goo

rhapsody in red




カー・ラジオから Rhapsody in Red と紹介された曲が流れて来た。

もう一度聞いておこうと、今、Youtube でそのタイトルを探してみたのだが見つからない。もしかしたらそんなタイトルじゃなかったのかもしれない。
強いて言うならば、クリスチャン・ラッセン*の絵のBGMにかかっていそうな感じのイージー・リスニング系だった。こういう曲を「クラシック」だと思っている人も(文化資本のあるなしが著しい英国には)いるのではないか、そんな曲。


運転席の夫がまず「ぼく、こういう曲好きじゃないんだよね」と言った。
わたしは「ラッセンの展覧会でかかってそうな曲じゃない?」と言った。どれだけ嫌いやねん(笑)。
アートの「ようなもの」、クラシック「のようなもの」、そういう「ようなもの」を寄せ集めた低俗な何かである、ということでわれわれ夫婦は同意した。

ええ、低俗なのはわたしたち夫婦の方なのかもしれません。

ラッセンはあのような作風で多くの人を惹付け、曲がりなりにも名を残した。だからわたしには理解できなくても、そこには何か特別なものがある、という認識だけは手放さないようにしたい、とは思う。
例えばわたしは夫の「スタートレック」好きが全く理解できないが(特にTVシリーズは背景を宇宙にしたソープ・オペラである)、大の大人があれだけ魅了されるのだから、わたしの次元では想像もできないような何かがあるに違いない、と考えるようにしているのと同じ。
自分に理解できないものはすべて無意味だと言うなら、文楽を攻撃した某市長さんと同レベルに落ちてしまう。


と、後部座席の娘が突然「あなた方、そうやって下劣というけれど、曲の一つでも作曲できるの? こういう作品を好きだという人の気持ちを考えたことがあるの?」と厳しい口調で言った。

「それは音楽を批判できるのは音楽家だけ、という意味に聞こえますね。素人は感想も文句も言うなってことですか?」「ママの作る晩ご飯が「味が薄い」とか「煮過ぎ」と批判できるのは毎日ご飯を作るママたちだけで、料理をしない家族メンバーはどんな味でも黙って食えということですか? そういうお家がいい雰囲気だと思いますか?」「ある学校が荒廃しているから改善せよと意見できるのは校長先生たちだけですか? そんな学校に行きたいと思いますか?」「私は卵を産めないけど、卵の良し悪しはわかる、とも言います(<ネットで拾った)」、とわたし。
彼女は目には涙さえ浮かべてぷんぷん怒っていた。

しまった、彼女、こういう曲が意外と好きなのかも。

夫は、自分がこの曲を好まないだけで、他の人の趣味をどうこう言うつもりはもちろんない、と諭したが、どうも娘が怒っているのはつまり、普段からわたしがある種の文化を cheesy だ、tacky だとクサしていることへの大反撃のようだった。
例えば音楽で言えば流行歌の真実の愛だの本物の恋だのそういうありふれた歌詞とか...

おそらく娘は高音で歌い上げたくなるような恋愛がこの世にあると思っているのだろう(<言わなかった)。
わたしも大失恋したあの時分、腑抜けて死んでしまうのではないだろうかという絶望を味わい、毎夜スティングやモーツアルトのレクイエムを聴いて泣いていたことがあった...(<もちろん言わなかった・笑)。


流行歌の中の愛だの恋だの、本当の気持だの、真実のあなただの、そういう手垢にまみれた歌詞の大安売りはあまり聞きたくはないけれど、ある程度は仕方がないのである、というのがわたしの意見だ。

つまり、わたしたちの愛、恋、真実、美、永遠などという気持ちそのものが、ありふれたようにしか表現できないような感情なのだ。
われわれの表現の手段は非常に限られていて(この場合は歌詞の構成物である「言語」)、世界でったったひとつの「本当の恋愛」を表現するにしても、今まで使われたこともない歌詞をつけるのはほとんど不可能である。と言うか、われわれはたぶん「恋愛」という感情を、何度も何度も使い回されて垢のついた歌詞によって学ぶのである。ドラマのセリフとかもね。
よって恋愛の歌は何度も何度も溶けては固まったかのような劣悪なアイスクリームのような歌詞になる。それを聞くわれわれの恋愛感情もそのようになる。そんな恋愛感情を歌い上げる歌詞はクサくなる。われわれの恋愛感情はさらにクサくなる...

わたしがタンブラーのサブタイトルにもしているワイルドの「ほとんどの人間は他人である。思考は誰かの意見、人生は物まね、そして情熱は引用である」という寸言はそういう意味だ(自分の考えを述べるためにワイルドを引用している時点ですでにトートロジーだ)。


だから別に流行歌の歌詞が安っぽくて低級で悪趣味でもいいのだ。いや、そうであればあるほどわれわれの「ほんとうの気持ち」を表現していると受け取られて広く売れるのである。


娘はもう無言で車窓を眺めていた。

ママはもう恋愛なんてできないわ、おばあさんだから仕方ないよね、と思われたのかもしれない。




*「ラッセンとは何だったのか? - 消費とアートを越えた「先」」という本が出ているようです。必読ですな。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 観月するDNA eau legere »