というわけで、「パソコン」問題はとりあえず解決。
それで、3.11の2周年なのだが、なんだろうねえ、あの「一本松」は。
私は以前から、どう見ても、あれは「希望の象徴」ではなく、「絶望の象徴だろう」と思うといい続けてきたのだが、あの「ミイラ化作業」に熱を上げているところは、金正日のミイラに大金をかけて拝んでいる北朝鮮人民を笑うわけにはいかないと思う。
しかし、なんでもミイラにした古代エジプトも、猫や鳥のミイラは作ったらしいが、さすがに植物のミイラはつくっていないはず。
本当にあきれてものも言えないが、金額は数億円かかっていると、ニュースで取り上げられ、「首をかしげている人」の表情を映してていたが、結果的には完全に番組のアリバイ作りで、「多くの人は支持しているし、あれを希望の象徴と思えない人は、主観の違いだから、しょうがない」で済ましている。
でも、これが問題なのだ。
ドラマというか、記号というかは、それを見る人に「単一な視点」を要求するのではなく、すべての人が、夫々、別の視点で見るところに「可能性」が、すなわち人間による「創造」が可能になる。
それを無視して、単一の視点で見るように要求するのが日本のドラマで、黒澤の映画なんかも基本はそれなので、時々見ていてイヤになるのだが、でも、黒澤生来の「創造力」みたいなものがあるので、それにもかかわらず、「多様な視点」をもたらすので「名画」と言われているのだと思う。
問題はそれが方法として確立していないことで、だから、相米の「台風クラブ」をデニーロが絶賛しても、相米の映画の方法論は「相米映画」で終始してしまう。
まあ、相米の場合は、それでもかなり「方法化」してはいると思うけど(「長まわし」とか、かなり表面的だけれど)。
なんだか、話がまたそれてしまったが、何を言いたかったかというと、月曜日の「テレビタックル」で、被災地の二重ローン問題をとりあげていたので、それについて。
二重ローンとは、津波に遭遇し、家はないのに、ローンだけ払っているという状態のことを言う。
ローンを組むということは、家を担保として提供しているということで、その担保物件がなくなってしまったので、ローンだけ残ってしまった。
……という風に理解している人がいるとしたら、そうではない。
番組では、どう理解していたのかわからないが、顔を真っ赤にして怒っていた大竹まことは、「ない家に金を払うとはどういうことだ!」と怒っていたようなので、多分、そう理解していたのだろうが、そうではない。
これは、リコースローンと言って、日本の住宅ローンのすべてがそうなのだが、ローンを払えなくなった場合、担保の家を処分してもなお残債が残っている場合、それもはらわなければならない、とはじめから決まっているのだ。
これに対し、アメリカは「持ち家政策」の元祖のような国だが、その住宅ローンはノンリコースローンといって、ローンの担保となっている家を明け渡せば、その時点でローンは終了する。
つまり、家は失うが、ローンは残らない。
以前、「月光」でこの問題を調べたとき、ある銀行員のやっているブログで質問してみたら、「個人的にはリコースローンはおかしいと思うが、現実には、日本には中古住宅市場がほとんどないので、ノンリコースローンが普及するのは難しい」という返事をもたった。
それは、今から7,8年前だったが、その後、時々リコ-ス、ノンリコースという言葉はよく耳にするようになったが、「テレビタックル」でまったく触れられていなかったことからすれば、まだまだ認識はないのだと思った。
一部では、ノンリコースにすると、モラルハザードを起こすとか言う人もいるが、「家」という施設は何ものにも換え難いもので、ローンを払うのがイヤになったからとか、そんな理由で「家」を失うなんてリスクを犯すはずがない。
実際、住宅ローンの返済率は、97パーセントとか聞いたことがあるが、きわめて高く、「モラルハザード」の心配はないと言っていいだろう。
それはともかく、「担保」という言葉の概念からして、担保を接収してなお、リコース、つまり遡及がゆるされるなんて、変な話だし、融資する側としては、それくらいのリスクは取れよ、と言いたいが、せめてノンリコースとリコースの二つの選択肢を提供し、「リコースは利息は低いが、失業とか、いざというときは不安なら、ノンリコースは少し利率が高くなりますが、安心です。どっちにしますか」くらいのことは言ったらどうか。
しかし、もっと言いたいことは、マスコミはこれくらいのことは勉強しておけよ、と言いたい。さもなければ「問題」がどこにあるか、それがわからなければ、問題は解決なんかしないのだ。
