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・・・🌤  夏山です  ☀・・・

宝篋山(ほうきょうさん)

2022年04月13日 | その他の山

4月12日茨城県土浦市へ遠征、宝篋山を歩いてきました。

宝篋山を知ったのは、筑波山へ上った際地元の人に「あれが宝篋山」と教えてもらった縁です。

根岸線~宇都宮ライン~常磐線で土浦駅へ約2時間の移動。

9:25 筑波山口行きの関東🚌で「宝篋山入口」BS 10:05着 

晴れ、気温は夏日の予報(中央の電波塔が山頂)

10:10 沢沿いの道「常願寺コース」を行きます

ハルジオン

クサボケ

田圃の畦道を歩いています

迷うことはないようです

ムラサキサギゴケ:ゴマノハグサ科(小さい花が多い)

ヤマネコノメソウ

沢の小道を行きます。

宝命の滝・くすしろの滝わずかな落差の流れを命名していますが気が付かなかった?

天狗岩、沢沿いの道低山とは思えない雰囲気です

雅滝:落差2m?

ユリワサビ

イチゴ

11:10 尖浅間山(とがりせんげんさん)315m

キランソウ:シソ科   

      

スミレの皆さん            キジムシロ

ヤマツツジが一輪

ムラサキケマン

12:00・12:15 宝篋印塔

宝篋印塔とは「宝篋印陀羅尼」(呪文)を内に収めた供養塔をいう。

鎌倉中期以降各地に造立された。 

塔形は方形の階段状の基壇・方形の塔身・笠・屋頂に相輪を載せ、塔身の四面に古くは梵字を刻んだ。

宝篋山の山頂には山の名前の由来となった高さ約2.5mの宝篋印塔が建っており、

 鎌倉時代中期に建てられたと言われている。

内部には、このお経を納めれば、天災を免れたり、来世で苦しんでいる先祖を

 極楽に導くことができたり、現世で苦しんでいる人々を救うことができる等、

八つの功徳があると言われています。     【豆知識より抜粋】

筑波山を正面に昼食     

12:15 宝篋山:461m、撮ってもらいました

「宝篋城跡」を散策し、極楽寺コースを降りました

ジュウニヒトエ:シソ科

ウラシマソウ:サトイモ科テンナンショウ属

「コブシの路」わずかに花が残っていました

パンパンに乾いて少し歩きづらい道 

早くもチゴユリが咲いてました

何・・・・・・・だ 

ホウチャクソウ?と

道は沢沿いへ

ニリンソウがいっぱい咲いてました 

杉林に「風花」が舞ってます

シャガ

里に下りてきました 

最後の宝篋山   

写真のない花たち   

オオイヌノフグリ、タンポポ、シキミ、シダ類、ホウチャクソウ、ナズナ、タネツケバナ

  行程:標高差440m、7km、約3時間

  9:25 JR常磐線土浦駅 =10:05 宝篋山BS ⇒10:10 小田休憩所・(常願寺コース)

   ⇒沢沿いの道)11:10 尖浅間山:315m ⇒12:00 宝篋山:461m 

   ⇒12:15 (極楽寺コース) ⇒13:30 小田休憩所 ⇒13:44 宝篋山入口BS

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>>>空海 その11

・・・15歳の空海は讃岐の国を出てゆく

これ以降、定住のかたちとしては、故郷に帰ることがなかった。

空海が都に上ったのは延暦7年、帝は「桓武」。

空海が畿内の地を踏んだ頃は「奈良」と通称されすでにさびれはじめていた平城京。

桓武は延暦3年、突如奈良から山城国長岡への遷都を宣言する。

新都といっても荒蕪の丘陵地に過ぎず、

 「この地を開いて帝都たるべき新都市を建設せよ」と命じた。

奈良ではどれほどすごしたであろう?おそらく早々に発ち長岡に向かったはずだ。

彼はひとまず叔父の阿刀大足宅に寄寓して、

 大学に入れるだけの学力を蓄えなければならない。

叔父は「明経科=行政科」がいいだろうとこの甥のために決めていた。

空海は素直にこの道に進むのだが、結局はこの創造力に溢れた少年は、

 ぼう大な注疏の暗誦をして、いっさいの創意が許されないという知的煉獄にあえぎ、

  そこから脱出するにいたる。【空海の風景:二より】



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