パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

ローンは続く~よ、ど~こまでも「苦役列車ローン編」

2013-03-13 22:23:34 | Weblog
 というわけで、「パソコン」問題はとりあえず解決。

 それで、3.11の2周年なのだが、なんだろうねえ、あの「一本松」は。

 私は以前から、どう見ても、あれは「希望の象徴」ではなく、「絶望の象徴だろう」と思うといい続けてきたのだが、あの「ミイラ化作業」に熱を上げているところは、金正日のミイラに大金をかけて拝んでいる北朝鮮人民を笑うわけにはいかないと思う。

 しかし、なんでもミイラにした古代エジプトも、猫や鳥のミイラは作ったらしいが、さすがに植物のミイラはつくっていないはず。

 本当にあきれてものも言えないが、金額は数億円かかっていると、ニュースで取り上げられ、「首をかしげている人」の表情を映してていたが、結果的には完全に番組のアリバイ作りで、「多くの人は支持しているし、あれを希望の象徴と思えない人は、主観の違いだから、しょうがない」で済ましている。

 でも、これが問題なのだ。

 ドラマというか、記号というかは、それを見る人に「単一な視点」を要求するのではなく、すべての人が、夫々、別の視点で見るところに「可能性」が、すなわち人間による「創造」が可能になる。

 それを無視して、単一の視点で見るように要求するのが日本のドラマで、黒澤の映画なんかも基本はそれなので、時々見ていてイヤになるのだが、でも、黒澤生来の「創造力」みたいなものがあるので、それにもかかわらず、「多様な視点」をもたらすので「名画」と言われているのだと思う。

 問題はそれが方法として確立していないことで、だから、相米の「台風クラブ」をデニーロが絶賛しても、相米の映画の方法論は「相米映画」で終始してしまう。

 まあ、相米の場合は、それでもかなり「方法化」してはいると思うけど(「長まわし」とか、かなり表面的だけれど)。

 なんだか、話がまたそれてしまったが、何を言いたかったかというと、月曜日の「テレビタックル」で、被災地の二重ローン問題をとりあげていたので、それについて。

 二重ローンとは、津波に遭遇し、家はないのに、ローンだけ払っているという状態のことを言う。

 ローンを組むということは、家を担保として提供しているということで、その担保物件がなくなってしまったので、ローンだけ残ってしまった。

 ……という風に理解している人がいるとしたら、そうではない。

 番組では、どう理解していたのかわからないが、顔を真っ赤にして怒っていた大竹まことは、「ない家に金を払うとはどういうことだ!」と怒っていたようなので、多分、そう理解していたのだろうが、そうではない。

 これは、リコースローンと言って、日本の住宅ローンのすべてがそうなのだが、ローンを払えなくなった場合、担保の家を処分してもなお残債が残っている場合、それもはらわなければならない、とはじめから決まっているのだ。

 これに対し、アメリカは「持ち家政策」の元祖のような国だが、その住宅ローンはノンリコースローンといって、ローンの担保となっている家を明け渡せば、その時点でローンは終了する。

 つまり、家は失うが、ローンは残らない。

 以前、「月光」でこの問題を調べたとき、ある銀行員のやっているブログで質問してみたら、「個人的にはリコースローンはおかしいと思うが、現実には、日本には中古住宅市場がほとんどないので、ノンリコースローンが普及するのは難しい」という返事をもたった。

 それは、今から7,8年前だったが、その後、時々リコ-ス、ノンリコースという言葉はよく耳にするようになったが、「テレビタックル」でまったく触れられていなかったことからすれば、まだまだ認識はないのだと思った。

 一部では、ノンリコースにすると、モラルハザードを起こすとか言う人もいるが、「家」という施設は何ものにも換え難いもので、ローンを払うのがイヤになったからとか、そんな理由で「家」を失うなんてリスクを犯すはずがない。

 実際、住宅ローンの返済率は、97パーセントとか聞いたことがあるが、きわめて高く、「モラルハザード」の心配はないと言っていいだろう。

 それはともかく、「担保」という言葉の概念からして、担保を接収してなお、リコース、つまり遡及がゆるされるなんて、変な話だし、融資する側としては、それくらいのリスクは取れよ、と言いたいが、せめてノンリコースとリコースの二つの選択肢を提供し、「リコースは利息は低いが、失業とか、いざというときは不安なら、ノンリコースは少し利率が高くなりますが、安心です。どっちにしますか」くらいのことは言ったらどうか。

 しかし、もっと言いたいことは、マスコミはこれくらいのことは勉強しておけよ、と言いたい。さもなければ「問題」がどこにあるか、それがわからなければ、問題は解決なんかしないのだ。

「踊る大捜査線」は日本映画の何を変えたのか

2013-03-02 03:13:42 | Weblog
 本屋で、『「踊る大捜査線」は日本映画の何を変えたのか』という幻灯舎新書を立ち読み。

 「踊る大捜査線」は、初日、徹夜で並ぶ人が出るほどの「事件」とすら言われた大ヒットだそうで、それが後の、つまり現在の日本映画の好調さにつながっているらしい。

 私は『踊る大捜査線』についてはテレビも映画も見ていないし、「好調な日本映画」というのも、見たのは『海猿』と『3丁目の夕陽』のさわりをほんの少しだけテレビで見たことがあるだけ。

