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「芸術とは美的経験を直接的につくり出す記号」




 

今日もロイヤル・バレエのトリプル・ビル(3本立て)を見に行った。

一昨日とほとんどキャストは一緒だったのだが、何度見ても飽きないと確信。

The FireBird by Mikhail Fokine
A month in the Country by Frederic Ashton
Symphony in C by George Balanchine


今、鶴見俊輔の『限界芸術論』を再読していて、しょっぱなからアンダーラインがたくさんひいてある。
バレエは限界芸術ではないが、


「一本のベルトのように連続しているように見える毎日の経験の流れにたいして、句読点を打つようなしかたで働きかけ、単語の流れの中に独立した一個の文章を構成させるものが美的経験である」

「その経験をもつ個人の日常的な利害を忘れさせ、日常的な世界の外につれていき」
「経験の持ち主の感情が、その鑑賞しつつある対象に移されて対象の中にあるかのように感じられる」
つまり
「美的経験が日常経験一般と区別される特徴として、それじしんとしての『完結性』だけでなく日常経験からの『脱出性』をもつ」

と定義してあり、これらはわたしがバレエを熱狂的に好む理由の一つではないかと電車の中で膝を打ったのであった。



The FireBird 、火の鳥役のMayara Magriがほんとうに鳥のようで魅惑的だった。
鳥というのは、バレエでは『白鳥の湖』もそうだが、昔から神の変身した姿、神の使い、聖霊、魂そのもの、死人、あるいはトランス状態における忘我のように「この世ならぬもの」として扱われてきたことを考えるとおもしろい。
不死のカスチェイ(悪役)もまた鳥なのだ。姿形もさることながら、魂が巨大「卵」の中に保存されているのでね...


A month in the Country『田園の出来事』はひと幅の絵巻物のようで、まさに「個人の日常的な利害を忘れさせ、日常的な世界の外につれていき」、「感情が、その鑑賞しつつある対象に移されて対象の中にあるかのように感じられる」のである。


Symphony in Cは、まさに「一本のベルトのように連続しているように見える毎日の経験の流れにたいして、句読点を打つようなしかたで働きかけ、単語の流れの中に独立した一個の文章を構成させるもの」だ。

......


英国の名バレリーナ、マーゴ・フォンティンの生誕100年にあたり、ロイヤルオペラハウスの上の方の階には彼女の使用した衣装などが飾られている。上はそのひとつ、『火の鳥』のチュチュ。

わたしは子供の頃、マーゴ・フォンティンとルドルフ・ヌレエフの『白鳥の湖』と『ロメオとジュリエット』の記録映画に完全に魅了されていたのだった...あれがわたしのはっきりと覚えている「美的経験」の最初だったかもしれない。
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