経堂めぐみ教会

日曜礼拝のメッセージ動画です。

7月15日 聖日礼拝

2018-07-15 17:51:39 | 礼拝
聖書:マタイの福音書5章43~48節
メッセージ:"敵を愛する"
特別賛美:恵泉女学園中学ハンドベル

(44~45)「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。」
 イエス様は難しいことを言われます。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさいと。今日はこのみことばを中心に、愛するとは、どういうことかを見てまいりましょう。


Ⅰ:愛するとは相手を大事にすること

(43)「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。」
(44)「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」
 当時、ユダヤの教師たちは『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と教えていました。彼らにとって隣人とは、同じユダヤ人の同胞だけを指していました。それ以外の異邦人や律法を守れない収税人や遊女は彼らの隣人とはみなされていませんでした。ですから、自分たちの同胞以外の人たちは愛する対象としていませんでした。しかしイエス様は「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われました。
 私たちだったらどうするでしょう?「無理。そんなの絶対に無理」となりますか。自分の友達や仲間、気の合う人たちを愛するのはできますが、イエス様が言われる、自分の敵を愛し、迫害する者のために祈るということは簡単にできることではありません。

新約聖書はギリシャ語で書かれています。ギリシャ語には愛を表すことばがいくつかあります。
①「エロース」男女の愛を示し、情熱的な性の愛です。このことばは聖書には使われていません。
②「フィリア」友との美しい友情、真実な愛を表します。人と人との親密な情愛や、友情などを意味します。
③「アガペー」無償の愛、見返りを求めない愛。どんなことをされても、善意をもって、その人のために最善を尽くそうとすること。この箇所で使われている言葉です。
ここで使われている「愛」とは、家族や恋人や好きな友人を愛するとは違った種類の愛です。家族や恋人、友人に対する愛は、本能的に自然に起こってくるものです。心の中にある情から生まれてくるものです。しかし、敵を愛する場合は、意思が必要となってきます。愛さないではいられないから愛するのではなく、愛そうという意思をもって愛することです。

「愛する」ということばを聞いてどういうイメージを持つでしょうか。もしかしたら男女間の恋愛のことが思い浮かぶかもしれません。日本語の聖書にはいろいろな訳があります。中には珍しいものとして、宮城県の気仙沼の方言で訳された聖書があります。ケセン語訳聖書です。復興へ立ち上がろうとする人たちの思いに重ねて訳されました。方言でつづられた言葉はストレートに読む人の心に訴えかけています。そのケセン語訳聖書には、「愛する」は何と訳されているかと言いますと、「でーじにする」「大事にする」と訳されています。大切にするということです。「愛する」とは、相手のことを「大事にする」「大切にする」ということなら、わかりやすいと思います。感情的な好き嫌いではなく、意思を働かせて相手を大事にすることです。
イエス様はそのような意味で「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」と言われました。


Ⅱ:愛するとは神さまの大きな愛に倣うこと

(45)「それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」
 天の父なる神様は、良い人にもそうでない人にも太陽の陽を注ぎ、正しい人にもそうでない人にも雨の恵みを注がれます。誰もが空気や水、自然の恵みに生かされています。なぜ神様は、ご自身に逆らうような人にも恵みを注がれるのでしょうか。それは、その人もまた神が造り、愛しておられるからです。
(イザヤ書43章4節)「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と聖書には書かれています。神様の目から見て、すべての人が高価で尊い存在なのです。

先ほど賛美しました「君は愛されるため生まれた」という歌は、韓国人のイ・ミンソプ牧師が神学生の時に作詞作曲したワーシップソングで韓国内で大ヒットしました。韓国では誕生日の時に歌われることが多く、クリスチャン以外の人たちにも良く知られた歌です。歌詞を紹介します。「君は愛されるため生まれた。君の生涯は愛で満ちている。永遠の神の愛は我らの出会いの中で実を結ぶ。君の存在が私にはどれほど大きな喜びでしょう。君は愛されるために生まれた。今もその愛 受けている。」
 自分は愛されていると感じるでしょうか。家族や友人仲間に愛されるように、神様に愛されています。私たちはみな神様に愛されている存在です。神様の愛を受けていない人は誰もいません。そのことを歌った歌です。
 人は愛されて初めて人を愛することができます。すべての人が神様の大きな愛に包まれています。
イエスは、ご自分が軽んじられても、疎まれても、嫌われても、その人々を愛して、その人のために十字架にかかられました。これが、神が私たちを愛してくださっている愛の大きさです。イエスは、その神の愛の大きさに倣って、私たちにもまた、愛してくれる人を愛するという当たり前のことをするだけでなく、愛してくれない人も愛するという生き方を命じておられます。


