陸奥月旦抄

茶絽主が気の付いた事、世情変化への感想、自省などを述べます。
登場人物の敬称を省略させて頂きます。

「一字一涙の碑」:関根・普門院の訪問

2007-04-09 05:27:03 | 旅行
 4月8日の日曜日は、県会議員選挙の投票日であるが、この地域の立候補者は3名で、定員と同じになったので無競争、結果として投票はなかった。この選挙期間中、拡声器で怒鳴りあう風景は見られず、実に静かであった。注目の東京都知事は、石原慎太郎氏が3選を決めたようで、混乱の時期にあって都民は安全を指向したのだろう。

 1日中良い天気だったから、近在の山へドライブしながら山菜取りを試みた。しかし、まだ山中に残雪多く道路にもかなり残っていたので、途中で諦めた。それでも、少しばかり蕗の薹を集め、香りを楽しんだ。せっかくドライブに出たのだからと言うわけで、思い立って関根の岩上山(がんしょうざん)普門院へ足を伸ばす。

 ここは、奥羽線関根駅から徒歩で約5分の場所にある真言宗の古刹である。創立・仁寿3年(853)と言うから、かなり古いが小さな寺である。本堂は寛政8年(1796)8月末に落成し、そのままの姿を現在も伝える。国史蹟指定の本堂の前に「一字一涙の碑」があって、これは大正4年4月に建立された。それには、折衷派の学者細井平洲が九州に住む弟子に送った書簡の一節が書かれている。

 碑文に曰く
 「此処は南郊一里五六町も府城を距り申す処に候。最早候の儀衛遥かに相見え候に付き五六町轎を下り歩み申候処、普門院と申す寺の門前に両側に雲従俯服し、候は路の中心に立たれ相待たれ候。進みて拝し申候処愚情は地に手して拝たく存候へども候の態度は左候はば、手に地して御答拝之有るべき様子故に是非なく足附けに手して拝し申候。先つ何の言もなく老涙満顔に御座候。老候も涙満面先生御安泰と計にて。ご案内申すべしとて寺門に入られ候。外門より中門まで足指仰ぎ申候。三町ばかり坂に御座候。聯歩にして進み申され候。中々一歩も前行之無く候。杖を進められ候へ共、辞して杖せず候間、もしや躓も致すべきやとの心遣ひと相見え手を引かぬばかり比肩して進まれ候。堂に登り候節御案内と申され候て階を登り堂板に俯伏して待たれ候」

 細井平洲は、上杉治憲(鷹山)14歳の時からの教学の師であり、治憲が藩主になってから二度米沢を訪れ、藩校「興譲館」の設立やそこでの講義を行なった。治憲が隠棲して鷹山を名乗る頃、既に上杉藩の治政充実は世に広く知られていた。

 寛政8年、69歳になった平洲は、愛弟子治憲に会うべく、出仕していた尾州家の許可を得て三度目の米沢行きを試みた。平洲の高弟神保綱忠は、興譲館の督学として活躍していた頃である。

 二人の門人を伴い、数名の上杉藩士に護衛されながら江戸を出て12日目の9月10日、平洲一行は米沢城下から約6km離れた関根の普門院に到着する。そこには上杉鷹山(46歳)が多数の武士達を従え、平洲を迎えようと待っていた。藩の最高権力者が、城外に出向いて賓客を迎えるのは極めて異例である。だが、鷹山は恩師への敬愛の念深く、普門院まで赴いたのだ。

 碑文にあるように、平洲が地面に手を付いて挨拶すれば、鷹山もそうするであろうと考え、膝に手を当てて平洲は鷹山へ挨拶した。鷹山も平洲も、再会の嬉しさに涙が止まらなかった。その後は、相並んで歩き、山門を通るときは平洲の足下に気を遣った。先に本堂へ上がった鷹山は、床に手を突いて平洲を迎え入れた。建物は1週間前に新築落成していたから、木の香りが馥郁としていたことだろう。

 今でも、本堂には当時平洲をもてなした茶器、酒器、火鉢などが展示してある。

 この時の平洲の米沢滞在は50日ほどであったが、晩秋の米沢を去る際、再び鷹山は平洲を普門院まで送り、離別の杯を共にした。平洲は「生涯最早再遊之無き地山川遼落錆魂言語同断」と述べる。

 江戸へ戻った平洲は、弟子にこの懐かしい思い出を認める時、感激ではらはらと落涙したと伝えられ、「一字一涙」とは書簡に添えられた神保蘭室の跋文「之を読めば一字一涙、人をして慨焉(がいえん)として往日を憶わしむ」から採ったとされる。この美談は、戦前尋常小学校国定教科書に載せられ、敬師の亀鑑とされたのである。

 このような背景を持つ普門院は、全国唯一の敬師史跡であるが、山門、本堂、庫裏などの保存状態はあまり良いとは言えない。国家並びに、米沢市の奮起が望まれる。
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