つぶやき

平々凡々なアラフォーのひとりごと

はあー。

2011-10-30 19:03:35 | 日記
今日も休日なんだけど、なんだかつかれた。


心の中には、いつも不安やら恐怖やらが横たわっている。



職場のひとに、『あなたもこの仕事、定年までは続ける気ないんでしょう?』と言われた。


確かにそうなんだけどさ…。


彼女の考えだと、永久就職(結婚)すればいいじゃん、という考えになるらしいけど、そんな単純なもんじゃねーだろ、とわたしは思う。


彼女には一緒にいる人がいるからそうなるんだろうし、定年までひとりで働くなんて なんか寒すぎる感じがしてしまう、とも思うけれど。


なんかそんなに単純にいくもんでもないだろ、と思う。


とはいえ、横森理香さんの本を読んでて思いあたるけど
この歳まで独身でいると、確かに自己愛ばっか強くなってる気はする。


自分が好きな人は、実際には手の届きそうにない人ばっかだ。
ないものねだりばかりしている気がする。


でもなー、友達みたいな感じ、でも一緒にいられればな、と思うんだけどな。


行動しないと変わんないんだよね。


あとキャパがないんですぐもういっぱいいっぱいになりそう。


あー、休日なのに、やること残ってる。


キツイ。


この職場のひと、寿退社するかもな。


うー しんど。


けどそーゆー事態も考えつつ、前向いていかないかんのよね。


最近、わたし不幸ヅラしてるかも。


頑張って幸せなふりするのは疲れるからイヤだけどさ。


どっしり胆据えてやれるようになりたいよ。切実に。


まあ、ほんとに遅いんだけど、現状は把握できてきてるから


楽しいと思えることに挑戦してみなくちゃ。


どう過ごしたって同じ時間。


溜め息ばかりの今日このごろ。


思い通りになんてならない。
でも不幸ヅラになるのはイヤだな。


そんなにはなやかじゃないのがいい、疲れるもの。


ただ どっしり地に足の着いたような安心感が欲しいし、そんな風でいたい。

無題

2011-10-23 18:59:38 | 日記
今月も、なんとか生き延びた。

そんな感じ。

こんなふうな、穏やかな日々が続けば。
ほんとにそう思う。


手に入らないものを望んで心が苦しくなったり、闘ったりするのは、ほんとに疲れる。


今日は朝(というか昼前なんだけどね)に起きる前に、夢を見てた。

まだ子供みたいに、ひきずって意地を張った言葉を発しているわたしがいた。


もう、いいじゃないか。


距離としては、やっぱり近づけない。どうしようもない、自分の身を守りたがる弱い自分がいる。


だから、やっぱり弱い自分のまんまではいるんだろう。


でも、離れた距離で静かに見られる自分も、そろそろできたんじゃないのかな、と思う。


あまり言い争いをしないのもよくない面もあるし、この歳でもはじけなきゃ、なんて周りに言われるわたしがいる。


争いの中に入らなければいけなくなった時には、闘わないといけない時もあるんだろう。


けれどあまり考えすぎず、気持ちをこわさずに ゆったりとしたペースでやっていく自分を作れれば、と思う。


地道に、着実に。


…人と会ったけど、その人と比べてなんて幼い自分なんだろう。


このひとがいて、助かった。感謝してる。


このひとに自然に助けが必要なときに助けられる力が持てれば、と思う。


人を助けるのは、善意を押し売りすることとは違う。
そこがほんとうになかなか。


でも人を助けることができたら、自分を褒められそうだ。そして自分も助けてもらっている。


まずは自分のことをしっかりやらないで人を助けようとするなんて不遜なんだけど、


なんだか助け合う、っていうのがお互いの依存のかたまり、みたいに見てたのが、なんだか今日は違う目で見られた気がする。


自分ひとりでできることなんて、ほんとにそんなにないのだ。


助けて、助けられて
お互いさま。


そういうなかで生きてるんだな、と思う。


頼りたくなったら頼ってもいいのだ。その代わり、頼られればちゃんと頼られたことを返せる。


そういう自分でありたい、と思う。

おさら

2011-10-18 20:51:37 | 日記
『さんま皿』と書かれていたお皿を買いました。
スーパーで。


名前のとおりさんま一尾がそのままお皿の中におさまるような、横に細長い長方形のお皿です。
約10㎝×35㎝弱、というサイズ。
1枚100円。

…を、また使う予定もないのに2枚買ってしまいました。(笑)


