現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

リメンバー・ミー

2018-05-18 09:04:15 | 映画
 2017年に公開(日本では2018年)され、アカデミー賞長編アニメーション賞を受賞した作品です。
 主人公の音楽好きの少年が、死者の世界と行き来することによって、家族(先祖も含めて)の大切さと音楽の素晴らしさを両立させていく姿を描いています。
 ピクサーならではの映像はもちろん素晴らしいのですが、全編を流れて音楽(メキシコ系)も魅力的で、主題歌の「リメンバー・ミー」は「グレーテスト・ショーマン」(その記事を参照してください)などを抑えて、主題歌賞も受賞しました。

リメンバー・ミー オリジナル・サウンドトラック
クリエーター情報なし
WALT DISNEY RECORDS
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小川洋子「竜の子幼稚園」いつも彼らはどこかで所収

2018-05-18 08:37:04 | 参考文献
 病院の調理助手を定年退職して、身代わり旅人になった女性の話です。
 身代わり旅人というのは、何らかの理由で旅行ができない人に代わって、その人に関する物を「身代わりガラス」という容器に入れて旅をする職業です。
 彼女は、幼い頃に幼稚園の滑り台で死んだ弟のことを、今もひきずっています。
 いくつもの卓越したアイデアをもとに、リアリズムとファンタジーの狭間が鮮やかに描かれます。
 児童文学でも、このような世界はよく書かれています(例えば、安東みきえの「夕暮れのマグノリア」など)。
 この作品も、子どもだけでなく大人(特に女性)も読者対象とした広義の児童文学といえるでしょう。

いつも彼らはどこかに
クリエーター情報なし
新潮社
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最上一平「たぬきの花よめ道中」

2018-05-17 08:57:45 | 作品論
 田舎のたぬきが、都会のたぬきにお嫁に行くという奇想天外な絵本です。
 タイトルに「花よめ道中」とあるように、親戚一同も人間に化けて、ぞろぞろと都会へ向かいます。
 たぬきにとっては、都会の方が過疎地と言う逆転の発想が生きています。
 町田尚子の迫力あふれる魅力的な絵が全編を彩っていて、読者を不思議な世界へ誘います。

たぬきの花よめ道中 (えほんのぼうけん)
クリエーター情報なし
岩崎書店
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辻原登「Yの木」Yの木所収

2018-05-17 08:22:51 | 参考文献
 辻原の博覧強記ぶりは、この作品では本業の文学に対して発揮されています。
 カフカ、カミュ「ペスト」の登場人物、ゴーゴリ、大瀬渉、そして主人公などの人生を通して、(書けなくなったあるいは経済的に困窮した)作家及び作家志望者とその死(特に自死)を描いていきます。
 登場人物の一人の作品を揶揄するのに使われているペダントリーという言葉がこの作品にもあてはまるようにも感じられますが、作品のテーマに即しているので、かなりマニアックではあるものの、発表誌の「文学界」の読者を考慮すると許容範囲かなと思われました。
 「創作を志して、書けなくなって(あるいは食えなくなって)死を選ぶ」というのは、作家志望者(特に男性)ならば、一度は想像するであろう恐怖の(そして少し甘美な)未来の姿でしょう。
 他の記事でも書きましたが、私自身は、商業出版するとほぼ同時に第一子を授かり、筆一本の生活はあきらめました。
 自分がどのくらいエンターテインメントの作品が書けるかは未知数だっただけに、おそらく経済的及び家庭的には正しい選択だったと信じたいのですが、一方でそのために書かずに終わった作品があったであろうことには今でも未練はあります。

