プロメテウスの政治経済コラム

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ソマリア沖への海自派兵をどう考えるか 「体現平和主義」、「平和憲法主義」、「平和主義」

2009-01-09 19:30:11 | 政治経済
アフリカ東部ソマリア沖での海賊対策を口実とした海上自衛艦派兵の動きが急である。政府は当面、現行自衛隊法82条に基づく「海上警備行動」を発令して海上自衛隊護衛艦の派兵を急ぐ意向だが、この場合、正当防衛などを除いた武器使用に制限がある。東京裁判に始まって、憲法、安保、自衛隊、靖国など日本の戦後体制には、論理が一貫しない“ネジレ”があるために、これらが問題となるたびに議論が百出する。自衛隊海外派兵の実績を積み上げるという思惑から、とにかく派兵ありきで対応しようとする右よりの人びと。一方、自衛隊派兵は絶対ダメだという立場から、とにかく派兵に反対する左よりの人びと。議論が混戦したときには、とにかく原点に戻って考えることだ私は、「体現平和主義」、「平和憲法主義」、「平和主義」という3つの概念を故小田実さんから学んだ(小田実『戦争か、平和か 「9月11日」以後の世界を考える』大月書店2002)。

政府の対応をみていると、自衛隊派兵論は、欧州諸国に続き、中国が海軍を派兵することになって、急速に加速した。中国への対抗意識が先にあって、日本の船舶がどうかなんていうのは二の次のような気がしてならない
いまさら指摘するまでもなく、自衛隊の海外派兵に問題があり、いろいろ制限があるのは、日本の「平和憲法」が厳然と立ちはだかっているからである。

明治以来、戦争に明け暮れて来た私たち日本人は、「殺し、焼き、奪う」血なまぐさい歴史を中国その他のアジアの人びとに押し付け、あげくの果てに今度は自分たちが「殺され、焼かれ、奪われる」歴史を持つことになった。こうして私たち日本人は、もう戦争はこりごりだ、戦争にはどんな正義もないという実感をもった。そのような私たちにとっては、戦争、軍隊の否定、どんなことがあっても問題の解決に武力、暴力は用いないという「平和主義」は当然の選択であった。こうして「平和主義」を基本にした新しい「平和憲法」を制定したそして、あれだけの悲惨な第二次世界大戦を体験したのだから、世界全体の人間にとっても、「平和主義」が当然の常識だと考えた。しかし、日本の「平和憲法」は世界史に先駆的役割を果たしたが、残念ながら「平和主義」は今日まで世界の常識とはなっていない。世界の他の国は、「平和憲法」をもたず、戦争も、正しい(と自らがみなす)戦争なら、やってもいい、そのために軍隊も当然にもつ、というのがむしろ「ふつうの国」ということになった。

私たちは、自分の国は世界の他の国と同様の「ふつうの国」だと思っているが、「平和主義」を基本にした「平和憲法」をもつ特異な国であるということをまず認識の出発点に据えなければならない。だから、EUや中国がソマリアに派兵したといってなにも慌てることはない。特異の国には、「ふつうの国」とは違ったやり方があるからである。ソマリアのケースでいえば、ソマリアの内戦が漁民を海賊化させているのだから、ソマリアの内戦終結に役立つ民生支援や周辺国への警察活動支援など日本として貢献する道はある。

日本人の「平和主義」は、残念ながら深く考えた上での、思想としての「平和主義」ではなかった。まさにからだで体験した、体験そのものから生まれて来た「平和主義」を体現しているという意味で「体現平和主義」であった。「体現平和主義」は、体験に根付いているから、戦争はいやだ、断固拒否するという強さがある。しかしそれは、どうしても一個人、また一世代の体験だけに依拠するものだから次の世代、次の次世代に伝達することが困難である。戦争を知らない若者が、歯切れがよくて威勢がいい右翼的言辞に簡単に共感するのは、そのためである。

私たちは、「体現平和主義」の思想化、原理化に十分に努力してきただろうか。体験は、思想として、また原理としてしてしか、次の世代に大きく広がるものとして伝えることはできない。 「平和主義」が世界の趨勢ではあるが、まだあまねく世界の常識ではないことを日本人が最初につきつけられたのは、湾岸戦争のときだった。フセインの蛮行に対して、「世界の民主主義国がこぞって戦争―この正義の戦争に立ち上がっているときに何もしないでいることが許されるのか」と言われ、慌てて巨額の戦費を出したが、さらにそれでいいのか、血を流さないでいいのかと言われた。日本は「平和主義」の特異な国だということを世界に主張するのではなく、戦争できる「ふつうの国にしろ」という声が、アメリカや財界、一部の政治家からだんだんと大きくなってきた。何故こんなことになるかというと、日本の「平和主義」が、もはや観念の世界だけのことで、戦争放棄、軍備全廃を取り決めた、そのはずの「平和憲法」の下で、すでに世界第二位とか第三位とか言われるほどの軍事予算を背景にした軍隊を「自衛隊」の名の下に日本はもっているという現実があるからである。「体現平和主義」も思想化・原理化されることなく、徐々に風化しているからだ

「平和主義」と「平和憲法」の現実とのネジレが解消されない限り、ただ「平和憲法」を守れという「平和憲法主義」は「平和主義」を思想化したことにはならない。しかし、私は「平和憲法主義」をバカにするつもりはない。原理、中身がどうであれ、「平和憲法」にすがることは、「平和主義」の世界化・普遍化という未来につながるものだからである。

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