お給料日前のこんな時は1円たりとも多くは使いたくないという極貧のわたしですが、さんまが好きなので一尾がまるごとはみ出さずにのせられるこんなお皿はうれしい。
と、つい。


それと、ほかにもこういう細長い四角いお皿に、おかず3品くらいをちょっと間隔空けて盛り合わせてのせたりしたら、すんごいお洒落じゃん
っと夢が広がってしまったのですよ。(笑)

3品とかでもひと皿にのせると、洗うのは1枚でいいわけだし。
丸皿でも何種かの盛り合わせはできるけど、それより形が変わっててお洒落っぽいと思うし。

…ふだんは洗いものが少なくなるようにと野菜や肉をごたまぜに調理して一皿でどんっと食べたり、麺類にたんぱく質モノと野菜をごんっと入れて済ませたり、丼的なものにして洗いものを極力少なくしたり…


とかそういう感じで盛り付けなんか二の次三の次
だったりするので、たまにはこういうお皿にそれらしく盛り合わせたりすると、なんか心にゆとりという名の潤いができて(笑)いい気分になるのではないかと思うのです。


無駄は時として幸福感を生みますよね。


あんまりにも買い物がほんっっとに実用的なものばっかり(まあお皿も実用的なんだけれど、デザインという“無駄”に凝れる部分で、洗剤やラップやスポンジとは違うと思う。笑)だったので、こういう無駄な遊び(←私にとっては)があるものを買うのはうれしい、のです。


実際おかずを何種かの複数作るか、というところが我ながら怪しい、とも思うけど(お弁当用には2,3種のおかずを作りますが、自宅でのごはんはほんと余裕がなくて、一皿にごたまぜ焼きとかごたまぜ煮という料理が多いんです。)
買ったんだもの~~~。せっかくだからそうやって使いたい。


そしてできればそんなおっ洒落~に盛り付けてみたさりげない何種類かのおかずを誰かに出して内心どやっ、と思うというのをやってみたい。(笑)

という野望が。(笑)



しかしおとといだったかな、お米を洗って水につけた状態のとこで睡魔に持ってかれて寝入ってしまい、しょうがないから出勤前に一応傷まないようにと冷蔵庫にその状態のお米を入れて仕事から帰ってから炊いたら、せっかくのおいしいお米が、上の方は芯が残ってがすがすなのに、下はぐずぐずの糊一歩手間(しかももっちり感がなく、水分の含み方がぼさぼさ)の状態という異常にまずいご飯になったからな~。


この歳になってこんな飯を炊くか、とかなり情けなくなってしまいましたが…そんな自分がこれから頑張ったところでその料理のレベルなんて知れてるんでは?とちょっと絶望的に(苦笑)なったりもするのですが。


ま、まあまあ。だからってくじけてたらどんど下手になるだけだし。


と思ってまあ、料理もっと楽しんでしよう、と思ってます。


しかし私の作る料理って、気合いもなんもなく普通に作ると、大体ぼんやりした味の料理になる。
このあたりは自分の性格が出てるなーと思う。


姉も、料理を時にはごちそうになったりするけど、そのあたりはちょっと兄弟似てるかなーと思う。
といっても、姉とは性格は結構違うんだけど、料理の味についての薄味というか…もうひとつアクセントが欲しいような味になってもそうこだわらいところがちょっと似てるかもというか。

