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夜のガスパール





英国で隔離生活が始まって、明日で8週間目になる。
政府は今夜、今後のプランを発表する予定。

この隔離生活、わたしは基本的に出好きだが、

太陽の光



コーヒー、紅茶などの嗜好品
個人のスペース
清潔な環境

Spotify
インターネット...

他に何があるかな...


があれば、けっこう楽しく過ごせるのだと自分でも感心している。

もちろんこの生活が続けられるのは、フロントラインで粛々と仕事を続けておられる方々の責任感と矜持のおかげだ。


ただ、自分の普段の生活と切り離せない、旅行、バレエやオーケストラや美術作品の鑑賞などは、ネット越しで楽しむことになり、靴の上から足を掻くようなもどかしさもある。

今後の世界は、オンラインなど、物理的な場を共有しない方法が洗練されていくのだろう。
それは思わぬ人やものにスポットを当てたり、距離のある人(例えば有名人)を10分だけグループに招くなどという、わくわくするような方法を可能にするだろう。

われわれ人間の強みは環境への順応性が高いことなのだ。

あれは無理、これはできない、と「できない」「不可能」をベースにするよりも、何ならできるか、どうしたら可能になるかを考える方が建設的で前向きだと思う。


一方、それらは空間を共有して、なまで享受できるものとはやはり違う。
良い悪いではなく、全く別物だ。

先日も書いたが、なまで空間を共有して何かを鑑賞したり、作り上げたりするときは、個人の五感は個人のものではなくなり、個人に還ってくる感覚は増幅器にかけたようになる。

「祭りは、いわば集団で膨らむ時間である。広場に人が溢れ、いつしか空間は膨張し、ときに爆発して、人びとは無時間的な時間を生きる。五感が覚醒され、すべてが投入されてひとつに束ねられる濃密な時空。静かな祭りであっても、そこに流れる時間は張りのある時間だろう」(浜本隆志、柏木治編『ヨーロッパの祭りたち』316頁)


「なま」ということなら、家にミューシャンがいてありがたいとあらためて思った。

わたし自身は下手の横好きで、箸にも棒にもかからない楽器弾きだが、娘は違う。

彼女のおかげでなまの音、場の生成、時間の膨張を楽しむことができる。

もしあなたが歌が歌えたり、楽器が弾けたりするなら幸いである。



上の写真はパリを徘徊中、出くわしたレストラン。店名にグッときた。
なぜならあの名曲が場として存在できるとは想像もせず、ものすごく素敵だと思ったから…

今日は娘がラヴェルの『夜のガスパール』を弾いてくれた。
わたしはベルトランの詩でも朗読しようかな、今夜。

この1月に通りすがった時、ちょうど昼休みどきだったので入ることかなわず、夜は毎夜予約が入れてあったので行けなかったが、次回パリを訪れたらぜひ行ってみたい。
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