1933年(昭和8年)2月20日、プロレタリア文学の作家、小林多喜二は、詩人の今村恒夫とともに東京・赤坂福吉町の街頭で検挙され、わずか7時間後に築地署で虐殺された。多喜二の虐殺については、築地署の留置場にいて目撃した人や、遺体を見た人たちの多くの証言があり、作家・手塚英孝が『小林多喜二』に詳細に記録している。拷問の凄惨さは、安田徳太郎医学博士とともに遺体を検査した作家・江口渙が「作家小林多喜二の死」にリアルに描写している。
「…首には一まき、ぐるりと深い細引の痕がある。よほどの力で締められたらしく、くっきり深い溝になっている。そこにも、無残な皮下出血が赤黒く細い線を引いている。左右の手首にもやはり縄の跡が円くくいこんで血がにじんでいる。だが、こんなものは、からだの他の部分とくらべるとたいしたものではなかった。さらに、帯をとき、着物をひろげ、ズボンの下をぬがせたとき、小林の最大最悪の死因を発見した私たちは、思わず『わっ』と声をだして、いっせいに顔をそむけた…」
多喜二虐殺時の主犯格は警視庁特高部長・安倍源基、その配下で、虐殺に直接手を下したのが毛利基特高課長、中川成夫、山県為三両警部らである。
安倍は戦後、A級戦犯容疑で拘置されるが、占領政策の転換で釈放され、その後、右翼の結集体である新日本協議会を結成、児玉誉士夫らとともにCIA協力メンバーと目されるなど戦後政治の“陰”の存在として生きのびた。
毛利は戦前、“共産党壊滅に功あり”として勲五等旭日章をもらい、異例の出世をとげる。終戦直後に埼玉県警察部長を退職したが、東久邇内閣から「功績顕著」として特別表彰さえうけている。
中川は築地署長まで出世し、戦後46年に東京滝野川区長をやめた後、東映取締役興行部長となり『警視庁物語』シリーズなどを全国上映。一方、北区で妻に幼稚園を経営させ、これを背景に64年には東京北区教育委員長になった。
山県は43年に東京府会議員となり、戦後は丸の内署長時代に知りあったビフテキ店「スエヒロ」社長から店名を借り「スエヒロ」を開業、74歳で死亡するまでその経営にあたった。
あーまたこの二月の月かきた ほんとうにこの二月とゆ月か いやな月こいをいパいになきたい どこいいてもなかれない あーてもラチオてしこしたしかる
あーなみたかてる めかねかくもる
(あ―、またこの二月の月がきた。本当にこの二月という月はいやな月。声をいっぱいに泣きたい。どこにいっても泣かれない。あ―、でもラジオで少し助かる。あ―、涙が出る。メガネがくもる )
当時、文字を書けない母親たちが、治安維持法違反等で監獄に入れられている息子に手紙をかくために必死で文字を学んだと言われている。上の詩は、多喜二の母、小林セキさんの哀切極まる詩である。セキさんは秋田生まれであった。
現在、安倍首相官邸が、米下院に提出されている従軍慰安婦問題で、日本政府に謝罪を求める決議案に神経をとがらせているという。自民党の「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」(会長・中山成彬元文部科学相)は、「河野洋平官房長官談話」見直しの提言を近くまとめ首相に提出する予定である。
マイク・ホンダ議員が問うているのは、歴史問題を直視しない曖昧な日本政府の態度であり、歴史問題における和解とそれによる前進のあり方なのだ。
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