姉の場合は、おいしいものもあるけど、なんかぴったりと感じないものもあるような…とばらつきが少しある感じがする。


とは言えひとり暮らしのわたしよりはずっときちんと作ってるけど。
不思議なことに食べてて味付けの傾向は少し似てる気がする。


あまり好きでない、と日記に時々書く母だけど、母の料理はやはり自分の味覚の基礎となっていて、おいしい、と思う。
実際母の煮物なんかは素朴にしみじみとした味で、自分が作ったりするよりはるかにおっ母さんの味、とでもいうような、素朴なんだけど深いかんじで、身体にすっと馴染むようなおいしさがある。


男の人が『自分の母親の料理が一番おいしい』って言うのもまあ、共感はするかな。


小さいころからの大事な時期をずっと食べてきて、色々な思い出とも一緒になった自分の記憶にある基礎の味なのだ。


ちなみにうちは父親も時折料理を作ってくれたりしていたんだけれど、父の味は味付けがはっきりしていておいしい。


このあたりが料理も性格って出るよなあ、と思うところである。


わたしにはああいうはっきり、きっぱりした味付けはなかなかできないんじゃないかな。


ちょっとふにゃっとした間のある感じの味についなるというか。


あーまたこんな時間になっちゃった。


最近またまた書くことに依存ぎみかも。


ストレス溜まってんのか??


まあまあ、現実に戻らねばね。


家事片付けて寝なくちゃな。


長文になっちゃった。


やすもう。〓

最近

2011-10-17 00:06:12 | 日記
本気で、笑ったことってあるか?


泣いたり怒ったりならしてる。

面白い番組なんかで面白いコメントがあった時なんかは その言葉に腹から笑かしてもらってる。


でも素の自分でいるか?
というと、全くそんなことはないような気がする。


ふう。




喉が痛いのがまた、もう1週間くらい治っていない。


微熱がずっと続いてるし。

歳食ってからのこの風邪の長引き加減はほんとうにうっとうしい。
少し寒くなるともうダメなんだもの。

免疫力がこんなに落ちるもんかなあ。


ほんっとに無理がきかないよね。考えると苛立ってしまう。


ふぅ。


明日なんか、来なければいいのに。いや、ちゃんと仕事に行って仕事してくるけどさ。


なんかつまんない。


がつまんないってボヤいてもしょうがない。





今日はYouTubeでトミー・コンウェルを観てた。


学生の時だったかなあ…
ラジオの音楽番組をカセット・テープに適当に録ってて(いまの若い子はしないだろうな、こんなこと。)、あとで聴き返すと『あ、コレいいな…誰だろ?』

と思った曲があって。(当時はラジオから適当に録って曲名もアーティストもわからないで聴いているのが結構あった。曲の紹介の喋りが全然ない番組とかを録ったりして。)


それが後々調べてみると、トミー・コンウェルの『Loves On Fire』だということがわかった。



ふとなんとなく検索したら、その曲の動画があった。


YouTubeの、この曲への誰かのコメント…コメント欄に書いてたこと。


『80年代の終わりごろ、確かに僕はキッズだった、そういうことをこの曲を聴いて思い出せた。』


英文コメントをちらっと見たのをうろ覚えで(確かこんな感じだったはず…と)書いてるだけなので、ちょっと間違ってるかもしれませんが、内容はこんなふうだったと思います。