Yの木
クリエーター情報なし
文藝春秋
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児童文学とSF

2018-05-16 08:19:59 | 考察
 かつてSFは、児童文学の確固たるひとつのジャンルとして存在していました。
 しかし、今では、安直なファンタジーに市場を席巻されて、本格的なSFは児童文学から姿と消しました。
 その理由のひとつには、子ども読者の受容力の低下があるでしょう。
 現在の児童文学の読者には、科学的な裏付けをもったSFよりも、夢とロマンだけで紡がれているファンタジーの方が心地よいのです。
 それには、現在の児童文学の読者が、幼年を除くと圧倒的に女性が多いことも影響していると思われます。
 一方で、書き手側の問題もあります。
 本格的なSFを書くには、科学の勉強が必要ですし、資料を集める作業も欠かせません。
 それよりは、既存の世界観に寄りかかった安直なファンタジーを書き飛ばす方がはるかに楽なのです。
 こうして、書き手と読み手の双方の理由により、本格的なSFは児童文学の世界に生まれにくくなっています。

夏への扉 (ハヤカワ文庫SF)
クリエーター情報なし
早川書房
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動物ファンタジーの動物たち

2018-05-15 08:34:06 | 考察
 児童文学のひとつのジャンルとして、動物ファンタジーがあります。
 動物を擬人化すると、人間を登場人物にするよりも、書き手としてはより自由度が得られ、子どもの読者の方は親しみやすいという利点があります。
 そのため、民話や神話の時代から、多くの動物ファンタジーが作られてきました。
 私自身も子どものころから動物ファンタジーが大好きで、特にケネス・グレーアムの「楽しい川辺(私が子どもの頃愛読していた講談社少年少女世界文学全集では「ヒキガエルの冒険」というタイトルで抄訳でした)」は、今でも最高傑作だと思っています。
 大学の児童文学研究会に入っていた1970年代半ばには、日本では斉藤惇夫の「冒険者たち」、そして海外ではリチャード・アダムスの「ウォーターシップダウンのうさぎたち」が出版され、研究会の友だちと三大動物ファンタジー・シリーズと呼んでいたマイケル・ボンドの「くまのパディントン」シリーズ、マージェリー・シャープの「ミス・ビアンカ」シリーズ、ジャン・ド・ブリュノフの「ぞうのババール」シリーズも次々に翻訳、刊行されていました。
 このように、動物ファンタジーには長い伝統があるのですが、そのために動物に固定イメージ(例えば、「キツネはずるい」、「犬は忠実」など)が出来上がっています。
 それらの固定観念をいかに覆して、新しい動物ファンタジーを生み出すかが、これからの作者の腕の見せ所です。

たのしい川べ (岩波少年文庫 (099))
クリエーター情報なし
岩波書店
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幼年童話の表記の方法

2018-05-14 08:27:56 | 考察
 一般に、幼稚園から小学校一年生ぐらいまで向けの幼年童話は、漢字がほとんど使えませんし、ルビもまだ難しいので、かなばかりになって読みにくくなることがあります。
 そのために、幼年童話独特の表記方法があります。
 それが、分かち書きです。
 文章を単語に分けて(助詞は前の単語にくっつけるのが一般的です)、少し離して記述します。
 分かち書きの代わりに、読点をやたら増やして記述している場合がありますが、あまり一般的ではありません。
 さらに、登場人物の名前や擬音、擬態語をカタカナ表記にするのも、読みやすくするために有効です。

幼い子の文学 (中公新書 (563))
クリエーター情報なし
中央公論新社
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小川洋子「目隠しされた小鷺」いつも彼らはどこかに所収

2018-05-13 09:45:33 | 参考文献
 ある画家だけのための小さな美術館で受付のアルバイトをしている青年と、「アルルの女」の曲を流しながら美術館にやってくる移動修理屋の老人に芽生えた奇妙な友情を描いています。
 老人はある一つの絵だけを見るために、美術館に通っています。
 老人はいつもなかなか帰らないので、学芸員などには迷惑がられていますが、青年だけは親切にしています。
 市井に生きる二人の孤独な人間の結びつきを描かったのでしょうが、どうも全体の印象が淡くて小鷺を助けるラストシーンもストンと胸に落ちてきません。
 児童文学で短編を書くときもそうなのですが、ラストで全体の像がはっきりしない場合はあまり成功作と言えないでしょう。
 短編作品は短ければ短いほど、起承転結がはっきりとしていないと、読者に訴えかけるものが弱くなってしまいます。
 もちろんこれはオーソドックスな作品の場合で、筋などは重要ではないシュールな作品などではこの限りではないことは言うまでもありません。

