました。「天璋院従三位敬順貞静大姉」の位牌は今でも別格だそうです。その生きざまは子々孫々受け継がれているのでしょう。
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慶喜の好物、べったら漬けを味わう

2021-05-29 20:12:18 | 日記
徳川慶喜はべったら漬けが好きだったそうです。晩年の慶喜はいろいろ楽しんでいたようです。今日はべったら漬けを味わいました。甘いものはストレスがたまった時にはスッキリとさせてくれます。
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活動の輪を広げてーHPVワクチン東京訴訟支援ネットワーク

2021-05-28 20:32:56 | 日記
本日は夕方からHPVワクチン東京訴訟支援ネットワークのオンライン例会でした。本年4月に6月議会に向けて地方自治体議員向け勉強会を開催して参加してくれた議員も本日新たに参加して次に向けての議論をしました.
さらに今日は原告被害者本人も参加しスモン薬害被害者や全国の原告、支援者も参加してくれました。お互いの活動を共有しながら6月7月8月とまたさらには9月の地方議会に向けても話し合い活動の輪を広げていきます。
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生きづらさはどの時代も同じー一人ひとりの気持ちで変わる

2021-05-27 21:22:46 | 日記
何もがシステムにはみこまれ自由意志がきかな生きづらさを感じる人も多いようです。世の中がギスギスしてたまに人がキレてしまう変な世の中のようにも感じますが、気持ちを入れ替えれば生きやすくもなります。この気持ちの入れ替えが上手な人物として私は天璋院篤姫を上げたいと思います。幕末の時代、武家社会の中で女性は自由意志などありません。嫁入り先も決められ政の道具に使われます。分家の娘が将軍御台所に。夫である将軍は2年足らずで亡くなり大御台所に。今度は里から攻められ倒幕。しかし自らの意思で倒れ掛かった徳川家を再興して徳川の心を子々孫々受け継いできました。天璋院篤姫がいなければ徳川家はなかったかもしれません。生きる希望を持ち続けた天璋院篤姫だからこそ出来たことです。
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