 2、3日前にも『3丁目の夕陽』をやっていたが、「じっくり見てやろう」という気分は全く起こらず、すぐにチャンネルを変えた。

 10数年前、「11宮」で日本映画特集をやったときは、相米慎二を筆頭に優れた才能が多数いることに驚いたのだったが(相米を例に出すのは、私のあまりの無知をさらけ出すようで恥ずかしいが、ロバート・デ・ニーロが「『台風クラブ』を見たか」といっているくらいなので書いておきます)、今回の「日本映画の復活」にはどうも興味が持てないでいる。

 さて、『「踊る大捜査線」は日本映画の何を変えたのか』は、監督、プロデューサー、シナリオライター、宣伝、テレビ局などの関係者に対するインタビューが中心で、編著は「日本映画専門チャンネル」となっていた。

 この編集スタイルはなかなかいいと思うが、中にシナリオライターの荒井晴彦がいた。

 しかし、荒井は『踊る大捜査線』の批判者として登場している。

 荒井は、実際には『踊る大捜査線』というより、それ以後の日本映画を総じて批判しているわけだが、どう批判しているかというと、要するに、「なんであんなのが面白いのだ?」につきていた。

 曰く、ともかく見ていてつまらないと自分は思うのだが、一緒に見に行った女性に「どこが面白いのか」と聞いたら「面白いと思う人もいるのよ」と言われ、黙ってしまったが、彼女自身は、それなりに楽しんだらしかった、云々と。

 それで、荒井晴彦ではない、別の誰かだったと思うが、小津安二郎の戦前のサラリーマンものを例に引き、小津映画のサラリーマンは、自分のサラリーマン生活を批判し、嫌っているというのがドラマの基本になっているが、制作者である小津監督自身は、サラリーマン生活を経験しているわけではないのに対し、『踊る大捜査線』以後の日本映画では(『踊る大捜査線』の場合は「仕事場」としての湾岸警察署ということになるが)公的、私的ともども、自分の生活を一切批判せず、受け入れているのが特徴的だと言う。

 これは『踊る大捜査線』を批判しているのではなく、むしろ擁護しているので、多分荒井晴彦の発言ではないと思うのだが、もし荒井の発言だったら、「あまり批判ばかりなのもなんなので」と、本の意図に合わせて、小津の例を出したのかもしれない。

 それはともかく、この発言で、「なるほど! 少し見えてきたぞ」と思ったのだった。

 というのは、少し前に触れたことだけれど、江戸時代の文化、特に「悪場所」の研究で有名だった広末保という人が、10年以上前、「グラフィケーション」で、当時、江戸文化が注目されつつあったことに、広末氏は、かつて石川淳などが江戸を題材に小説を書いたのは、今、自分たちが生きている社会に対する不満、批判を江戸の風俗描写に託していた。

 ところが昨今の江戸ブームは、そのような「現実」に肉薄した動機はなく、ただ江戸が好きだからというだけでしかない、と言うのだ。

 はるか200年前の江戸時代に対する興味も、今、自分たちが経験している「現実」に根拠をもたない限り、単なるオタク的趣味でしかないというわけだ。

 この広末氏の「論理」は、『踊る大捜査線』に代表される現在の日本映画の「人気」につながる。

 小津がサラリーマン生活をしたことがなくても、サラリーマンの生活に対する批判を作品に反映させることはできる。

 そもそも自分たちのサラリーマン生活をそのままコピーしても、表現として説得力を持つはずがない。

 それでもなお、現今の観客たちが『踊る大捜査線』以後の日本映画を支持しているのは、つまるところ、広末氏の言うような「媒介された表現」を経ずして、ダイレクトに社会の現状に対する不満、批判をぶちまけるだけの日本映画に対する不満が不信に変わって、「批判なし、現状容認」のダイレクトな表現に喝采を送っているのかもしれない。

 というのは、ちょっとひねり過ぎかもしれないけれど、「一つになれ」のスローガンで実際に「一つになれる」と思っている人が、『踊る大捜査線』に大喜びし、『海猿』に感動し、『三丁目の夕陽』に涙していると見るのは、決して「ひねり過ぎ」の意見ではないと思う。

 荒井晴彦は、子供のときに見た『シェーン』を最近久しぶりに見たら、実はあれは三角関係の物語であったことに気づいて、名作というのは、見る人が同じでも、時間とともに見方が変わるし、見るの数だけ「解釈」が存在する――そのような作品が名作なので、『踊る大捜査線』はそのような可能性を少しも感じさせない、とも言っていた。