いつも彼らはどこかに
クリエーター情報なし
新潮社
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星野智幸「呪文」

2018-05-09 08:33:13 | 参考文献
 都内の二つの人気住宅地(架空)に挟まれて寂れかかっている架空の商店街とその周辺を舞台にした、風変わりな小説です。
 初めは、街おこし的なグループの話だったのですが、それがだんだん狂気の集団に変貌していきます。
 ネットやブログやラインなどの新しい風俗や、行き場のない若者たちの生態をうまく取り入れています。
 ただ、非常にご都合主義なストーリー展開と登場人物の均一的な長ゼリフ(没個性でたんに作者の代弁者になっています)が気になりました。
 エンターテインメントの手法も取り入れた実験的な作品なのでしょうが、登場人物たちの極端な思想にはついていけない読者も多いのではないでしょうか。

呪文
クリエーター情報なし
河出書房新社
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早見和真「新橋ランナウェイ」東京ドーン所収

2018-05-07 08:18:26 | 参考文献
 作品論ではないのですが、簡単にあらすじを述べます。
 全共闘世代の父親に反発して、主人公は一流企業でサラリーマンになりました。
 猛烈主義の課長のもとで仕事や社内の付き合いに疲れ切り、主人公はうつ病にかかって休職しようと考えています。
 しかし、恋人が妊娠したことを知り、会社に踏みとどまり結婚式をあげます。
 披露宴のスピーチで、課長がこれまで以上に頑張るようにハッパをかけたことに反発した父親が、妻や子どもや会社のためでなく自分の好きなように生きろと言い返します。
 時代設定がはっきりしないのですが、猛烈型の課長といい、団塊の世代の父親といい、人物造形がかなり古く、しかも型にはまっていて、まったくリアリティが感じられません。
 一応、会社生活を舞台にした小説なのですが、エピソードに具体性が乏しく、作者はこの作品の舞台になっているような会社で本当に働いたことや真面目に取材したことがあるのかなと、疑問に思いました。
 サラリーマン物のエンターテインメントはこんな程度の物なのかなというのが、率直な感想です。
 最近の児童文学のエンターテインメントもお手軽なものが多いのですが、大人の小説も似たような状況のようです。

東京ドーン
クリエーター情報なし
講談社
 
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調べた知識を作品へ反映させる

2018-05-06 08:53:41 | 考察
 書き手は、児童文学に様々な知識を持ち込みます。
 生物学、心理学、歴史学、文学、物理学、化学、数学、社会学、…。
 なんでも、作品に反映させること自体はOKです。
 その知識が、きちんとした裏付けがあって、書き手が自分の教養として消化されていれば、それが作品に反映されることは、読書の大きな楽しみになります。
 かつては、書き手たちは、本を購入したり図書館を渉猟したりしながら、膨大な時間をかけてそれらの知識を手に入れていました。
 しかし、今は違います。
 適当なキーワードで検索すれば、それらの知識はインターネットによって瞬時に手に入れられます。
 気をつけなければいけないことは、インターネットの情報は玉石混交であることです。
 そのため、作品(商業出版されていてもです)の中に、不確かな情報に基づいた「知識」がばらまかれています。
 インターネットだけに頼らすに、きちんと原典を取り寄せて、手間暇かけて調べてしっかり裏を取ることは、インターネットの時代でも変わらずに大切なことです。

インターネット (岩波新書)
クリエーター情報なし
岩波書店
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子どもたちの新しい風俗の取り入れ方

