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vlaams licht




藤田令伊著「フェルメール 静けさの謎を解く」は、16世紀オランダの画家フェルメールの絵が、われわれに「静謐」という印象を与えるのはなぜなのかに注目する。

フェルメールが駆使した技術から「静謐」の意図を読み解き、さらにはフェルメールの芸術理念にまで踏み込んだ本だ。

大変おもしろく、寝床の中で一晩で読み終えた。


特に、フェルメールが「静謐な」を描いたのは、絵画から意味を剥奪し、絵画のための絵画を目指したからなのではないかというくだりには鳥肌が立つほど感動した。

「(フェルメールは)現実の再現描写にとどまらない絵を探っていたことを物語っているように筆者には思われる。現実に依拠しない独立した世界としての絵画。何かを手本にしてそれを描くのではなく、絵画それ自体を描こうとした絵画」(4章)


さて、フェルメールはどのように「静謐」を表現したのか。

本書によると:

青基調
少ない色数
少ない素材
穏やかな光
現実感と日現実感の共存
フレーミングで省略される空間の削除

フェルメールはフェルメール「らしい」静かな絵を描くために、ものすごく計算して描いているというのである。

なるほど! その通りだと思う。


当時のオランダ絵画界では、「現実を忠実に再現描写」することが奨励されていたが、フェルメールは

「現実を忠実に描くことより、現実を加工してでも、現実そのものとは異なる別次元の表現を欲するようになった」(2章)

さらに

「<窓辺で水差しを持つ女>あたりからは、さらに画面全体に紗がかかったような描き方も始めている。これもおそらく、実際にそのような光景だったというのではなく、『そのように見せたい』というフェルメールの考えが反映した描き方と思われる。紗がかかったようになった結果、絵は現実からさらに離れ、水の中にあるかのような、異次元的な佇まいをまとっている。そして、それに伴って絵の静けさも増している」(2章)

「フェルメールが現実そのものを忠実に描いた絵はほとんど、いや、まったくないのではないか」(6章)

フェルメールは見えるものをそのまま描いたのではなく、見たいように、見せたいように描いた「芸術家」なのである。


......


しかし、光についてだけはわたしはどうしても言いたいことがある(出たっ!)

フランダースの、16世紀から17世紀に建てられた、まさにフェルメールの絵に出てくるような家に13年間住んでいたわたしは断言したい。

フェルメールの「紗がかかったような」「おぼろな」光だけは、創作でも想像でもなければ誇張でもない、現実そのものである、と。

もちろん実際の光を平面に再現するために多少の誇張はあるかもしれないが、キャンバス上に映ろっているのは現実のフランダースで今も昔も見える光そのものだと思う。

運河がある水気の多い街の空気、小雨の多い天気。
低い雲、雲の切れ目からいきなり顔を出す太陽、常に変わる空の色。
わずかに凹凸がある窓ガラスを通して流れ込む光。
それに反応する白の漆喰の壁。
低い光に、ごく細かいほこりが反射してきらめく。
黒と白の冷たい石の床。

絶対にリアリズムですよ。


藤田さんの本の理性的な話の運び方に比べていきなり感情的な話になって申し訳ないが、わたしはブルージュの義理の両親の家に行くと、誰もいないダイニングルームに漂う光に現実から引き離されたような気分になる。
その奥の薄暗いキッチンに斜めに陽が入り、義理の母が一心不乱にカウンターで作業しているところなど(彼女は黒のパンツスーツが似合うものすごくモダンな女性だが)、まるでフェルメールの静かな絵のようなのである。

フェルメールの絵の上に漂う同じ種類の空気を伝わって聞こえてくるオランダ語の響きや、時間を経過してきたかのような優しい影。

フェルメールはフランダースの光を、オランダ絵画の伝統と、天才的ひらめきと天才的技法によって平面上に再現した。


いつかブルージュの運河が全て埋め立てられるようなことがあったら、光の質は全く変化してしまうだろう。

幸いなことにフランダースには、まだ今も紗のかかったような光が漂っている。



(写真はナショナルギャラリーの2枚のファルメールのうちの1枚、『ヴァージナルの前に座る女』。藤田さんはこの絵は静かな絵としては取り上げていないが)
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