 私はついひと月ほど前に『シェーン』を改めて見たばかりだったので、荒井晴彦の言葉はよく理解できる。

 私も、子供のときに見た『シェーン』とは全然違うことに驚いたのだった。

 そして、2、3日前にテレビで『3丁目の夕陽』をちらりと見たとき、「新しい発見」がありそうに思えなかったので、見るのをやめたのだったが、言い換えると『3丁目の夕陽』は(『踊る大捜査線』も)、「一つの見方」しか存在しない作品なのだ。

 『踊る大捜査線』を一緒に見に行った女性が、「どこが面白いんだ?」と言った荒井に、女性は「面白いと思って見ている人を否定はできない」といったような意味の返事を返したのだったが、それも、『踊る大捜査線』が「一つの見方」しかない映画で、それが受け入れられない人はそのことを受け入れるしかない、と言ったのだった。

 しかし、荒井にしてみれば(私も含むが)、そういう作品こそ「よくない作品」「見る価値のない」作品なのだ。

 今、大人気ドラマだという『相棒』をテレビでやっているが、これもまた「一つの見方」、「一つの楽しみ方」しかない映画であることは、一瞬見ただけですぐにわかるので、すぐに消した。

 消さない限り、目に入ってしまうから、「受け入れられない」人はそうするしかないのだ。 

 長くなってしまったが、とても大事なことだと思うので。

 最後に、幻灯舎新書については、他のも少し読んでみたのだが、全般的に面白くなかった。

 特に「宇宙論」については、全くダメである。

 村山斉という売れっ子が宇宙論を書いていて、新書版ランキング一位!とポップが貼ってあったように記憶しているが、ともかく腹が立つほど要領の悪い文章で全く面白くなかった。

 同じ村山斉のブルーバックス『宇宙は本当に一つなのか』は、面白かったので、多分、幻灯舎の編集が、今の宇宙マニアが何に興味をもっているのか知らないため、また現代物理の奇想天外さに対する理解がないため、当たり障りのない、つまらない文章になってしまったのだろう。

 幻灯舎という名前で20万部売ったのだとしたら、腹立たしい限りである。


経済学と物理学

2013-03-01 02:55:59 | Weblog
 すっかり間隔が空いてしまった。

 言い訳は後回しにして、昨日(27日)の朝日新聞朝刊のインタビュー記事について。

 日本有数のマクロ経済学者という斉藤誠東大教授が、「物理学なら重力でリンゴが落ちると証明されていますし、医学ならこの病気にこの薬が効くという専門家の合意があります。しかし経済学にはあいまいな点が多すぎます」という朝日の記者のバカな質問に、次のように答えていた。

 「物理現象は、分析する人間がどんな思惑を持っていてもリンゴの落ち方は変わりません。でも社会現象はその分析者も含めてプレーヤーたちの行動の集積のなかで起きます。おおむねこうなるだろうという知見はたくさんあっても、自然科学でいうような客観性はありません。だから経済学者には医者や物理学者のように明確な指針を出して貢献することはいつまでたってもできない」

 これは、いかにも誰もが納得するような言葉だけれど、リンゴが上から下に落ちるのは、日常生活において全生物が生きるために前提している条件で、物理学の原理ではない――ということを物理学は、量子という微小世界の研究を通じて確認している。

 量子力学の創始者の一人、ボーアは「物理学の仕事が自然がどんなものかを明らかにすることだと考えることは間違っている。物理学が関係するのは自然について我々が言えることだけだ」と言っている。

 「自然がどんなものかを明らかにする」ということは、明らかにされるべき真実の姿を自然は隠し持っていると前提しているのだけれど、ボーアは、物理学は量子の研究を通じて、自然はそのような姿を有していないことを明らかにしたと言っているのだ。

 う~ん、なかなか説明がうまくいかないが、斎藤誠という東大の経済学の教授が現代物理学の知識がないからよくないと言っているのではない。

 斉藤教授は、「物理学に正解はあるが、経済学に正解はない」と、経済学に「正解がない」ことを「正解がある」物理学を例に出して正当化しているが、実際には、物理学にも「正解はない」のだ。

 では物理学はどう対応しているのか?

 物理学は「正解がない」ことを前提に、正解があり得るとしたらどのようにあるのかと問題をたてる。

 じゃないかと思うのだが、それはそれとして、斉藤教授のように、経済学に「正解がない」ことを正当化してしまったら、「物理学とはちがうから明快な指針を出すことはできない」と居直るしかなく、そのあげくは、「アベノミクスを支持する学者は、支持することで私的利益が得られるので支持しているのだろう」といかにもマクロ経済学者らしい皮肉なレトリックを吐くにいたる。

 このインタビュー発言は、ブログ、ツイッターでかなり叩かれているが、物理学が現在、どの段階まで踏み込んでいるかに関する基礎知識があれば、「経済学は物理学のようなわけにはいかない」なんて言葉は簡単には出てこないはずで、その根幹にはやはり「無知」があるのだと思う。

 記事を調べたら、斉藤教授は「自分たち経済学者は、長期のことはかなり明確に言えるけれど、短期のことは、象牙の塔の人間は善し悪しを言いにくい。ところが経済学者の中には、短期のさじかげんにまで口を出す人がいるが、そういう人たちはスポンサーがいて、その以降で議論を展開しているのでしょう」と言っていたのだった。

 「長期のことは明確に言える」だなんて、この大学院の教授は言うが、ケインズは、「長期のことでわかっていることは、我々はみんな死んでいる、ということだけ」と言ったのではなかったっけ?

