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ラ・バヤデールとオリエンタリズム








ロイヤル・バレエLa Bayadere「ラ・バヤデール」オープニング・ナイト。

先日見たリハーサルと全く同じ主キャスト。
Nikiya-Marianela Nunez
Gamzatti- Natalia Osipova
Solor-Vadim Muntagirov


先日のリハーサルでは、各ダンサーもオーケストラも素晴らしい表現をしたにもかかわらず、どこかまだスムースに回転し始めていず、少々バラバラで、しかも薄い印象だったのに...昨夜の「角の取れ具合」はさすがのロイヤル・バレエだった。


何と言ってもやはりマリアネラ・ヌネツ(Marianela Nunez)の巫女が、宗教的な精神性にあふれ、息がものすごく長く、彼女ほどアダージョを粗なく踊れる人は他にいないと確信。
ナタリア・オシポワ(Natalia Osipova)も、対照的にこの世的な艶やかさと支配欲を表現していてすばらしかった。


「ラ・バヤデール」は「インドの舞い姫」ほどの意味だそうだが、芸術によくある誇張された、サイードのいうところの「オリエンタリズム」はここにも明らかだ。

インドなのか、アラブなのか、トルコなのか。ヒンドゥー教なのか、仏教なのか、ゾロアスター教なのか。
西洋が、「東の方にある、いろいろあって区別がつかないごちゃごちゃの国々」をひとつのイメージに作り上げた実態のない「東洋」。

画一的イメージがこれでもかというほど詰め込まれていて、「まあこれはロマンティックな想像上のどこにもない国のお話なのだわな」と思って見るしかないのだ。

あふれる黄金や宝石、色鮮やかな花や鳥。甘い果物と美酒。人々は透ける美しい絹の服をまとって半裸で、美しい女が退廃的に集うハーレムがあり、偶像を崇拝し、民は素朴で愚鈍...そんなイメージ。

わたしだって旅行に出かけるたびに、いかにその国が美しいかと異国情緒的ロマンたっぷりにセンチメンタルに語るのが常だから、西洋人をどうやって責められよう。遠い外国というのはそういう存在なのかもしれない。


それでもこの作品の中に「蝶々夫人」や「王様と私」ほど、東洋人であるわたしを嫌な気持ちにする要素がないのは、そこに西洋と東洋、すなわち「主体」と「他者」の区別がないからだろうとは思う。

「蝶々夫人」も「ミス・サイゴン」も「王様と私」も「ラスト・サムライ」も「ラスト・オブ・モヒカン」も、ドラクロワもゴーギャンも、「東洋」という実はどこにもない国に、主体である西洋人が貴種流離譚風にやってきて、カオスの中に美を見出し、啓蒙する、というとんでもなく上から目線の話(だとわたしは思う)なのだが、バヤデールにはそのような西洋人は登場せず、すべては「東洋のような夢の国」の中で完結するためだろう。

しかし男性と女性という二項対立はバヤデールにもあり、男性主役の英雄ソロスは2人の女から好かれてどちらにも決められず、それが悲劇の元になるのである。

クラシックバレエの男性主役というのはほとんど常にそういう「どちらの女を取るか態度を決められない」男たちであり(「眠れる森の美女」のジークフリードなど例外はある)、わたしはこの男たちは一種の通過儀礼を受けているからだと解釈しているが、女たちは常に強い意志と深い愛情を持って行動し、最後には男の過ちを死をもって許するにも関わらず、男から選ばれるのをひたすら待つ。


まあこんなことを言っていてはバレエは楽しめない。東洋のどこかにある黄金と花で彩られた国のロマンティックな恋物語の一夜の夢を見るのである。


主役以外にすばらしかったのは2幕で影を踊る3人のダンサー。Yuhui Choe, Yasmine Naghdi, Akane Takada


(写真はMarianela Nunez©ROH, 2018. Photographed by Bill Cooper.)
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