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anastasia




劇場シーズン、始まっています。


先日、英国ロイヤル・バレエのリハーサル「アナスタシア」を見た。


ロマノフ朝最後の皇帝ニコライ2世の四女アナスタシアが、ロシア2月革命によって17歳で処刑されるまでの話と、アナスタシア詐称者の一人アンナ・アンダーソンの話がベースになっている。


若くして非業の死を遂げた高貴な人物には、例えばマリー・アントワネットの息子のルイ17世だとか、「なりすまし」...がつきものだ。「実は私こそがあのとき死んだとされたアナスタシアです」みたいな王族詐称者が。

これは山師が財産や地位を狙ってという理由もあるだろうが、誇大妄想などの精神を病んだ人が選び取りやすい人物像であるからなのかもしれない。
精神病院にはキリストやナポレオンが大勢いる...というのは有名な話だ。

ところで、われこそが17歳で処刑されたアナスタシアだと名乗り出た女性の数はなんと1920−30年代までに30人(ウィキペディアのアンナ・アンダーソンの項より)もいたそうですよ。
まあ、ロマノフ朝最後の大公女、革命のドサクサ...人を惹きつける要素たっぷりですよね。



マクミランのこのバレエは、アナスタシアを名乗り出た女性の一人、アンナ・アンダーソンがほんものの大公女だったのかどうかではなく(科学的に完全に否定されているそうだ)、「アイデンティティを失った人間はどうなるのか」というテーマで描かれている。


わたしはこの作品を見たのは始めてだった。
リハーサルとはいえ、なにか全体的に間が悪い(マクミランの死後に彼の妻らが別のアクトを組み入れたからか)と感じたが、実際に間の悪い時代だったのだろうし、なにはともあれ、アナスタシアとアナスタシアを名乗るアンナ・アンダーソンを演じたローレン・カスバートソンの舞踏と表現力はすばらしかった。
ブラボー、ローレン!

皇帝のお気に入りバレリーナを演じたサラ・ラムもすばらしかった。もっと見たかったぞ...



古典バレエのテーマというのは、わたしの考えでは(このブログにも何度も考察を書いている)こうだ。

子供は通過儀礼を経て大人にならなければならない。共同体の存続のために。

昔話がなんどもなんども子供に説くのはただこの繰り返し、同工異曲だと思う。
理由は簡単、人間が人間として存続するために最も大切なことがらだからだ。


これらお話の「子供」は、たいてい王子様だ。
王子様は大人になるためにある種の試練、それは決断だったり、冒険だったり...つまり通過儀礼を受ける。
彼の恋愛相手の美しい女性は彼に裏切られ、彼を大人にするだけのために登場する。


一方で、現代の全幕もののバレエのテーマは、昨今は社会自体が安定し、多くの子供が大人になる前に長いモラトリアム期を過ごせるようになった...からか、「うまく大人になれずに精神を病む子供」が語られる傾向がある気がする。

ある時点から、バレエの主人公を精神病にしてしまった例としては、マチュー・ボーンの「白鳥の湖」やベルリン・バレエの「白鳥の湖」(<わたしはこのプロットがかなり好きだ)がある。

以前は、うまく大人になれず悩んでいる子供(王子様)が、美しい女性の手を借りて(死なせて)なんとか通過儀礼を受け、とうとう大人になる...というのだったのに、現代版では、子供らは誰の手助けを借りようが、どうしても大人になれず、アイデンティティを確立できずに精神を病んでしまう...のである。

テーマは古典のオリジナルも現代ものも同一で、「共同体維持にためには子供はいつか大人にならねばならない(特に王子様みたいに地位のある子供は)」だと思う(しつこい)。


アイデンティティというのは「これ、ほら」と取り出せるような形のあるものではない。
多くの自己実現セオリーや本当の自分探しに熱中している人が勘違いしていると思うが、アイデンティティは簡単にいえば関係性である。

関係性がうまく築けなかったら...
アナスタシアは生き延びていたとしても病んだ人物になったのかもしれない。
父親である皇帝には愛人としてのバレリーナがいるし、怪僧ラスプーチンの影響からは逃れられないし、家族全員処刑されるしで。
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