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Brugge Style
練色のメコン川を渡りつつ
島にあるホテルからボートに乗り、「水の王」メコン川の流れを渡る。
ものの数分で陸側に着く。
タクシーに乗り換えて30分。
マルグリット・デュラスの小説『愛人 ラマン』に登場する邸宅がある。
彼女の、実在した「愛人」の父親所有の屋敷は、映画撮影にも使われた(一番上の写真)。
外見はフランス式、内部は純中華式、当時の華僑は世界の美をこのように見ていたのか...この世のものとは思えないシュールな建物だ。
高い天井、中央には先祖礼拝殿。これだけでも、なぜ華僑の彼にはフランス人のデュラスとの結婚が許されなかったのかがわかる。
80年代、流行りに流行り、わたしも夢中になって文体を真似さえしたマルグリット・デュラスの作風のことは、この40年(!)の間、ずっと忘れていた。
ベトナム旅行に来る前に、メコン川の「水の王」のイメージが頭に去来し、それは映画『愛人 ラマン』で見たものだ、と気がついた。
練色(生糸の色)に輝くメコン川をゆっくり渡る渡し船の手すりにもたれかかる少女の姿。
この映画は、1984年に出版された仏作家マルグリット・デュラス『愛人 ラマン』L’Amantが原作で、92年に、ジャン=ジャック・アノー監督によって映画化にされたものの、デュラス自身はこの映画の出来を「美的すぎる」と批判し、遠ざけたという。
わたしも当時、あの小説がなぜあのような映画になるのか理解に苦しんだ。
デュラスの小説の書き方自体が、現在進行形の映像そのもののようであり、単調なリズムで語られる複雑な時間軸の物語も心地よいのに、なぜ「エマニュエル夫人」みたいにしてしまったのか。
ただ、主演のジェーン・マーチとレオン・カーフェイの儚い美しさを永遠不滅に残したのは功績、と言ってもいいと思う。
それ以外は、メコン川の、一年中、朝から晩まで溶け合っているような偉大な優美さしか残らないメロドラマだ。
しかし、監督は、メコン川の永久に対して、肉体の「儚い美しさ」を永遠不滅にはしたのである。
記憶はその中間に立つのか。
女優ジェーン・マーチは、作家マルグリット・デュラスとは当然別人であるにもかかわらず、わたしがこの小説を再読しメコン川を渡っても、どうしてもジェーン・マーチの演じた美しさ、彼女が見ている視線の先、を追ってしまう。
この川のほとりであのような経験をし、小説にしたのはデュラスなのに。デュラスの当時の写真もたくさん残っている「自伝」なのに。
「15歳」の、マーチとデュラスが区別がつかなくなってくる、いや、デュラスの当時の写真を見ても、なんかこれじゃない...と思えてくる。
いやいや、これはいったい誰の記憶なのか?
デュラスの? アノー監督の? 美しかったジェーン・マーチの? 映画を見た観客の? フランスが支配したベトナムの? フランス式の邸宅、そのなかの先祖礼拝のための祭壇の? それともわたし自身が80年代に見た夢、2023年に回想する当時の自分?
誰の体験なのか、誰の記憶なのか、イメージは誰の姿なのか、まるで前世の話をしているような感じで「海、かたちのない、単純に比類のない海」というような、分け難さ。
まあベトナムの南、メコンデルタで不思議な体験をしたわけです。
ベトナム文化圏でも二重の虹は吉兆なのかしらん。
ベトナム滞在3週間目。これから南シナ海を北上する。
夏は始まったばかり。
一年通してほとんど気温が変わらないベトナムだけど。
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