それで、3.11の2周年なのだが、なんだろうねえ、あの「一本松」は。
私は以前から、どう見ても、あれは「希望の象徴」ではなく、「絶望の象徴だろう」と思うといい続けてきたのだが、あの「ミイラ化作業」に熱を上げているところは、金正日のミイラに大金をかけて拝んでいる北朝鮮人民を笑うわけにはいかないと思う。
しかし、なんでもミイラにした古代エジプトも、猫や鳥のミイラは作ったらしいが、さすがに植物のミイラはつくっていないはず。
本当にあきれてものも言えないが、金額は数億円かかっていると、ニュースで取り上げられ、「首をかしげている人」の表情を映してていたが、結果的には完全に番組のアリバイ作りで、「多くの人は支持しているし、あれを希望の象徴と思えない人は、主観の違いだから、しょうがない」で済ましている。
でも、これが問題なのだ。
ドラマというか、記号というかは、それを見る人に「単一な視点」を要求するのではなく、すべての人が、夫々、別の視点で見るところに「可能性」が、すなわち人間による「創造」が可能になる。
それを無視して、単一の視点で見るように要求するのが日本のドラマで、黒澤の映画なんかも基本はそれなので、時々見ていてイヤになるのだが、でも、黒澤生来の「創造力」みたいなものがあるので、それにもかかわらず、「多様な視点」をもたらすので「名画」と言われているのだと思う。
問題はそれが方法として確立していないことで、だから、相米の「台風クラブ」をデニーロが絶賛しても、相米の映画の方法論は「相米映画」で終始してしまう。
まあ、相米の場合は、それでもかなり「方法化」してはいると思うけど(「長まわし」とか、かなり表面的だけれど)。
なんだか、話がまたそれてしまったが、何を言いたかったかというと、月曜日の「テレビタックル」で、被災地の二重ローン問題をとりあげていたので、それについて。
二重ローンとは、津波に遭遇し、家はないのに、ローンだけ払っているという状態のことを言う。
ローンを組むということは、家を担保として提供しているということで、その担保物件がなくなってしまったので、ローンだけ残ってしまった。
……という風に理解している人がいるとしたら、そうではない。
番組では、どう理解していたのかわからないが、顔を真っ赤にして怒っていた大竹まことは、「ない家に金を払うとはどういうことだ!」と怒っていたようなので、多分、そう理解していたのだろうが、そうではない。
これは、リコースローンと言って、日本の住宅ローンのすべてがそうなのだが、ローンを払えなくなった場合、担保の家を処分してもなお残債が残っている場合、それもはらわなければならない、とはじめから決まっているのだ。
これに対し、アメリカは「持ち家政策」の元祖のような国だが、その住宅ローンはノンリコースローンといって、ローンの担保となっている家を明け渡せば、その時点でローンは終了する。
つまり、家は失うが、ローンは残らない。
以前、「月光」でこの問題を調べたとき、ある銀行員のやっているブログで質問してみたら、「個人的にはリコースローンはおかしいと思うが、現実には、日本には中古住宅市場がほとんどないので、ノンリコースローンが普及するのは難しい」という返事をもたった。
それは、今から7,8年前だったが、その後、時々リコ-ス、ノンリコースという言葉はよく耳にするようになったが、「テレビタックル」でまったく触れられていなかったことからすれば、まだまだ認識はないのだと思った。
一部では、ノンリコースにすると、モラルハザードを起こすとか言う人もいるが、「家」という施設は何ものにも換え難いもので、ローンを払うのがイヤになったからとか、そんな理由で「家」を失うなんてリスクを犯すはずがない。
実際、住宅ローンの返済率は、97パーセントとか聞いたことがあるが、きわめて高く、「モラルハザード」の心配はないと言っていいだろう。
それはともかく、「担保」という言葉の概念からして、担保を接収してなお、リコース、つまり遡及がゆるされるなんて、変な話だし、融資する側としては、それくらいのリスクは取れよ、と言いたいが、せめてノンリコースとリコースの二つの選択肢を提供し、「リコースは利息は低いが、失業とか、いざというときは不安なら、ノンリコースは少し利率が高くなりますが、安心です。どっちにしますか」くらいのことは言ったらどうか。
しかし、もっと言いたいことは、マスコミはこれくらいのことは勉強しておけよ、と言いたい。さもなければ「問題」がどこにあるか、それがわからなければ、問題は解決なんかしないのだ。