陸奥月旦抄

茶絽主が気の付いた事、世情変化への感想、自省などを述べます。
登場人物の敬称を省略させて頂きます。

オランダへの旅

2006-11-12 04:44:34 | 旅行
 急にオランダへ会議参加で行く事になった。ついでに、ベルギーとルクセンブルグも覗き見することにした。10月25日昼頃に成田から出発、オランダのスキポール空港へ到着したのは同日午後6時少し前、時差は-7時間。空港近くのスキポールA4ホテルへ泊まる。

 翌日は、スキポールからアイントホーフェンへIC列車で行った。約2.5時間の乗車。アムステルダムを過ぎて、1等車の通路を挟んだ向こうの席から、紳士風の男が流暢な英語で「オランダ語が分るのか」と聞いて来た。私が車内に放置してあったオランダの新聞を取り上げて何とは無く見ていたので、そう話しかけたらしい。「いいや、写真を見ているだけですよ」と答えると、にっこり笑った。彼は、挨拶した後ユトレヒトで下車して行った。

 昨年オランダへ来た時は、スキポールから逆方向にレイデンへ列車で行って一泊、それからデン・ハーグを訪れた。デン・ハーグで数日過ごし、その後IC列車でロッテルダム経由アイントホーフェンへ行った。今回とは経路が大分違うが、全体でも九州と同じくらいの面積のオランダである。乗車時間にそう大きな違いは無い。

 アイントホーフェンでは、マンダリン・プラザホテルにチエック・インする。駅の北方面へ歩いても10分強だが、荷物があるからタクシーを使った。指定された部屋へ行くと、おやおや、これは禁煙室だ。そこでフロントに行って、担当の若い女性に部屋を変えて欲しいと言ったら、「まだ早いから、他は掃除が終っていない。その部屋でタバコを吸っても構わない」と言って、灰皿を渡してくれた。何とも気軽なものだ。

 荷物の整理を終えから、タクシーを呼んでもらって、アイントホーフェン工科大学へ行った。ベンツを動かす若い男の運転手は、自分はここの卒業生で数理統計学を専攻したと言う。企業へ行ったが、訳あって辞めたらしい。親切な男で、構内で学生を捕まえながら目的の建物まで運んでくれた。その意気に感じて、2ユーロをチップとして渡した。

 会議は3日間あった。ヨーロッパ各国、ロシア、ポーランドやルーマニア、中共、日本と参加者の国籍は多彩である。昔からの知り合いもかなりいた。この間に、私も1時間程パソコンを使って研究紹介をした。まあ、気楽な集まりとの印象である。

 アイントホーフェンは、人口30万人位、オランダでは第3位か第4位に人口の多い町だが、歴史的な名所は殆ど見当たらず、運河も風車も縁遠い。要は、戦後フィリップス社の発展と共に大きくなった新興都市だ。この点、大阪の門真市に似ているが、あれほどごみごみしていない。トラムも無いが、古い大きな教会はダウンタウンに2ケ所程ある。その周辺には、巨大な商業施設があり、それを中心に様々な商店・料理店がひしめいている。街全体としてはそれほど広く無いから、40分も歩き回るとダウンタウンの大凡の配置は分る。

 昨年初夏、アイントホーフェンに滞在する日本人の友人とダウンタウンへ食事に行った。彼は、ムール貝のセットを取って食べたが、それは小さなバケツに山ほどあった。その時、勧められたにも係わらず私は遠慮したのだが、実はムール貝に少々興味があった。と言うのは、パリ・シャンゼリゼの<ロトンド>で、妙齢の婦人が同じようなものを貝殻で食べているのを見て、あんなもの本当に美味いのかなとの印象を持っていた。今回は、ベネルックスの何処かでムール貝を食べてやろうと密かに思っていたが、アイントホーフェンではそのチャンスが無かった。

 オランダは、名物料理の少ない国だ。まあ、レストランで新鮮な魚類を食べていれば無難であるが、個性的な料理には出会わない。スモークサーモンや舌平目は確かに美味いけれども、調理様式はフランス風である。鮮魚と言えば、小振り鰊の生身は何処でも手に入り、これは多くの人達が誉めるだけあって美味いものだ。大都会では、屋台で売っているし、スーパーマーケットには、量を変えて生鰊が沢山並んでいる。ちょいとレモンを垂らして、オランダビールと共に食べると、えも言われぬ感じである。

