プロメテウスの政治経済コラム

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御手洗経団連1年 5/23朝日社説はなにを言いたいのか 巻き返しに負けてはならない

2007-05-23 20:48:08 | 政治経済
「御手洗経団連―三兎追うのは無理がある」という朝日社説(5月23日)は、「国全体の公益、産業界の利益、そして個々の企業の社益―― この三つを同時に実現するのは難事業だ。どれか一つを貫くには、別の何かを犠牲にすることになる。追求するものも、社会的公平や競争力確保、顧客や株主、社員の幸福と、それぞれ異なり、時には対立も余儀なくされる。そんな離れ業を試みているのが、日本経団連会長をつとめて1年の御手洗冨士夫氏だ」とあたかも経団連会長は政治的中立だという。アホか。

日本社会には、対立関係をなるべく表ざたにしたくない、正面に据えないという前近代的共同体的な思考習慣が根強くある。対立関係を認めない考え方は、戦前の天皇制に由来する。「日本は天皇を中心としたひとつのまとまった国家であり、みな天皇の子どもである。この中に対立はない。階級対立はとんでもない」というわけである。集団内部の利害の対立を認めないという考え方はファシズムにつながる。対立関係を認めないところには、本当の意味での権利・義務もない。明治憲法下の日本では、「法律」はあったが、権利・義務という意味での「法」はなかった社会のなかの階級、対立関係の存在を認めるならば、政治的中立はありえない。国民主権ということは、一人ひとりが政治の当事者ということであるから、第三者はいない。国民は誰もが何らかの政治的立場を持っているということであるから、国民主権という原則からは政治的中立という考え方が出てくる余地はない。
ところが日本では、「どの立場にも属さない」政治的中立が通用するかのように「かたよらない」ことがいいことだなどと平気で語られる。自分の政治的立場を明らかにして行動しない、「かたよらない」―これは結局は、支配階級・特権階級の立場を是認することだ(渡辺洋三『新版日本国憲法の精神』新日本新書2000)。


1年目の御手洗経団連は、残業代ゼロ法案といわれたホワイトカラー・エグゼンプションや法人税の減税要求という露骨な企業支援策を政治に持ち込もうとした。こうした「企業エゴ」に対する世論の批判の高まりのなかで、安倍政権はとりあえず後に引いた。“靖国派”の安倍には、構造改革より教基法改悪や、改憲手続き法案のほうにより関心があったのかもしれない。御手洗会長は、「大企業が何かわがままを言っているような社会的な風潮があった」(5月7日の会見)と悔しがった(「しんぶん赤旗」5月22日)。
しかし、財界は転んでもただでは起きない。政府の規制改革会議(草刈隆郎議長)の再チャレンジワーキンググループ(専門委員会)は21日、労働法制の規制撤廃を盛り込んだ意見書を発表した。
報告書は、「労働者の権利を強めれば労働者の保護が図られるという考え方は神話であり、間違っている」と指摘。「誰にでも開かれた市場にすることが格差の是正や労働者の保護、企業活動を活性化する」として、規制の全面撤廃を求めた。労働者と企業がなんの規制もない自由市場で一対一で相対することがいいことだと時計の針を一気に百年以上戻してしまった。最低賃金の引き上げは「賃金に見合う生産性を発揮できない労働者の失業をもたらす」と反対。解雇規制も「非正規雇用へのシフトを誘発し、労働者の地位をぜい弱なものにする」と反対。女性労働者の権利強化も「雇用を手控えるなど副作用を生じる」とことごとく否定した(「しんぶん赤旗」同上)。

労働者階級は、資本家と癒着した国家権力による血の弾圧をはねのけて労働法制を確立してきた。社会の法、ルールは何のためにあるか。それを一言でいえば、弱い者の利益を守るためにあるのだ。力の強いものが、自分の要求だけを押し付けたり、実力を行使することは文明社会ではない。
労働者階級は、マスコミも抱き込んだ巻き返しに負けてはならない。

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