どうして『むかし』を基準に考えてしまうんだろう。
無感動な自分をこの頃いつも感じていて
音楽が好きで聴いてみるけど、昔みたいに無邪気に感動できないな…なんて思ったりする。
昔のわたしは今よりずっと感受性があったと思うけど
その分感情の起伏も 無駄に激しくて 余計ないらないことばかり考えていた。
だから…
上がりすぎるとがくんと下がったりすることもある。
だから下がることも考えて、無意識のうちに感情をおさえているのかも知れない。
実際、無邪気によろこんでしまったり無邪気に期待なんかをしてしまうと
あとでがっくりと落ちてしまったりすることもあるし…
だから、予防線を張って過ごしているのかも知れない。
でもそれも、決してわるいことではないと思うけれど。
ものすごい楽しい、ってことはないかも知れないけれど、その分もうどうしようもないような苦しさや悲しさも味あわずに済んでいるかも知れない。
実際、いまの年齢で昔みたいにささいなことで感情の起伏が激しくなってしまったら、体力的にも、もたない。
逆に言うと、体力がないからそんなに激しい感情が持てない、のかも知れないけど。
起伏のあまりない今は、よくもわるくも、平和だ。
でも音楽を聴くときは、たまに昔みたいに…
その曲の世界、自分の感動するその心のままに、どっぷりはまれたらなあ…と思ったりもする。
たまには我を忘れる、なんてこともしてみたいかな、とか思う。
我を忘れる時間とそうじゃない時間。
とかってコントロール効くもんかな。
まあ意識してそうしたらもう我を忘れてはないのかも知れないけど
『意識的に我を忘れる』ような コントロールもできる範囲ででも、そういう発散(?ていうのかな???)をする時間を設けたら、まあなんにもしないより、リフレッシュはするかも知れないな。
無感動な自分をこの頃いつも感じていて
音楽が好きで聴いてみるけど、昔みたいに無邪気に感動できないな…なんて思ったりする。
昔のわたしは今よりずっと感受性があったと思うけど
その分感情の起伏も 無駄に激しくて 余計ないらないことばかり考えていた。
だから…
上がりすぎるとがくんと下がったりすることもある。
だから下がることも考えて、無意識のうちに感情をおさえているのかも知れない。
実際、無邪気によろこんでしまったり無邪気に期待なんかをしてしまうと
あとでがっくりと落ちてしまったりすることもあるし…
だから、予防線を張って過ごしているのかも知れない。
でもそれも、決してわるいことではないと思うけれど。
ものすごい楽しい、ってことはないかも知れないけれど、その分もうどうしようもないような苦しさや悲しさも味あわずに済んでいるかも知れない。
実際、いまの年齢で昔みたいにささいなことで感情の起伏が激しくなってしまったら、体力的にも、もたない。
逆に言うと、体力がないからそんなに激しい感情が持てない、のかも知れないけど。
起伏のあまりない今は、よくもわるくも、平和だ。
でも音楽を聴くときは、たまに昔みたいに…
その曲の世界、自分の感動するその心のままに、どっぷりはまれたらなあ…と思ったりもする。
たまには我を忘れる、なんてこともしてみたいかな、とか思う。
我を忘れる時間とそうじゃない時間。
とかってコントロール効くもんかな。
まあ意識してそうしたらもう我を忘れてはないのかも知れないけど
『意識的に我を忘れる』ような コントロールもできる範囲ででも、そういう発散(?ていうのかな???)をする時間を設けたら、まあなんにもしないより、リフレッシュはするかも知れないな。