どんだけ~!

2013-02-12 00:45:14 | Weblog
 世田谷美術館で開かれる「写真の地層」展の搬入。

 といっても私は写真ではなく文章で、出力センターで印字したA全サイズの紙を五枚、壁に貼るだけ。

 内容は、写真家の大辻清司氏が1975年に「アサヒカメラ」に連載した「大辻清司実験室」の「モノというは言葉であって、モノというモノはない」というフレーズの哲学的読解に挑戦したもの。

 目下、仕上げ中の「写真私史――徐々に無限に向かって」の一部で、その、とりあえずの「決定稿」も受付に置いてあるので、もし興味があったら見てください。

 しかし、その「決定稿」を印字するためにてんやわんやしてしまった。

 壁に貼る文字は前日、プリントセンターで印刷しておいたのだが、本文については家庭用のプリンターでできるので、アパートに帰ってしようと思っていたら、トナーがなくなってしまった。

 前にもトナー切れの警告があったのだが、ドラムを揺するとなんとか印字できるし、プリンターの現在状態を調べると、三分の二くらいで、まだまだ余裕があるように見えたのだ。

 それでなんとか保つのではないかと思ったのだが、最後の最後、肝心の場面で完全にトナー切れになってしまった。

 まあ、いずれ必ずトナー切れ現象は起きるのだから、「肝心の場面」というのはこっちが勝手に決めただけなのだが。

 しかし、ずっと前から、「ヤバい」と思いつつ、その都度、トナー状態をチェックしていたのだから、「裏切られた」感が強く、A4で、6000枚まで大丈夫と書いてあったし、だいぶ印字したが、なんとなく4000枚はいっているが、6000枚にはなっていないはず、なんていい加減なんだ、ブラザーめ、と思いつつ、しょうがないから、壁に貼るだけで、全文を持ち込むのはあきらめようかと思ったのだが、そう思うと、かえってチャレンジしてみたい気持ちが強くなり、搬入の制限時間までも6時間もないお昼過ぎに、西川口から新宿のヨドバシまで出かけてトナードラムを買ってきたが、箱には、「3000枚まで」と書いてあった。

 3000枚は完全に越えている。

 トナー切れになるのは当然の時期だったと反省しながら、途中で印字がストップしたり、紙づまりをこしたりしたが、ともかく懸命に印刷した300枚近い束を持って再び電車で新宿、新宿から、千歳船橋、千歳船橋からバスで世田谷美術館までかけつけた。

 六時までに作業を終えなければいけないのだが、ついたのが五時半。

 西川口→赤羽→新宿→赤羽→西川口→赤羽→新宿→千歳船橋→世田谷美術館→千歳船橋→新宿→赤羽→西川口

 というのが今日の旅程だが、問題は、これにアパートから西川口の駅までの行き帰り20分以上×4が加わる。

 しかしこうやって書き出してみて、改めて思うことは、「行動」は時間がかからないということだ。

 しかも「行動」は、それけで問題が解決する。

 三島が東大全共闘との対話集会で「ここ(駒場)に来るのに30分で来れた。文章を書くことはそうはいかない。行動はいい」と言った通りだ。

 マラソンなんか、2時間半も走り続けるので、いかにも長そうだが、実際は2時間半なんて、あっという間だ。

 もちろん、そのためには長時間の練習が必要だし、それに対するリスペクトはもちろん、忘れないが、でも「練習」にかかる時間と、「考えること」にかかる時間は、質的にやはりちがうのではないだろうか。

 「練習時間」は、消費される時間だし、だからみんな嫌だと思うのだろうが、でも消費した分の見返りはある。

 一方、「考える時間」は、どんなに時間を長くかけても、「見返り」というかたちでの結果はない。

 もちろん、実際には、「この方向で考えていれば、絶対に結果は出る」とわかって、考えているのだろうと思うけれど。

 いったい、何を言いたいのかというと、要するに「写真私史」二十六万字に「どんだけ~」の時間がかかったかといいうことを言いたかったのです。
 

持ち家民主主義

2013-02-05 02:02:40 | Weblog
 「グラフィケーション」で、建築家の塚本ヨシハル氏が、日本には外国人や低所得者向けの住宅政策が存在しないので、つくってみたいという発言を掲載したら、都の担当者から「そんなことはない、認識不足だ」との抗議があった。

 都の担当者は、ホームページを見ろと言っていたそうだが、見てもよくわからなかった。

 それで実態はどうなっているのか調べたところ、盛り場の街頭で、ホームレスが売っている「ビッグイシュー」のひと月ほど前の号に、神戸大学で住宅政策を専門に研究している平山洋介という学者が、世界的に低所得者向け公営住宅の建設は減少しているが、リーマンショック以後、ヨーロッパのみならず、中国、韓国でも低所得者向けアパートの建設を再開した、が、日本はまったくそのかけらもない、と言っていた。