Ⅲ:愛するとは自分ができる小さなことから始めること

(46~47)「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。収税人でも、同じことをしているではありませんか。また自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。」
(48)「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」
 自分に好意を持ってくれる人を愛することはたやすいことです。また自分の親しい仲間だけにあいさつすることは努力しなくてもできることです。そのようなことは、誰でもやっていることです。
 ですから、自分に好意を持たない人を愛したり、自分の気の合わない人にもあいさつしたりして、天の父のように完全でありなさいと言われました。
 
ここでイエス様はどのように教えているでしょうか。先ず一つは、その人のために祈るということです。イエス様は「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」と言われました。
自分の力では、敵対する人を愛することはできません。しかし好きとか嫌いとかの感情に関係なく、その人のために祈ることは可能です。祈るとは、神様にお頼りすることです。どうしても愛せないなら、愛せないその正直な感情も神様に打ち明けて、その人を愛する愛を与えてくださいと祈ることも助けになると思います。神様は、私たちのありのままの思いを受け止めて、慰め、癒し、大きな愛を私たちに注いでくださいます。その人のために神様にお祈りいたしましょう。

またイエス様はこのように言っています。
(48)「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」この「完全」とは、間違いがなく完璧なことを言っているのではありません。神様はひとり子イエス様を十字架につけられ、救いのみ業を成し遂げられました。それゆえ、私たちもそれぞれ置かれた場所で成すべきことを成していく時に完全とされるのです。限られた存在ですので神様のように完璧にすることはできません。限られた力の中で、出来ることをしていきます。小さなことでもよいので自分にできることから始めていくことだと思います。

 カトリックのシスターである渡辺和子さんは、「置かれた場所で咲きなさい」という本を書かれました。渡辺さんは36歳という若さで、岡山のノートルダム清心女子大学の学長に任命されました。渡辺さんにとって、初めての土地、思いがけない役職、未経験の事柄の連続で、彼女はいつの間にか「くれない族」になっていました。「あいさつしてくれない」こんなに苦労しているのに「ねぎらってくれない」「わかってくれない」教職員や学生から、挨拶されるのが当たり前と考え、そうしない相手に、いきどおりを感じる傲慢な人間だったと振り返っています。自信を喪失し思い詰めていた彼女に、一人の宣教師が一つの短い英語の詩を渡してくれました。その詩の冒頭の一行が「置かれたところで咲きなさい」という言葉でした。
 それから、彼女は変わりました。置かれた場で不平不満を持ち、他人の出方で幸せになったり不幸になったりしては、私は環境の奴隷でしかない。人間と生まれたからには、どんなところに置かれても、そこで環境の主人となり自分の花を咲かせようと、決心することができました。それは「私が変わる」ことによってのみ可能でした。
いただいた詩は、「置かれたところで咲きなさい」の後に続けてこう書かれていました。「咲くということは、仕方がないと諦めることではありません。それは自分が笑顔で幸せに生き、周囲の人々も幸せにすることによって、神が、あなたをここにお植えになったのは間違いでなかったと、証明することなのです。」
 彼女は、かくて「くれない族」の自分と決別しました。私から先に学生に挨拶し、ほほえみかけ、お礼を言う人になったのです。そうしたら不思議なことに、教職員も学生もみな明るくなり優しくなりました。

 不思議なことですが、自分ができる小さなことから始めて、自分が変わることによって、置かれた状況や環境が変わることがあります。敵を愛するということは難しいことですが、渡辺和子さんが自分から他の人に声を掛けることによって状況が変えられていきましたように、私たちも無理せず自分ができる小さなことから始めてみてはいかがでしょうか。
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