2018-05-05 08:28:27 | 考察
 子どもたちを取り巻く風俗は、昔と違ってすごく速いテンポで変わっています。
 ディジタル機器や通信サービスの変化の速さは、他の記事で何度も書きましたので、ここでは遊びについて述べます。
 例えば、小学生の男子の場合、昔ながらの外遊びもまだおこなわれていますが、携帯ゲームやトレーディングカードゲームなどが、少人数でもやれるので、多くの子どもたちに浸透しています。
 現在の子どもたちの生活を描くのにこういった遊びは避けて通れないのですが、かといって中途半端な知識でトンチンカンなことを書いたのでは、読者をしらけさせてしまうでしょう。
 もし描かなければならないなら、あっさりと書くか、詳しく書きたいならば自分でプレイするか子どもたちにきちんと取材して書くべきでしょう。
 また、現在は、少子化により多くの人数が必要な草野球や草サッカーは、子どもたちの遊びの世界において死滅しかかっています。
 現在の子どもたちがサッカーや野球をやりたかったら、少年野球やサッカーのクラブチームに入らなければなりません。
 これは、女子のバレーボールやバスケットボールに関しても同様です。
 一般に、同人誌の合評会や編集者のチェックにおいては、読む方もこういったことに無知なので、子どもたちの遊びについておかしなことを書いても、ノーチェックで素通りしてしまうことがあります。

街にあふれた子どもの遊び
クリエーター情報なし
彩流社



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グレードと用語の関係

2018-05-03 08:50:16 | 考察
 児童文学には、グレードということが存在します。
 出版社が、媒介者(子どもたちに本を手渡す両親、祖父母、学校の教師、図書館の司書、子ども文庫や読み聞かせのボランティア、書店員などの大人)が本を選ぶために、読者対象を細分化しています。
 例えば、幼年(幼稚園から小学校二年生まで(現在は三年生ぐらいまで含んでいるかもしれません)、中学年(小学校三年、四年生)、高学年(小学校五年、六年生)、中学生、ヤングアダルト(高校生以上)で、場合によっては複数の年代にまたがる場合もあります。
 そのグレードによって、使われる用語の制限も決まってきて、だいたい学校の指導要領に準拠しているので、それに外れる漢字などは仮名に開くことが編集者に要求されます。
 ある作品を書き始める時にはグレードのことはあまり意識しませんが、想定している読者の年齢がはっきりした時点でその理解度に合わせるように用語を書き換えますし、出版時にはさらに注意を払う必要があります。
 かつては、そのあたりは編集者が注意していてくれていましたが、今は編集者のレベルも下がっていますし時間的余裕もないので、書き手側の責任が大きくなっているようです。



幼い子の文学 (中公新書 (563))
クリエーター情報なし
中央公論新社
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時代性と郷土色

2018-05-01 08:54:56 | 考察
 最近の児童文学に少なくなっているものとして、時代性と郷土色があります。
 かつては、広範な時代背景を持った作品が、児童文学の世界でも描かれていました。
 時代性と言っても、江戸時代や戦国時代といったいわゆる歴史物に限らず、明治時代、大正時代、戦前、戦中、戦後といった近代のそれぞれの時代区分を舞台にした多様な作品が書かれていました。
 現在、そういった作品が少ない理由としては、それらの時代を知る人々が身近に少なくなったことも挙げられますが、それ以上に自分で身銭をきって(お金も時間も使って)きちんと調べて書いた作品が減っているからかもしれません。
 また、かつては、国内の地方地方における郷土色豊かな作品も多く書かれていました。
 そうした作品が少なくなった理由としては、テレビを初めとして、インターネット、スマホ、ゲームなどにより、子どもたちを取り巻く風俗が画一化して、現在を舞台にした作品では郷土色を出しにくくなっているのでしょう。
 そういった意味では、やや前の時代に舞台を設定したほうが、郷土色は出しやすいかもしれません。
 その地方ならではの文化を子どもたちに継承する上でも、こうした作品は意味があると思われます。

はじめましての郷土玩具
クリエーター情報なし
グラフィック社
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