 なるほど、と思ったものの、住宅政策の流れのようなものは、今ひとつよくわからないでいたが、「公営住宅 ヨーロッパ」でネット検索したところ、以下のようなことがわかった。

 私が見たのは、イギリスの公営住宅政策で、フランス、ドイツ、イタリアの大陸諸国とは根本的に異なるところがあるようだが、そのイギリスの場合で言うと、産業革命以前・以後で状況は異なるが、低所得者向け住宅は労働党政権のもとで数多く建設されていたが、第二次大戦後、イギリス経済の行き詰まりと軌を一にして荒廃が進み、犯罪の温床となってしまった。

 日本で「イギリス病」と言われていた、あれである。

 それで、サッチャーが採用したのが「持ち家政策」だが、日本の「持ち家政策」とは根本的に異なり、労働党が大量につくった公営住宅を住民に売却するという政策で、サッチャー曰く、自分の家を持つことで、その地域に対する愛情、責任感も生まれるというのだ。

 それで、サッチャーの持ち家政策は、「不動産所有民主主義」と名づけられたが、サッチャーの次に首相になったブレアは労働党だったが、サッチャーの「持ち家民主主義」は引き継いだ。

 しかし、リーマンショックで「持ち家民主主義」はその限界を露呈し、低所得者向け公営住宅の建設が再開した、と平山教授は言っていたのだ。

 しかし、サッチャーに「持ち家民主主義」なんてものがあったとは初耳だが、これは彼の国ではサッチャー主義の代名詞のように有名な政策らしいが、マスコミではとんと耳にしない言葉だ。

 でも「家を持つ」ということは、プチブルになるということだから、当然その自覚も求められてもいいはずで、それのない「持ち家」ばかりになったら、どうなるか。

 その結果は、乱雑で、エゴイスティックで、醜い家並みが続く、川口の現状のようになるだけだ。

 否、川口は客観的にはそんなに醜くはない。

 しかし、全然愛着がわかないし、「持ち家」に住んでいる人も同じではないだろうか。

 「持ち家」を所有するということは、自治に責任を持つ、ということなのだが、そんなイデオロギー(観念体系)は、ついぞ聞かされたためしがない。

 やはり、「知っている/知らない」の違いは大きい。

 日本の高級官僚たちは、公営住宅がスラム化してしまった「イギリス病」を見て、日本はあのようにはなりたくないという一念でやってきたので、だろうが、スラム化というのは、低所得者=労働者階級の体制へのプロテストという意味合いもある。

 つまり、スラム化は住民の一つの表現でもあるのだけれど、日本の為政者は、オリンピックの柔道選手の体罰抗議問題にも現れているが、被為政者は管理の対象で、彼らの「表現」をまったく認めないのだ。

 ところで関連ブログを見たら、日本の公営住宅の現状は、高額所得者が所得を隠して住み続け、居住希望者を閉め出す状態は、依然として続いているらしい。

 やっぱり国民総背番号制度はどうしても必要だろう。

 旧社会党系は反対だろうが、旧社会党が反対したことは、ことごとく正しいようなもので…。

 ともかく公営住宅の不正入居は私が中学生の頃から言われていたことで、最近、指摘する人がいないので、低家賃の公営住宅そのものがなくなってしまったのではないかという印象を持ち、それで都の担当者の抗議を招いてしまったわけだが……うーん、いまいち、まとまりに欠けるが、今日は「持ち家民主主義」という言葉があるということを知ったということで。

 ただし「持ち家民主主義」は、サッチャーの先行政権である労働党に対する対抗政策で、問題を解決するものではないことは言っておかねばならない。

お話し

2013-01-30 01:54:11 | Weblog
 どうしても書き込みが長過ぎくなってしまうので、短めに。

 「春闘」がはじまったそうで、NHKニュース(多分、テレ朝をはじめ、どの民放ニュースも同じだろうが)は、連合と経団連の交渉が始まったことを、報じていたが、連合曰く「デフレ脱却のためにも賃上げを」に対し、経団連曰く「いったん賃上げすると下げられないから、できる企業はボーナスで対処したい」。

 どちらの立場も私には関係ないのだが、「デフレ脱却のために賃上げを」というのは、共産党も、社民党も言っていたが、ぎりぎりかつかつで生活しているわけではない、既得権益を現に保有し、そのうま味を享受している正社員の給料が少し上がったところで、そのお金は「将来のため」に貯蓄されるか、ボーナスが増えても、ローン返済に回り、消費に回らないから、デフレ脱却なんてできるわけがないじゃないか。

 と、ぶつぶつ文句を言いながら見ていると、ニュースはその次に、65歳以上の社員が、退職せず、働きたいと希望した場合は、企業はそれを受け入れなければならないという法律ができるという話題に変わった。

