現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

藤田のぼる「現代児童文学史ノート その五 児童文学の八十年代」日本児童文学2013年9-10月号

2018-05-22 09:15:17 | 参考文献
 著者は、現代児童文学を三期に分け、60年代、70年代を第一期、80年代から2000年代後半までを第二期、そして、それ以降を第三期としています。
 1980年ごろに現代児童文学に変曲点があったことは通説で、私も自分の体感としてそれに同意していることは他の記事にも書きました。
 著者は、この時期の児童文学研究の代表的な研究者である宮川健郎、石井直人、佐藤宗子の意見を引用して、彼らが指摘した事象に加えて以下のように述べています。
「僕が一九八〇年あたりを「第二期」の始まりとするのは、宮川や佐藤の捉え方と重なりつつも、それらは「一つの側面」というふうにみる。『ぼくらは海へ」も含めて、作品そのもので第二期の始まりとするのには無理がある。僕は、第二期というのは、作品そのものが変化した(もちろん、それもあるが)というより、児童文学の枠組み、あるいは位置づけ、読まれ方が変わったところに、その変化の本質があると考える。枠組みというところから比喩的にいうならば、第一期(六〜七〇年代)の児童文学が「単線」だったのに対して、第二期の児童文学は「複線」になったのだ。急行もあれば各駅もあり、一方で特急もある。そのどれかだけで児童文学を語ることは無理になったのだといえよう。また、位置づけ、読まれ方という点からみれば、(かなりに乱暴な括り方ではあるが)第一期において児童文学は言わば「人生の教科書」的な存在として意識されていたが、第二期以降はもはやそうしたあり方ではなくなった、というふうに捉えることができると思う。」
 著者は、ここでいう複線化の要因として、エンターテインメント路線(那須正幹「ズッコケ三人組」シリーズ、矢玉四朗「はれときどきぶた」など)とそのシリーズ化(注:このことは別の記事でも書きましたが、単線型の成長物語から複線型の遍歴物語への変化を意味しています)をまずあげています。
 次に、児童文学の小説化を指摘して、従来の物語重視からより小説的に描写を重視するような作品(舟崎靖子「とべないカラスととばないカラス」、加藤多一「草原―ぼくと子っこ牛の大地」など)の登場を指摘しています。
 最後に、「「他者としての子ども」」をモチーフの中心におこうとする創作態度」をあげて、その代表的な作家として岡田淳をあげています。
 これは、従来の作家が自分の子ども時代の体験をベースに創作していたのに対して、作者が大人として接した子どもたちを「他者」として捉えていこうとしているとしています。
 そして、子どもたちの児童文学の読まれ方が、かつてのように絶対的な(教科書的な)ものとしてではなく、一種のシミュレーションとして作者と読者の約束事になっていると指摘しています。
 全体として、八十年代の児童文学の多様化について概観していますが、例によって引用が多く、著者の意見がよく見えません。
 また、現象としてそのようなことが起こったことは分かるのですが、それがなぜ起こったのかについては言及していなくて、ここでも現象の後追いにとどまっています。
 やはり、社会全体の動きや、子どもを取り巻く環境の変化、児童文学ビジネスの変容などについて考察しないと物足りません。
 私見を少し述べると、階級闘争の敗北による社会主義リアリズムの退潮、学歴社会への子どもたちの疑念(「いい学校」に入れば「いい会社」に入れて「いい人生」をおくれるというかつての日本のメリトクラシー(業績主義)が機能不全をおこし始めている)、児童文学出版ビジネスの確立による作品生成の効率化(シリーズ化、軽装版など)などが、八十年代の児童文学の多様化(出版バブルとも言えます)の背景にあったと思われます。

日本児童文学 2013年 10月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
小峰書店
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