プロメテウスの政治経済コラム

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集団的自衛権「研究」  自民党新憲法草案で隠した「集団的自衛権」復活の矛盾

2007-05-20 21:23:48 | 政治経済
集団的自衛権とは、自国と密接な関係にある外国が攻撃された時、自国が直接攻撃されていなくても自国への攻撃とみなし、実力で阻止する権利のことである。憲法と日米安保条約との矛盾の整合性をとるために、政府はこれまで、日本は憲法9条のもとで必要最小限の自衛権しか行使しない、集団的自衛権はその範囲を超えるから、行使は許されない、という解釈を続けてきた。しかし、この限界は、小泉政権が強引に自衛隊をイラクに派遣して白日の下に晒された。小泉首相は、「非戦闘地域」という架空の概念を持ち出した上に、「非戦闘地域」がどこかと聞かれて「私に聞かれたって分かるわけがない」「自衛隊がいるところが非戦闘地域」と開き直ったのである。

集団的自衛権という概念は、戦後、国連の統制を受けないで、米ソが自らの勢力圏を維持しようとして、強引に国連憲章に挿入された。『自衛』という言葉があるから、どこからか攻撃を受けた場合のことではないかという語感があるが、無力な国連安保理をしり目にしたアメリカのベトナム侵略戦争、ニカラグアへの侵略、旧ソ連のアフガニスタンへの侵略など、すべて集団的自衛権の行使という名目が使われた。つまり、米ソなどが自らの侵略行為を合理化するために使ってきた論理なのだ。

安倍がいくら、日米同盟を“血の同盟”と呼び、アメリカのために血を流すことが、イコール・パートナーと叫んでも、9条が存在する限り、世界のどこでも米軍とともに共同軍事作戦を展開するような集団的自衛権の「研究」は不可能である。そこで、安倍は、集団的自衛権の行使について、次の四類型を個別事例ごとに検討することを要請した。(1)米国などに向かう可能性のあるミサイルの迎撃(2)自衛艦と公海上で並走している米艦船が攻撃された場合の応戦(3)PKO(国連平和維持活動)などで、外国部隊が攻撃された際の反撃(4) PKOなどの参加国への後方支援としての武器輸送(武力行使と一体化しないという要件を取り外しての)―の四類型である。
1)、(2)は明らかに北朝鮮のミサイル防衛での日米軍事一体化を目指したものであり、(3)、(4)は「PKOなど」としているが、米軍中心の多国籍軍を想定したイラク、アフガンを念頭においたものである。

安倍首相は、有識者会議の「研究」結果を受けて、「安全保障基本法」などで「集団的自衛権」の限定的行使の道を開き、とりあえず当面の米軍の要求に応えつつ、明文改憲によって、全面的に米軍との軍事共同作戦を可能とする枠組みをつくり、再度「安全保障基本法」の改正へと進む腹のようだ。しかし、そのようなもくろみは、改憲の目的が9条改定による「集団的自衛権」の行使であること衆目を集めてしまうことになる。
一昨年10月28日に発表された自民党「新憲法草案」は、3分の2合意を得やすいような工夫をほどこしていた。9条の「改正」の部分でも、「集団的自衛権」というような「恐ろしい」言葉を使うのをやめ、代わりに「自衛軍」を明記した上で、自衛軍の任務として「国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動」に参加できると書いたのである。これは、国連決議があろうとなかろうと「国際社会の平和と安全の確保」のためなら、そして「国際的に協調して行われる」活動なら、派兵しても結構ということであり、アメリカの有志連合に参加できることを「集団的自衛権」という言葉を使わないで言い表すことで公明、民主の顔を立てる工夫をしたものであった(渡辺治「自民党新憲法草案の登場と改憲問題の新段階」『ポリティーク第11号』2006)。

しかし、安倍首相は、「集団的自衛権」を正面にすえてしまった。公明、民主がどうでるか注目されるところである。安倍首相一派は、集団的自衛権の行使について「日米軍事同盟における双務性を高めてこそ日本の発言力は増す」というのが口癖である。しかし、日本がいくら米軍に尽くしても日本の発言力が増すこなどあり得ない。自分たちの立場をよくするために日本国民の財産や人命を犠牲にすることはやめてもらいたい。ほっといても、米国が日本を手放すことは絶対にない。

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