 そして、そんな立場になるであろう、一人のベテラン技師が、永続勤務を申し出て、東北の被災地で電話線かなにかの補修作業を若手に教えている。

 教えられていた若手技師は「ありがたいです。勉強になります」と言っていたが、こんなシチュエーションを見て「いい話だなあ」と思う人は少なからずいると思うし、それにケチを付けるつもりもないけれど、こんな話で自分を慰めている限りは、それは「お話」で終わるよ、と言いたい。

 もちろん、それは最初から「お話し」なので、問題はそれに気づくこと、そして、そこから抜け出すことなのだ。


瓦の小判

2013-01-27 03:43:33 | Weblog
 Eテレで、日本の財政赤字の話題を、どこかの大学教授が旦那さん、女装した又吉がその奥さんというシチュエーションで解説していた。

 旦那さん(日本政府)が、奥さん(日本国民)に8000万円の借金をしているが、旦那さんの月収は90万円で、40万円を奥さんに毎月返済しているという説明で、今後奥さんは旦那さんを信用しますか、疑いますか、拒否しますかというのだ。

 以前は、日本の国民が、一人当たり200万円近い借金をしているという解説で、それに比べれば、家庭内の借金という説明に変えたのは(私は、右のポケットが左のポケットから借りているという説明の方がいいと思うが)、一歩前進なのか、と思ったが、教授の説明は聞けば聞くほど、わからなくなる。

 実際に、「借金」をしているのは、銀行であって、日本国民の資産1400兆円は、その借金の担保と説明した方がいいと思うが。

 具体的には国の「徴税権」を担保にしているのだそうだが、1400兆円の借金というと、借金というからには、全額返さなければならないように思うが、実際には利子を返せばよい。

 詳しいことはよくわからないのだが、アメリカで、額面1000億ドルとかのコインを発行し、それで「借金」の利子分を払うというアイデアが検討されたことがあったそうだ。

 これは、政府紙幣の発行は、議会の承認などが必要だが、反対勢力が多いので、それは無理、ということで、議会の承認が不必要な「コイン」の発行で対処しようというアイデアらしい。

 これは決していい加減なアイデアではなく、スティーグリッツ教授か誰か、有名な経済学者の提案のはず。

 スティーグリッツ教授は、安倍の前首相当時か、その後の福田首相当時かもしれないが、日本政府から相談を受けて「政府紙幣を発行しろ」と提案したそうだから、あり得る話だ。

 昔々、江戸時代に、小判を改鋳して金の品位を下げた小判を発行して幕府の財政危機を救った切れ者がいて、彼のおかげで空前の「元禄時代の繁栄」がもたらされたが、この男は、「金の小判でなく、瓦の小判だっていい」と言ってのけ、新井白石に憎まれて失脚した。

 日本のマスコミは、この新井白石のようなものだろう。

 マクロ経済学で言う「貨幣論」というのは、むずかしくて、よくわからず、直感で判断するしかないのだが、多分、私の言っていることはそんなにちがってはいないはずだ。
 

「持ち家政策」の破綻

2013-01-23 23:51:46 | Weblog
 教師や警官などの地方公務員の退職金が引き下げられるため、早期退職者が続出しているそうで、早期退職を申し出た本人が「退職金を住宅ローンに充てる予定だったので(早期退職を申し出た)。こんなことになるなんて、まったく思っていなかった」と言っていた。

 そう、これはある意味、いや明確に、自民党の「持ち家政策」が破綻したことを意味しているが、それを指摘する論者は、皆無だし、今後も、「皆無」だろう。

 それで、あえて書いておこうと思った次第。

 私が小学校時代、クラスの半分近くが警官の息子で、彼らは「官舎」に住んでいたが、訪ねると、びっくりするボロ家で、歩いていて、畳を床下まで踏み破ったことを覚えている。

 もちろん、地方公務員を含む公務員は「官舎=低所得者向け住宅」に住むべきだと言うつもりはない。

 いや、そう言ってもいいのかもしれない。

 何故なら、国家財政の赤字が1000兆円、地方財政の赤字が400兆円とか言われているのだから、彼らの給料が下がるのは当たり前だが、実際は下がっていない。

 国家公務員だけ、二年間の限定付きで、少しカットしたようだが、地方公務員は、公務員の猛反対でまったく実現していない。

 なんでか?

 主たる理由は、「ローンの返済に支障がある」、だろう。

 新自由主義の親玉、ミルトン・フリードマンが提唱した「定理」に「恒常所得定理」という定理があるそうで、これは、恒常的な所得は消費に向かうが、非恒常的な所得、つまりボーナスは直接消費には向かわない傾向があるという「定理」なのだそうだ。

 「定理」というと、ちょっと大げさだが、ボーナスや退職金をローン返済に充てるという人は多いだろう。

 「持ち家政策」は、要するに、借金を強要する政策だから、「破綻」はこういうかたちでやってくるのだ。

 ちなみにボーナス制度についてウィキで調べたら、欧米のボーナスは文字通りの例外的処置で、日本も戦前は似たようなものだったが、戦後、盆と正月に数ヶ月分の支給が定例になったのだそうだ。