 さて、週末にはL教授の自宅で彼の還暦祝パーティに招待された。前もって、お祝の赤い「ちゃんちゃんこ」と同色の帽子、それに彼は酒とたばこが大好きだから、黒田節の博多人形を準備し、それらを持って行った。人形は、大きな盃と槍を持っている姿で、30cm角のガラス箱入りだ。奥さんへのプレゼントは、浮世絵の大型扇子にした。

 L教授の家は豪邸である。茅葺きの曲り屋造り・変形切り妻で、1階だけで軽く150坪はある。庭も広々としている。大広間にはグランド・ピアノがあるし、喫煙室を別に設けていた。書斎と客間を繋いで解放すると、大広間はかなりの空間になる。そこへ年寄りから若いのまで、男女70人位が三々五々に集まった。

 御当人が司会をして、60年間生きて来た感慨をユーモアを交えて語る。その後、プレセントの紹介だ。真っ先に私が指名されたから、赤い「ちゃんちゃんこ」をその場で彼に着せてやり、帽子を被らせて、これは日本の伝統的な祝儀だと説明した。L教授は大喜び、そして黒田節人形を渡してお前は侍だと言ったら、感激していた。客人達も暖かい拍手をした。

 彼は、様々な人達から、色々なプレゼントを貰っていた。ユーモアに溢れた最新型のプラスチック製溲瓶もあれば、ローレックスの腕時計もあった。ウィスキーのプレゼントが多かった。オランダ人達に聞いたら、還暦祝は我が国同様、彼の国では何処でも盛大にやるそうである。

 豪華なビュッフェ料理が出て、肉類、サラダ、果物、数々のハム、チーズなどが派遣ホステスによって供された。L教授の細君は、料理に全然タッチしないで、総べてホステスに任せ切りである。酒も赤白の各国ワイン、ウィスキー、ウオッカ、ブランデー、それに、大きなビール・サーバーが並べられた。私は、スペイン産の白ワインが気に入って、そればかり飲んだ。

 大体喫煙室に集まるのは、個性のある人が多い。オランダも喫煙規制は厳しくなりつつあるが、それを物ともせずにやっている輩達だ。葉巻きを燻らせる年輩者、50代のチエーンスモーカーのおばさん達、遠慮しがちに煙草を吸うルーマニアの女子学生、意味の分らぬ英語を喋るイスラエル人の人妻、皆つわもの揃いの印象であった。彼らはオランダ語でお喋りをしているが、私が加わると全員英語になる。

 大広間では、サンパウロに住むL教授の息子が父親の60年の生活をスライドに纏めて紹介した。また、L教授の娘は20代後半、魅力ある女性で素晴らしいホステス振りを発揮していた。やがて、ピアノの達人を囲んで合唱が始まる。オランダ語、ドイツ語、後は分らぬ言語で皆楽しそうに唄う。それに合わせて、ダンスも始まった。こんな時に、一緒になって騒げない自分が寂しくなる。言葉の点もあるが、年齢の差を感じるのだ。そう言えば、ドイツ人達も騒ぎに参加せず、じっくりとワインを飲んでいた。

 聞くと、このパーティは朝までやると言う。これでは、体力勝負だ。午後11時頃、L教授へ明日は早くにブリュッセルへ出かけるから、もう帰るよと言うと、彼は友人の中で帰宅する人達を物色し、その人の車でホテルまで送り届けてくれた。

 米国では、何人かの教授達に幾度も自宅パーティへ招待されたが、このオランダ人教授のパーティに比べると豪勢さと賑やかさでは劣る。それに、米国の教授達のパーティは、概して静かであり、時には政治談義もあって興味深かった。まあ、言ってみればインテリジェンスに溢れていた訳だ。今回は、還暦祝と言う特殊なパーティで御夫人達も多く、政治談義等出来る雰囲気ではなかったが、それなりに印象の深いものがあった。
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