プロメテウスの政治経済コラム

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2010年度政府予算案 一定の前進と限界も見えた 「二つの聖域」は自公政権と同じ

2009-12-26 19:06:25 | 政治経済
鳩山内閣は25日、政権交代後はじめての予算編成となる2010年度政府予算案を閣議決定した。自公政権時代の反国民的な予算からの抜本的転換を期待した国民からみれば一定の前進とこの政権の限界も見えた予算案となった
民主党は雑多な勢力の寄り合い所帯であるがどの勢力も、新自由主義「構造改革」政治と軍事大国化を転換するオルタナティブな国家構想をもたない財源論で言えば、軍事費と大企業・大資産家減税という「二つの聖域」にどうしても切り込むことができない。巨額の借金(「国債」)と一時的な税外収入(「埋蔵金」)頼みでは、雇用や社会保障、中小企業など国民生活向け予算の拡充は国民の願いから見ればきわめて不十分なものとならざるを得ない。

 総選挙で民主党が大勝したのは、自公政権の新自由主義「構造改革」の政治を止めたいという国民の意思にあったことは明らかである。したがって国民は、政権交代後の初めての2010年度予算については、自公政権時代の反国民的な予算からの抜本的転換を期待した。鳩山首相は、なぜ選挙で大勝できたかが分かっているので「何よりも人の命を大切にし、国民生活を守る政治を実現するため」の予算だと見得を切った。
確かに、予算案には部分的には「構造改革」路線を改める中身が含まれている。子ども手当や「高校無償化」、診療報酬の増額、生活保護の母子加算の復活・継続や地方交付税の増額などである。しかし、例えば「医療崩壊」の原因の一つとなった診療報酬については、小泉内閣以降トータルで8%近くも削減されているにもかかわらず、本体部分で1・55%の引き上げにとどまった。これでは「医療崩壊」の阻止には、まったく不十分である。後期高齢者医療制度の廃止は見送られ、来年度には保険料値上げが予定されるなど、国民の強い願いである社会保障の抜本的な拡充は「先送り」された。雇用対策も、中小企業対策も、深刻な状況に対応したものになっていない。

 マニフェストの目玉だった子ども手当は、その財源として所得税と住民税の扶養控除の廃止が盛り込まれ、高校授業料「実質無償化」の財源は所得税・住民税の特定扶養控除縮というように折角、給付を受けてもその効果は減殺され、世帯によってはかえって負担増になる可能性もある。何故、このような中途半端なことになるのか。
民主党は、「財源は無駄を削れば確保できる」といってきたが、鳴り物入りで始まった行政刷新会議の「事業仕分け」でも、目標の3兆円には程遠い6000億円しか捻出できなかった。もともと「事業仕分け」自体、スーパー中枢港湾などの大型公共事業と軍事費を聖域にし、結局、切り込んだのは、社会保障、中小企業関連、文化科学関連の予算だった。税制「改正」でも、「租税特別措置の見直し」は小手先だけにとどまり、研究開発減税や証券優遇税制など大企業・大資産家減税も継続され、贈与税減税など資産家向けの優遇はさらに拡充された。

 5兆円規模の軍事費はまったく手がつかず、ヘリ空母やミサイル防衛、「思いやり」予算なども温存された。とくに、グアム移転をはじめとした米軍再編経費は、500億円近くも増額された。公共事業予算は削減されたが、多国籍大企業が望むスーパー中枢港湾などの大型事業予算は拡充された。結局、自公政権が「聖域」としてきた分野にはメスが入らないままであり、財界の「政権交代」に対する不安を一掃するものだった。
財界の反応が正直にことの真相を語っている。御手洗冨士夫日本経団連会長は鳩山税制「改正」について、「エコカー減税の延長、それから研究開発減税も据え置いてもらったし、私は評価しています」と絶賛している。

 自公政権の「聖域」にメスを入れず、マニフェスト(政権公約)を実行しようとするとどうしても無理が出る。どうやってマニフェスト施策の財源を確保するか迷走したあげく、「小沢裁定」でマニフェスト修正を決断して、やっと予算編成にこぎつけた。その現実は、44兆円という当初予算としては過去最高の国債発行に加えて、1年限りの「埋蔵金」にますます多くを依存する予算となった。このままでは、子ども手当、高速道路無料化などの新規施策も次年度以降の財源の保障はまったくなく、今回は先送りされた配偶者控除や成年扶養控除の廃止、消費税などの庶民増税がいつ復活するかわからない

 新自由主義「構造改革」によってもたらされた国民生活の困窮を立て直そうとすれば、押し込んできた階級権力を再びもとに引き戻すことがどうしても必要である。自公政権時代の反国民的な予算の抜本的転換をはかるためには、軍事費と大企業・大資産家減税という「二つの聖域」に切り込むことがどうしても必要である。「痛み」を押し付けた者がなんの痛痒も感じないような「転換」はありえないのだ

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