 やはりこの制度は戦後日本の特徴で、それを高度成長期の「持ち家政策」に巧みに絡めたのだった。

 ちょっと話題が変わるが、ついでに書いておくと、マスコミ報道で、犠牲者、被害者がえらく美化されて報道されるのが非常に不思議で「社会部記者」のクセというか、そういう習慣になっているのだろうと思っていたが、労働政策の専門家、熊沢誠氏の「日本の企業は全人格評価を行う」という解説で合点がいった。

 アルジェリアで一人だけまだ行方不明の「日揮」の最高顧問を含め、全死亡者をマスコミは「素晴らしく有能な人たちだった」と、その「全人格」を賞賛するのだろうが、それは社員だった以上、人格高潔と認められていたので、死後もそういうことで通せば、自分たちの立場も守られるということで、そうしているという習慣と言えば習慣なのだろうが、なんたる習慣か!と思う。

 もしかしたら、最高顧問は赤軍派と関係があって、ゲリラを導入し、それで行方不明なのかもしれないじゃないか。

 

ローザ・ルクセンブルグの自由

2013-01-23 01:28:19 | Weblog
 前回、熊沢氏の発言に触れたのだが、もう一度「グラフィケーション」を読み直した結果、理解に大変にむずかしい話であることがわかった。で、もう一度。

 熊沢氏は、「個人主義」と「集団主義」の二様のイデオロギーを、「価値意識としての個人主義」と「価値意識としての集団主義」、「生活を守る手段としての個人主義」と「生活を守る手段としての集団主義」の四つにわけ、各国文化がどこに位置しているかで、その社会の様相を図ることができると考える。

 「価値意識としての個人主義」と「生活を守る手段としての個人主義」の二つのイデオロギーを信奉する社会は、欧米のホワイトカラー、専門職の社会で、「生活を守る手段としての集団主義」と「価値意識としての集団主義」をイデオロギーにしているのが、欧米の労働者、ブルーカラーである。日本の炭坑労働者も、戦後の一時期まで、このイデオロギーを有していた。

 また、欧米における労働者の組織は、中世のギルドを範にしているので、失業者の状態を詳細に把握しているので、失業者が出ると、自分たちの仕事を少なくして、失業者を救うワークシェアの意識が古くからあり、それが可能でもあったと熊沢氏は言っていた。

 なるほど、勉強になります。

 一方、日本のホワイトカラー、つまりサラリーマンは、「価値意識」としては集団主義を、「生活を守る手段」としては個人主義な選択を迫られていると、熊沢氏は言う。

 この組み合わせでは、「生活を守る手段としての集団主義」と「価値意識としての個人主義」のイデオロギーからなる社会は、未だ世界に存在せず、熊沢氏はこれが自分の理想だという。

 理想的社民主義というか、である。

 と熊沢氏は大きな図式を描いていたが、実際にヨーロッパに進出した日本企業の雇用実態を調査に行って、日本の会社の雇用の実態が、「全人評価」にあることがわかったという。

 「全人評価」とは、要するに「全人格」を対象とする評価で、欧米では社員に対してこういう評価はしない。

 ブルーカラーが典型だが、会社は社員に自分の仕事、例えば製品をちゃんと、いくつ、つくることがでできるか、その「実績」を求めていて、彼らの「人的能力」には無関心だという。

 だから、労働者の方でも、一時間遅刻したら、一時間分、減給されて、当たり前だと思っている。

 逆に言うと、一時間分の減給を承知で、遅刻することもある。

 これを「ローザ・ルクセンブルグの自由」と言う(のだそうだ)。

 ローザは、第一次大戦後、活躍し、当局に惨殺されたドイツの女性のコミュニストで、彼女は「別の考え方をする自由」を主張したのだが、日本の会社は(社会は、といってもいいだろう)この「ローザ・ルクセンブルグの自由」ををもっとも警戒する(と熊沢氏は言う)。

 たとえば、自己都合で残業をしない場合、残業をしないこと自体より、個人的理由で残業を断ったことが問題にされる。

 これが、日本の会社が従業員を「全人格評価」とするということで、その結果、従業員は、「価値感」まで会社に依存することになる。

 しかし、価値感を会社にあずけながら、生活を守る手段としては「個人」におまかせというやり方は、社員にとって大変に厳しいライフスタイルだが、みんなの目標が、ちょっと腕をのばせば手に届く程度の消費材が目標だったら、それも可能で、それ故に「高度成長」も可能だったが、それが高度成長期以後、「希少財」にまで広がってしまった。

 「希少財」というのは、熊沢氏曰く、「土地付きの家」が主たるもので、これを「みんなが目指した」が、そもそも「土地付き住宅」は供給が限られているので、すべての人がそれを目標にヨーイドンで挑んだら「負け組」ばかりとなってしまうと熊沢氏は言うし、実際、その通りになったわけだ。

 そしてさらに問題なのは、「負け組」もテレビはもっているし、パソコンもあるし、その意味では昔とちがうわけだけれど、しかし、昔とちがって、日本では、「負け組」の名前がいみじくも示しているように、「全人格評価」の結果としての「負け組」なので、自分がそうであることは到底耐え難いものとなる。