…わたしも聴いて思い出したのです。


わたしが観たのは今のトミー・コンウェルが歌ってる姿で、昔の彼とは全然、違っているしもう若くはないけど。


彼がその昔どんなに若くてカッコよくて、疾走するような感じで歌ってたロッカーだったのか、そしてこの曲に感動したその感じ。


とかを思い出したのです。



若いころ、確かにこのひとも若くいて、自分もこんなふうな感受性を持っていて感動していた、


そのころの感受性、いまはもうなかなか思い出しませんが、似た感じを思い出したのです。


記憶というものも曖昧で、やっぱりものを見るときには自分というフィルターを通して見るので自分にとって都合のいいものになりがちですが


それでも“こういう感じ”は覚えていたいものだなあ、と思いました。


ああ0時過ぎた。


もう寝よう。

…。

2011-10-15 00:50:15 | 日記
なんとなくよくわかった。

自分がこうなってるわけ。


最近、近くにわたしと似たひとが…現れてきたのですが


こりゃまあ…


なんかちょっと似たとこがある分、そのひとを通して自分の欠点も少し客観的に見えてきました。


喋り方がきっとよくないんだな。


しかし…



わたしは一応、知識はすこしはあるつもりなんだけど…



このひたあ…
どーなんだろ。



いいわけが、すんごく多い。



まあお互いばっしばっしやってけばふつー程度にはなるだろう…たぶん。



しっかしほんっといやになるくらい似てる。


変に小心なとこまで。


まあわたしはその上キレやすいんでタチ悪い。し、悪い意味のプライドもあるが、そのぶん我慢するプライドも少しはあるんだな、ということも見えてきた。


とゆーか…


今までびくびく前に進むのを怯えることばっかりだったけど、そしてそういう小心さがあるから小心なひとの気持ちもわかるんだ、とは思いもするけど…


誰だってわかんない中、手探りでやってくようなものなんだ。
わかって踏み入れられることばっかりじゃない。
誰だって不安な要素はあるけど自分で考えてやってってるんだ。


わたしはもうこんな年だけど、このまんま退化ばかりしていくおばちゃんになるのは嫌だ。


あくまでも積み重ねが大事なんだから、いまさら足掻いたところで見苦しいだけ。


でも若い頃恥をかかずにやってきてしまったためにいまさらこの歳ではできんやろ、と思われるようなこともたくさんあるのだが、

どっちにしたって毎日、息を引き取るその日までは時間が(もしそれが嫌だと思う時があっても)あるんだから、だったら無理だろーがなんだろーがやってみたほうがいい、と思う。


若いころ失敗を怖れて失敗を避けようと安パイな道を通ってきた分、失敗から学ぶことも少なかった。自分の力のなさも実感してはわかってないんだと思う。
考える力も、あんましない。

もういまさらなんで失敗したら、大人のはしかとかみたいに…小さい時にやっとけば軽く済んだものを、大人になってからやると致命傷になることもある。

なんつーか致命的にイタくてサムイ満載な女、というところに行きついてしまう場合もあるのだろう。
まあ、挽回はほとんどムリ、と思っといてもいいだろう。


それでもやんなきゃさらに悪くなんのでは?なこともある。

だからやって、致命傷になる恥ずかしい失敗でもなんでもすればいーよ。


そーじゃないともう、どうにもならん。


まあ思うのは、なんでもやってみるかやらないか、だ。
この歳でも全く知らんとこに放り込まれても、やってきゃ、少なくともやる前より身についてきたこともあるもんね。


結果はあとからついてくるからな。


やっぱし最初は居づらくても、すぐれたひとのいいところは見て学ぶものがある。
そーいうひとのところに行くことも大事なのだ。


まあ、いままでわたしに関わってくれたあのひとやあのひとについては、
君らの選択は間違っちゃいないよ、と言いたい。
(いや、言ってはいかんが。)
まあでも、勝つか負けるかでもし言うのなら、負けてばかりいられない。
ねじふせて勝つとか仕返しして勝つとかそういう意味じゃなくて、対等にはなっとかんといかん、と思う。

そしてわたしがしてきたこの選択も、まあ今この時点では、自分で考えるきっかけになってよかったかも、とも思える。


そして似たひとを反面教師にしてしまいますが、


恨みがあっても、それを繰り返して何度も何度も同じことを言うのは、美しくない。


と思った。

何回おんなしこと言うとるねん。


いやだけど人から見たら五十歩百歩なんだろうなーコレ。


追って追われてな関係は疲れるが、それでもどっちもばっしばっしやってかんとどーにもならんぞ、と思う今日でした。


時間、遅!


もう寝よ。