ゆうしゃケン  小心翼翼・平々凡々

団塊世代の技術系サラリーマン、趣味と独り言でストレス発散

2009-01-20 22:18:07 | 屋内趣味

   

 

   新年に入って何事も無く平穏な日々が続いている。熊本方面への出張が二度ほどあったが、それ以外はマイペースでのデスクワークだ。降って沸いたかのようなアメリカ発の不景気風が我が国の産業界を荒らしまわっているが、とりあえず今のところは我が社には影響がない。ただ、製造業界の設備投資の見直し・中止は予想以上で、産電向けの引き合い見積り件数は少なくなっている。

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 ライン業務から外れたためだろうか、それとも年齢的なものであろうか、最近は喜怒哀楽が表面に出ることが少なくなってきた。感情の起伏が極端に減ってきたような気がする。これは果たして良いことなのであろうか、と時々考える。確かにストレスによる変調はほとんどない。が、顔の表情に変化が無いというのは、どうにも寂しいし、人間として生きているという感覚に乏しくなっているような気さえする。笑うと優しく、怒ると恐いおじいさんが理想ではないかと思ったりしている。

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さて、最近は東野圭吾にはまっている。「容疑者Xの献身」から始まって、「白夜行」「幻夜」「秘密」と読み進めてきて、今は「トキオ」を読んでいる。すべて図書館から借りた本だ。通勤や出張での電車内で読んでいる。

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なぜ、今になって東野圭吾? 自分自身でも良くわからないが、「容疑者Xの献身」で経験した魂を揺さぶられるような感動じみた衝撃が忘れられないのではないかと感じる。要するに自分の怠惰な精神が、強いインパクトを要求しているような気がするのだ。

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私は昔から涙腺が弱い人だ。幼児向けのアニメや感動物語を観ると、まず例外なく涙が溢れてくる。実はそれはそれで一種の快感じみた感情であり、涙を流した後は幾分かはすっきりするので無意識に涙を求めているのかもしれない。けれども、小説を読んで流す涙は、ドラマを見ての涙とはまた違ったような感覚だと思う。本を読み進めることによっていつのまにか主人公=私となり、主人公の思いはストレートに我が身の問題に取って代わり、自分自身が同じ体験をしているかのような感覚になるのだ。ドラマを見て流す涙は、結局は他人じみた涙であり、決して自分自身のこととは思っていない気がする。

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とは言っても、電車の中で大の男が涙を流している様は、格好いいものではない。幸いにも私は老眼なのでメガネを拭く振りをしてごまかしているが、さてどんな風に見られているだろうか。

 

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コメント (12)
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