 これが問題なのだ。

 ではどうしたらよいか。

 それは「生活を守るための手段」を個人ではなく、集団が所有すべく、政策を変えること、具体的には「持ち家政策」から「低所得者向けの公共住宅建設政策」に変えなければならない。

 大阪市の市バスの運転手の年収は「平均」で800万円以上あるそうだが、この年収でローンを組めば、相当豪華な家が持てるし、実際に持っているが、これが「持ち家政策」の成果だというのは、運転手でも豪華な家が持てると言いたかったのだろうが、なんか変である。

 このことは、きっちり民主党時代に認識していればよかったのだが、「不勉強」がたたって、政権から転がり落ち、住宅政策といえば「持ち家政策」しか念頭にない自民党に戻ってしまった。

 しかし「持ち家政策」が、高度成長期と同じように実施できるはずがないし、そのことは、あれだけ広大な土地をもつアメリカでさえ、サブプライムローンの破綻で不可能が証明された。

 しかし日本において、まずなすべきことは、そもそも「負け組」という名称が不当であること、すなわち「全人格評価」の過酷な不当性を、「ローザ・ルクセンブルグ的自由」すなわち「別の考え方をする自由」を通じて訴えることだろう。

 あるいは、「負け組」は実際は「負け組」なんかではなく、「負け組」がなければ「勝ち組」もないことを、例えばヘーゲルの「奴隷が奴隷主に勝る」とする「奴隷の弁証法」を駆使して、主張していけば、いい。

 なんといっても数的には「負け組」が絶対に多いのだから。


社会が悪い

2013-01-22 01:11:46 | Weblog
 桜宮高校の生徒がテレビカメラの前で話をしていたが、首から上はカット。

 顔を出して話さなければ何を言ってもダメだ。 

 顔を出したくない人は、発言権はない、とはっきりさせなければならない。

 それがイロハのイだと思う。

 個人情報保護法かなにかと関係しているのだろうか。

 誰も何も言わないのは異常だ。

 「顔を出したくない」のなら、出してもいい、という人を選んで取材すればいいではないか。

 それはさて、先日の広末保先生の発言は、「(今の江戸ブームは)石川淳的な抵抗がない。何に抵抗しようとして、近世をもう一度発掘しようとしているのか、それが見えない」という内容だった。

 なるほど、日本人が江戸を関わろうとするならば、外国人が江戸を鑑賞するようなエキゾチズムに堕してしまってはいけない、というわけだ。

 さすが、広末サン、深い。

 ところで、その「グラフィケーション」に、熊沢誠という社会学者が、対談だけれど、「なるほど」と思わせる発言をしていたので、紹介したい。

 日本人は集団主義と言われながら、生活を守る手段としての個人主義的傾向が深まるばかりで、「生活を守る」ことにみんなの合意がさっぱり成立しない。例えば(不況になった会社で)人員整理されずに残った者がサービス残業をしたりする。欧米ではこういう状況になったら、逆に残業をやめて、仲間の生活を守るために合意する。

 この発言は1990年頃、つまりバブルがはじけた頃で、今も事態はまったく変わっていないわけだが、変わっていないのは、デフレから脱却できないということももちろんなるけれど、特に大津波以降、「仲間」とか「絆」とか言いながら、実際は、個人の生活を守ることが最優先で、汚染処理さえできない有様だ。

 もちろん、熊沢先生が言われるように、欧米の労働者たちが、自主的にワークシェアを実施しているわけではないだろうが、でも労働者たちがそういう精神を共有していることは事実ではないかと思う。

 そういう精神をもっているのが「労働者」とい存在であるというか。

 だから、熊沢氏は、対談相手から、それは労働者であることを肯定し、満足してしまうのではないかみたいに突っ込まれ、自身も、「ジレンマであるのだけれど」と言い訳をしていたが、私は、言い訳を言う必要はないと思う。

 労働者は、ぶっちゃけて言えば「奴隷」であり、奴隷としての自覚があればこそ、自分たちの生きる権利を主張できるし、団結もできるのだと思うから。

 それはともかく、日本人が悪い意味で利己主義的、個人主義的であることは否めない事実なのだが、それは日本人が悪いのではない。

 日本の社会が悪い。

 というのは、最近、ブラック企業の告発者として有名になってきた今野晴貴氏に昨年末にインタビューしたのだが、そのとき今野氏が言うには、自分たちがやっているNPO法人が東北の被災地でも救援活動を行っているが、寄付金がなかなか集まらず、困っているが、何故か、海外の日本人からお金が寄せられるという。

 それで「日系人からですかか?」と聞いたらそうではなく、海外で働いている日本人だそうで、今野氏はとても不思議な顔をしていたが、私が思うに、「寄付をして仲間を助ける」という精神が、海外で暮らしていると自然に醸成されるのだろう。

 逆に言うと、日本は、「仲間を助ける」ことが、正面切ってはできない、そんな社会になってしまっていることになる。

 というわけで、もう一度言いたい。

 日本の社会が悪い。